オエビ(日記)に行く?→ ★
D I A N T H U S -懐かしいね-
カユキ
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2003年03月17日(月) ■ |
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経験には限界があるから、理解するなんてできやしない |
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推し測れやしないのに。
自分のものさしで 推し測ろうとするから、この不快感は在るのだね。
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今日は中学の同窓会があった。 変わった人々。みんな、大人になったね。 わたしも、あたしじゃないほかの人から見たら、そうなのかな、と ふと思った。
多くの人々と時間をともにすると、自分がいかに卑屈で、尚且つ見栄を気にする性質かを思い知る いつのまにか定着した悪癖は、自分でも不愉快だ。 人が多いところで、誰かと、目を合わせるのは、キライ。 小人数でなら、寧ろ笑みがこぼれるが、人のおおいところではわたしの目付きは悪い。 意識すると気づくが、目がかなり↓に下がって、やる気なさそうだ(爆) 大人数の中、テンションが↓るのは、まあ仕方がないと思う。その時点でダメかな?
人の気持ちはよくわからないよね。自分のものさしで測ったことを、知った気でいるから。 わたし自身だけどね。 心理学より哲学を選んだのは 心理学の先というか心理学で測り兼ねない真理を求めたから 理屈抜き、てゆか・・・よく言葉に表せないものなんだけど。 結局理由をさがしいてるの。自分が生きているための。 自分が、なんのためにここにいるのかを実感するために。 内なる自分が、何を求めているのか見えない。
わたしは、取残されているのかなぁって。
人間が創った世俗を介してこの世界でやっていくことは容易い? けれどもっと根本的に そもそも人間はそんなことのために存在するのか? もっと別に 何かしなくてはいけないことが 在るのではないか。 そうゆう受け止め方は、ナシ?
それとも こうゆう考えを持つことが、取残されるということか。 自分の一番内側のに正直な考え。
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