coordinator - 2003年10月13日(月) 久しぶりの「学級委員」的な仕事に、感覚の上で腰がひけているわたしです。 先日からの院生室のパソコンの管理もその一環ですが。 いえ、部屋長は立候補なしの選挙で決まったことだから、いいんです。 決定方法に不満はありませんし、決まったことには背きません。 任期の一年間はきっちり働かせてもらいます。 そういうことじゃないんです。 自分の属する集団でよりよく暮らしていくために、さまざまな提案をするのはよいことです。 とりわけ人間関係に目を向ければ、仲が悪かったりよそよそしかったりするよりは、和気藹々としているにこしたことはありません。 けれど、同じ目的のために形成された集団とはいえ、学校の中(つまり逸脱があまり許されない枠の中)において「場を共有すること」=「親睦が深まること」と、どうして簡単に言えるのでしょうか? 集団の中にどう入っていくかということも、本当の親睦を考えるのならば、最初の場面では個人対個人の付き合いのレベルから始まるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。 個人としての付き合いの対象を広げていくことで、集団の多くの人とつながるのではないでしょうか。 人間関係の構築をどう捉えるかは千差万別でしょうから、わたしの考えが必ず正しいとは思っていません。 けれど個人的にはそう考えているのです。 もしも「顔見知りになる」ことが大事ならば、「場を共有する」ことによって目的は果たされるでしょう。 春の歓迎会に出席した個人的な理由はそれです。 けれど、あくまで個人的な感覚ですが、もしもあの会がなかったとしても、わたしは今と同じように皆さんと話しているでしょう。 あれ以降、親睦会はありませんでしたから。 いえ、親睦会の存在意義を否定するつもりはないのです。 顔を合わせる機会、接する機会が増えれば、仲良くなっていくのは当然ですから、促進はするでしょう。 うちの研究室がその良い例です。度重なる飲み会で、学生同士はかなり親睦が深まっているのは事実です。 提案に反対しているわけではないのです。 お前の意見はどうなんだと言われるかも知れませんが、こういうとき、わたしはバランスをとりたくなるのです。 提案者の意見がどんな気持ちで出されたものなのかは理解できます。 でも個人的に賛成できない部分もあるのです。 それに、仮に自分が全面賛成できる提案だったとしても、渋い顔をする人がいることが予想できる以上、何らかの詰めの作業を経なければ、話し合いの場には出せません。 この作業に腰が引けてしまうのです。自分がそうしているのに。 責任感のみが原動力です。 今日は「個人的」がやけに目立つ文章ですね。 ひときわおもしろくないですし。 こんな日は高校の軽音のことを思い出します。 就く役職が先輩からの指名で決まる伝統に不満はありませんでした。 でもみんな要望ばかりで、調整する人のことは一切考えていませんでした。 「あの人がやってくれるからいいや」と、皆が思っていました。 自分が壊したわけでもない破損品の代わりを持って謝罪に行った人に、なぜ、一言もなく平気で顔を合わせられるのですか? あの後ライブが継続できたのは、なぜだか知っていますか? わたしは軽音のために存在していたのではないんです。 すぐに辞めたわたしも短気かもしれない。でも。 -
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