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仙台→弘前→秋田 - 2003年06月28日(土)

雨でした。一日中、雨でした。
高速道路は順調でした。が、弘前で高速を降りてから、弘前大学に着くまでの迷いっぷりといったら、もう。
いえ、あたしのせいじゃないですよ。きっと。
「あんた、一回弘前行ったじゃん?」って突っ込みはおいといて。
まあそれでも、間に合って着いたんだから、いいじゃん♪


学会は現職の先生がかなり多かったらしく、「先生っぽい」発表が多かったように思います。
って一つの分科会にしか行ってないけど。
発表20分、質疑応答10分の割り当てで、岩手県の南部の人たちがいかにアイヌへの帰属意識をもつのか、について15分話した先生にはさすがに閉口しました。

けれどそういう私の稚拙な批判はともかくとしても、いつも自分たちが大学で発表会をするときにときどき言われることは、やっぱり大事なことなんだなぁと思いました。
それは、「あなたが研究をして、その成果はどんなふうに教育に役立つんですか?」ってこと。
研究するということそのものは、確かに自分がやりたいからやっているのであって、その意味では「自分が知りたいからそれがわかればいいんだ」という理由づけは間違ってはいないけれど、しかし研究の成果というのは、あくまで、そのことを他者にも知らせることがどれほどいいことなのか、という部分で決まってくるのだということです。

「学校の先生」というのは、何年後、何十年後に結果がはっきりわかることよりも、明日立つ教壇での授業をどうすればいいのか、ということを知りたがる傾向にあります。
それは真摯な姿勢で教壇に立つ先生にとっては当然のことでしょう。だから、自分はこういう実践をした、という報告は、他の先生たちにとっても「いいこと」です。けれど、その実践の検証をきちんとしないで、実践だけが増殖していくとしたら、それは教育にとって、というより子どもにとっては、「いいこと」にはなりえないのではないでしょうか。
私たちは、学校の先生のために研究しているのではありません。
もちろん、だから現場の先生たちの言うことを無視していいとか、机上の空論を展開していてもいいとは思いません。
けれど、自分がやったこと、自分がわかったことを他の研究者や学校の先生に伝えることが、どれだけ「いいこと」になるか、ということは、「明日の授業に使えるかどうか」というところにはあまり存在しないように思うのです。
それは、悪く言ってしまえば、方策あるいはスキルの問題であって、あくまで教師側の問題なのだ、ということです。さすがに若干言いすぎですが。

以前、「実践と研究の間に乖離がみえる」と言った私に対して、「実践できるかどうかは別として、理論的にはこれが正しいのだという主張を正当な手続きで行なうことも、研究ですよ」と言った教授の言葉が、今年になってようやくわかってきた気がする私です。この一つは小さくとも、積み重ねることによって、「いいこと」は必ず「すばらしいこと」になるのだと思っています。


来週の学会はもっと規模も大きくて、難しい発表が多い学会です。
勉強がんばろうっと。
…あ、やる気復活?!



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past  will





Not one night
one single day
that I wouldn't give to you
So with all my might
in every way
I'll try to forget to you

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