「material and immaterial on birth」

明日はわたしの誕生日になる。

「になる、」というのも些し可笑しい表現。或る一定の歳を歴てからはそれくらいまるで他人の結婚記念日のように無関心に無頓着に今まで通り過ぎてきた。此処で、ネット上でわたしを知る人もたぶん、明確な誕生日を知ってくれている人は居ないと思う。おめでとう、とか祝福、とか自分に対するそれは苦手で、照れくさいし、告知してまでもは欲しくない言葉の一つだったので。

もうすぐ誕生日だね、と誰かが何時も言う。ああ、そうだったと何時もそこで思い出す。今年も言われた。何か特別な事をしようと企てている。わたしは面倒そうに別にいいよ、と返す。紛れもない本音であるのに気を遣っているなどと巧く受け取られてしまう。

アレが欲しいコレが欲しいとあまり言わない理由。言ってしまうととても頑張って、無理してどんなものも誂えてくれたりするのを知っているよ。ああけれどね、どれだけ訊かれても何も欲しいものが無い。色んな欲が薄れてきたのもある。物欲などは正に適当に自分で満たせるのだし。けれどたぶん、今有るもの以上に欲しいものが見つからない。そうなのだと思う。いままで、そしていまのところも、愛する人たちの「おめでとう」という言葉だけでいい。誕生日の本質を知る事の出来る幸せがあればね。


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