「父が愛するもの」

家族と仕事、父にはそのたった二つしかないように見えた。

奇麗事を並べる人ではなかった。かといってその逆を賞賛する人でもなかった。ことある事にぶつかり反発した十代。何故、わたしだけに厳しさを求めるのか解らなかった。父はそうやってわたしの成長を願った。人としての視点を間違わず進む事を願った。いま、わたしは父を理解する事が出来る。少ない言葉の中で伝えようとするものを知る事が出来る。そこまで来れた、そう実感している。

当たり前のようで当たり前ではなかった幸福の場面。家族の情景が物心ついた時からわたしと妹にとって何一つ疑わず絶対的であるのは、それを例えば命に代えても絶対的に護ろうとする人が居るからに過ぎない。父は父であろうとする。たぶん死ぬまで。揺らがない存在であろうとする。不安を排除する存在であろうとする。

父と母が大きな喧嘩をした。幼い頃に見ていたものとは格段に違っていた。泣き喚いていた母が落ち着いてぽつりと謝った。それから、祖母が亡くなった時にすら泣かなかったという父がわっと泣き出す姿を見ていた。大切なもの、とても少ない大切なもの。父が愛しているもの。それが崩壊するかも知れないという、絶対的な人の中に初めて見た畏れ。

家族と仕事、父にはそのたった二つしかない。派手なものは何一つなく、その人生は泣けるほどささやかだけれど誇らしい。痛みだけを畏れ、何時の間にか見限っていく事だけを憶えたわたしには未だ到底辿り着けない深さ。


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