「死んでもいいと思えるほどの景色」
5、6年の時の小学校の担任の先生は新米の熱中時代だった。わたしたちはその先生が大好きで、憎まれ口を叩きながらも先生の色んな其々の断片をこの年になっても強く憶えている。その先生が話していた「死んでもいいと思えるほど綺麗な景色」の話を、何故か憶えている。朝、学校に来る時に先生は車から見たらしい。生まれてきてから今までで最高に美しい景色を。それはまるで誂えたように自分の眼の前で時間と共にゆっくりと展がり完成したという。 「それを見て、もう死んでもいいと思ったね」と興奮気味に話しているのをわたしたちは「は?」という顔でたぶん聴いていた。その頃はまだ人間の本質近くで居たわたしたちにはきっと「死んでもいい」というほどの価値など何処にも無く、死ぬなんてそんなおそろしい事と引き換えに出来る物質以外のものへのそんな感覚など想像も出来なかったのだろう。 それをわたしは見た。たぶん、この感覚だ。 淡い色。やさしい色。どんなに価値有る水彩画よりもノーブルに混ざり合った。それを映した川面は乳白色に似た白銀を風に沿い流している。色彩の配色が神がかっている。言葉になど出来ないな。そもそもこの光景に言葉などあまりに陳腐で。なにもかもが輝いている。見慣れた景色すら今まで見た事もないと思わせる。 夕暮れ。あと少し宵闇が翳を連れてくれば別のものになるだろう。今、この時にしか存在しない最高の情景を固唾を飲んで見つめる。何を持ってしてもあらわせはしない、この輝き。何かが起こるのか。もしかすると、わたしは死んでしまうのかも。あまりのうつくしさを目撃してしまった、怖れに似たある種の異様さすらその時、感じたのだ。 感覚は掴めた気がする。でもわたしは死んでもいいとは思わなかった。感動が与えてくれる涙が、ひとしきり心を濡らし精神をゼロへ還したとしても、死んでもいいと思う瞬間に出逢う事はない。けれどそれより心で涙を流していたい。一瞬の至福に殺される美学、それよりも数え切れない感動を死ぬまで憶えていきたい。 |