徒然エッセイ&観劇記
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2003年09月23日(火) 会津若松の旅(2003・9・19〜20)〜鶴ケ城・飯盛山・野口英世記念館〜

先ほど、辛酸なめ子の「自立日記」を読んだばかりなので、文章がそれっぽくなります。なんでしょう。気分が同化すると文体模写してしまう癖があるようです。でもあんまり似ていません。気分だけです。
なめ子辛辣パワーを借りて、昨日一昨日の旅行についてもっと詳しく突っ込みを入れたいと思います。

会津若松駅は、和風屋根でかっちょいいのだけど、駅前は結構閑散としてて淋しいです。平日昼間だからか、たまに観光客がいるぐらいで、街中に人がほとんどいない。昼飯を食べるところがなかなか見つからず、ひたすらうろうろして疲れました。蔵の跡が普通の会社になっていたり、和風の造りの家屋なのにラーメン屋だったりして、歴史を感じるが少しヘンな感じの町並です。純和風の隣りの商店は全く普通の俗な造りだったりするし、第一ほとんどシャッターが閉まっている。都市計画を中途半端に誤った上、景気が悪いのが見て取れます。
最近どこの旅行に行っても、閑散としていて破棄が無く、半分廃墟と化している。永田町の政治家の皆様や、天皇皇后両陛下にも、こういった場所を視察して頂きたいものです。

やっと見つけた「満田屋」という田楽のお店は、庵で焼いた田楽(串にお餅や野菜を刺して焼いたもの)をその場で食べられるお食事処と土産屋がくっ付いていて、壁には関根勤などのサインが並んでいました。まぁどうせ、旅行番組に行った先々でサインしまくってるんでしょうけども・・「店に飾るからサインして」って言われたら断れないし。まったく、芸能人のサインの価値も下がったね。っていうか芸能人の価値自体が暴落してざまあみろだね。
焼きたて田楽はとても美味しかったです。お陰で、後に旅館で出た小さくて冷めている田楽が偽者だと分かり興冷めしました。

その後、バス停まで歩いていたらたまたま「昭和記念館」とかいう、昭和の街並を表現したものが二階にある店があって、行きました。1階でレトロなものを売っていて、二階はお台場の「一丁目商店街」のミニチュア版のような狭い昭和空間が広がっていました。どっちが先なんでしょうか?きっとこっちが先でしょう。昭和が好きで個人的にやっているみたいです。
二階に上がる時に、受付の人に「荷物置いていっていいですよ」と言われて、置いていったのですが内心「何か盗まれるんじゃ?」と心配でした。ちまちましたものを盗まれたら分かりません。結局盗まれはしなかったようです。これが外国だったら、間違いなく置いていくべきではないでしょう。

次は「野口英世青春記念館」です。野口さんが幼少の頃、囲炉裏に左手をつっこんで火傷をしてしまった跡を直してくれた恩師の病院のあった場所で、二階には若い英世が必死に勉強をしていた部屋が残されています。一日3時間しか寝なかったそうです。私なぞ8時間以上寝ないと気が狂いそうになります。
しかしここのパンフは何でしょう?白地に墨刷りの安い作りに、ところどころ絶対外人が描いたイラストが載っています。野口さんの親友かなにかが描いたわけでしょうか?わけがわかりません。
ここへ来た人が感想を書くノートがあったのですが、大抵修学旅行生の「○○参上!」系のハイテンションなくだらない書き込みや「つまんなかった」という愚痴。脱力感いっぱいです。
あぁ、私も「ったく今時の若い子は」って言う年になりましたね。

この記念館の側の通りは「野口英世青春通り」と名付けられています。ここで山内ヨネさんに一目惚れの初恋をしたとか、ヨネさんの実家はここだとか・・・。当世芸能人と同じような扱いで根掘り葉掘りこんな詮索をされてしまうなんて、偉人さん(とその相手方)は大変ですね。ちなみにその初恋は結局実らず、英世は渡米先でメリーさんと結婚。子供には恵まれなかったそうです。惜しいなぁ。英世二世が見たかったぞえ。

それから「ハイカラバス」という洋風な小さいバスに乗って、鶴ヶ城へ向かいます。何故洋風バスなのか、車掌が女性なのかイマイチ謎ですが、観光アピールとしては分かりやすくて宜しい。今回の旅行では、ハイカラバスや会津近辺の電車が二日間タダで乗れて、施設の入場料も割引になる「会津ぐるっとカード」というものを使ったのですが、これが2600円もして、入場料も50円くらいしか安くならず、結局損したのか得したのか分からず終いです。恐いので計算しないでおきます。

鶴ヶ城のお堀を歩いていたら、道の向かいにドギツイ洋風のラブホテルがありました。興ざめ甚だしいです。しかも自動車が何台か停まっていて、大江戸プレイでもしているのかと義憤を滾らせました。旅先に幾人かカップルがいましたが、きっと観光なんて二の次、愛する相手に見とれるのに精一杯なのでしょう。お堀に突き落としたくなりながら、ぐっと堪えてやっとお城入り口へさしかかかりました。
すると向こうから、小学生修学旅行の集団がざわざわとやってきて、今正に鶴ヶ城へ入城しようとしています。私たち家族は「なんてバットタイミング!」と顔に縦線を引きながら、鶴ヶ城を後に回すことにして、庭園を突っ切った先の「荒城の月」記念碑の方へ参りました。
何でも「荒城の月」は鶴ヶ城をイメージして作った歌なんだそうです。昔の光 今何処・・・

小学生を見送ってから、やっと鶴ヶ城に入城すると、早速興ざめです。壁が洋風のタイル調・・・?階段も今まで行ったお城のように狭く急ではなく、不自然に上りやすい。使われている木材も幾分新しいような・・・。そうです、このお城は、一度壊したあとに復元されたものだったのです。
なんでも、元々は残す予定のものだったのですが、あまりに損傷が激しく直すのが大変なので、当時の会津の人は「全部ブチ壊してくれ」と頼んだのだとか。確かに、戊辰戦争直後の写真を見ると、まさにボロボロで痛々しく格好いいです。折角だから原爆ドームよろしくそのまま残しておけば良かったのに・・・勿体無いことをしましたが、致し方ないでしょう。復元御苦労様です。
通路の壁の上の方に、自刃した白虎隊の肖像画が掛かっていて、「普通の中学生をちょっと凛凛しくしたみたいだなぁ」と見とれていたら、ツアーで来たらしい大阪弁のおばちゃんが大挙して追い抜いて行きました。あとで兄に「その頃の下っ端の写真なんて残ってるはずない。後で描いたんだ」と言われて興ざめしました。
天守閣から見る眺めは、何てことない街並と山が臨めるだけで大したことありません。私は高いところから見る風景に元々興味がないようです。

それから東山温泉の「滝の湯」という旅館へ。中流ってとこです。バブルの頃に作ったような安い古さがあります。客室のドアの上には、和風の屋根が仰々しくついていて、やりすぎて寒い気分です。これみよがしに廊下では琴の音が響いています。朝はこれが鳥の声に変わっていて、母親が「本物かと思った。嘘つき!」と怒っていました。全てが何となく安っぽいのです。
客室は、ドアを開けるとすぐ横の玄関に洗面台があるというヘンな作りです。部屋のトイレはウォシュレット付きですが、ナショナル製で、何故か壁に掛かっている説明書は三洋製でした。ナショナルと三洋が一緒にトイレを開発したことなどあったのでしょうか。

お食事は別室の個室で取るのですが、なんだかイマイチ〜。
夜は、向かいの山に設えられた能舞台でやるショウを、ロビーの椅子から眺めることが出来ます。会津の春夏秋冬のアピール映像が流れた後、着物の女性が会津の歌に合わせて舞い、白虎隊の歌に合わせて白虎隊の衣裳を着た人が舞い、堀内孝雄の「愛しき日々」に合わせて着物の女性が舞いました。芸者さんは着物の女性と、白虎隊をやった中学生くらいの子と二人しかおらず、先行きが心配です。
最後に司馬龍太郎の言葉として、「会津藩は藩制度の理想を究極まで実現したもので、会津藩を見ると武士道というものの美しさが分かる」とかなんとか紹介していました。司馬さんの小説をいつか読みたいです。特に「坂の上の雲」・・・

お風呂は小さい浴槽が三つありそれぞれ「ラドン」「ラベンダー」など効能が分かれています。ただの温泉じゃダメなんでしょうか?むしろ温泉じゃないのでは?と疑わしい気分に・・・。露天風呂からは、側を流れている河の流れというか小さな滝のようなものが見えます。微妙な紫にライトアップされていて、何故か虫が白く光って見えます。最初は蛍かと思いましたがライトの効果で光って見えるだけのようです。川べりは虫だらけ。田舎生まれじゃなくて良かったと思いました。
湯めぐりを出来る券を使って、他の旅館のお風呂に入ろうとしたら、八時までで湯めぐりは終わりだと言われ、しぶしぶもう一度ここのお風呂に入りました。洗顔料を忘れたので、顔をボディソープで洗ったら痒くなり、運命を呪いました。
浴衣で寝ると足がめくれて寒いですよね。

翌日は一路、飯盛山へ。まずは飯盛山へ登る階段の下にある「白虎隊記念館」に行きました。遺品や写真などが所狭しと並べられております。二階に白虎隊の説明をする10分アニメが小さいテレビで上映されていたのですが、これがまた物凄く安い!パソコンで素人が作った紙芝居のような造りで、声優も一般人?て感じ。小学生の修学旅行グループが4・5人固まって見学しており、一応静かに見ていましたが、普段現代風アニメ慣れしている彼らからしてみれば退屈で分かりにくいだけだったのでは・・・?そろそろ、どこかの安いアニメスタジオに作り直してもらった方が良いのではないでしょうか?と、白虎隊記念館に意見したい気持ちが抑え切れないのですが、きっと私以外にも沢山の方が同じ意見を述べているはず、となまけることにしました。

さて、やっとこさ飯盛山への階段を上り始めました。母親は、最近出来たという階段脇にある有料エスカレーターに乗っていきました。確かに上まで行くのはしんどいですが、山の上のお寺に比べたらずっと楽な方じゃないでしょうか。観光客に優しい飯盛山。そして商魂逞しい飯盛山です。途中の御土産屋では、猫に手を差し伸べたら引っかかれて鬱。ここから白虎隊の霊魂が憑依したらどうしてくれるのでしょう。

広場に出たら、石碑の前で白虎隊の格好をした人が、白虎隊の歌に合わせて振付をしていて、それを団体の観光さんが見ていました。団体の観光さん限定のサービスらしいです。歌と振り付けは昨日旅館で見たショウのものと同じで、白虎隊の定番のようです。白虎隊になっていた人は、そのあとお土産物屋の売り子さんをしていた、と母がチクってくれました。

団体さんへの案内を横でふむふむと聞かせて頂きつつ、白虎隊が自刃した現場へ行きました。ここから燃え上がる鶴ケ城を・・と見てみると、街並に埋もれて存在感のない鶴ケ城に、丁度赤い鉄塔が被っています。ここから見て、丁度被ってしまう、ということを知りながら、鉄塔は建てられたのでしょうか?憤懣やるかたない気持ちです。観光地をもうちょっと思いやって欲しいものです。
自刃した現場の付近には、一般人(金持ち?)のお墓が建っていて、一番いい位置にどこかの学園の総長の立派なお墓が立っておりました。白虎隊の精神を受け継いだ、立派な教育を施していたのでしょうね・・

さて、白虎隊の話については海外でも感心される方が多いらしく、ドイツとイタリアから送られた記念碑が建っていました。戦後米軍によって、白虎隊に敬意を表する文章を削られたり一部撤去されたりして、中途半端な状態で残っていたのを復元したらしいです。アメ公はそんなことまでしやがったのかと反米感情が湧きあがるのを抑えられません。

会津は、京都・奈良と並び、文化施設が多いので空襲されませんでした。会津の人たちにとってこの前の戦争といえば戊辰戦争なんだそうです。勿論、大戦中、父親は兵隊に行き、家族は貧乏生活を強いられたのでしょうけれども、実際の被害に遭わないと実感が湧かないというところはあるんでしょうね。
白虎隊についてのパンフを買って読んだところ、戊辰戦争は第二次世界大戦末期に似た構図だとありました。例えば最初は採算、和平の試みをしたのに、戦争をしたくてたまらない相手方に断られ追いつめられたこと。勝ち目のないような物量の差で粘り続けたこと。「守りたいもの」のために老いも若きも死ぬ気で戦ったこと。最後はほとんどの人が自害してしまい、生き残った人は寒い青森へ飛ばされてしまったこと(シベリア抑留を思い出させます)
しかし、爆撃がなかったにしては、駅前の街並は他の空襲されて一からやり直したところとあんまり大差ないような感じです。観光地以外は田んぼと蕎麦畑と山ばっかりで長閑なところですね。

そうそう、飯盛山には「さざえ堂」という重要文化財が建っております。中に入ると、斜めにぐるぐる上に登って、頂上に来るとまた斜めにぐるぐる下りてこれるという。同じ道を通らない螺旋の作りになっているところが、世界に類を見ないそうです。ふーん。
なんですが、一番印象的だったのは、その落書きです!壁面の何百年前の古い板木にびっしりと、相合傘やら○○参上やら、家族全員の名前やら、むっちゃくちゃ。中に明らかに大人の筆跡もあり、なさけねぇ気分一杯。ちょっとした悪戯心で、二人の愛の誓いに永遠に残る場所に、とにかく記念に、書きたい気持ちは分からなくもないけれども、文化財が泣いているよぅ。つーか基本的に、人のモンに落書きすんなや。
心当たりのある人は、今すぐ飯盛山に向かって土下座して謝り、今度の休みにさざえ堂に全財産寄付して来い。まぁ、お金あったからって修復するわけにもいかないんだけどさ。お金に替えられない「古さ」を台無しにした代償を贖う心意気を見せろってことで。

それからバスで野口英世記念館へ行き、いろいろとお勉強しました。まずは野口英世さんの生家へ。狭い、小さい、本当に貧乏そうな藁葺き屋根の農家です。そっくり残されているなんて凄いですね。上京する時に柱に刻んだ「出世するまで帰らない!」という内容の文字までくっきり残っています。
東北の貧しい農家の出で、シカさんというお母様が必死に育てて学校へ行かせてくれたそうです。なんとなく、中国や朝鮮の人たちが喜びそうなエピソードだと思いました。このシカさんの存在はとてもクローズアップされていて、野口記念館の前の道は「母と息子の道」とかなんとか名付けられていました。御土産屋ではイネさんが異国に行ってなかなか帰らない野口英世に送った手紙をそっくりコピーした手ぬぐいが売っています。若い頃覚えた小学生じみた字で必死に書かれた文字が感動を誘います。

その後英世は三人の恩師に恵まれ、ぐんぐん出世して世界中あっちこっちで研究を重ね、日本に帰ってきたことは数度しかありませんでした。病原菌の研究ではノーベル賞の候補になっていたんだけども、第一次世界大戦が始まったこともあり、結局賞は逃してしまったということです。賞は取れなかったけれど、その功績は認められているということがしつこく強調されていました。
最後はアフリカで、病気の研究中にその病気にかかって殉職。まさに壱千円札の肖像に相応しい生き様とお顔です。お髭ともじゃ頭に愛着が沸きます。

本来はこのあと五色沼へ行く予定だったのですが、雨のため中止して速攻帰ることに致しました。新幹線は早いな!
大宮駅ルミネで500円の傘を買って、食道の「マツモトロー」で夕飯を食べていたら、側に大学生サークルらしい四人組がいて、一人の女がおそらく自分の彼氏についてギャアギャア文句を言っていました。「あいつちょぉむかつくんだけどー」「何がそういう話じゃなくってだよー」「マジむかつくー」とアホ丸出し口調の乱発に頭が割れそうでした。元コギャルでせうか?子供を産む前に死んだ方が世の為になるかもしれないので、毒電波を飛ばしておきました。一緒にいた母親は気分を害したようで、食事をほとんど残してしまいました。

というわけで全体的に後味の悪い旅でしたが、何より白虎隊と野口英世さんの御当地に行けて嬉しかったです。
偉人さん偉人さん、薄汚い現世の日本人たち(私を含め)を、空の果てから浄化し続けて下さいまし。決して天罰を下さぬよう・・・


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