「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEX|past|will
「静かな大地を遠く離れて」を書きたいと思うことは時々あるけれど、更新のハードルを自分で高く設定 してしまっているキライがあってなかなか文章にならない。でもこれは見過ごすわけにはいかないだろう。
■私の読書日記(『週刊文春』2009年10月15日号) ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。 フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。 ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。
そうきたか、と虚を突かれたと同時に、何かが収まるところに収まったという感じもある。少なくとも このニュースは2006年秋の北海道立文学館の企画展の記憶を呼び起こして明るい気分にしてくれる。 タイミング的に政権交代と相前後しているので、政治的な議論の盛んそうなフランスのお友達の中には、 ムッシュ・イケザワは前政権が支配する日本から政治亡命していたのだと思っている人もいたりして。 「絶対に今の日本に住みたくない」と氏が思っているわけでもないと思うことは、ちょっと救いになる。
札幌は人口比に対して書店が充実している、というのが3年前の滞在時の実感だった。この時代に狭い 都心に大型書店が林立(は大げさだが)しているのはすごい。以前住んでいた名古屋と比べると差が 際立っている。氏がネットではないリアル書店で「狩猟的な本選び」に興ずるのにも充分な環境である。 つい最近3年前の滞在で買いこんだ北海道関連の本の一冊を書棚から引っぱり出して読んだところだった。
佐藤忠悦『南極に立った樺太アイヌ 白瀬南極探検隊秘話』(ユーラシアブックレット)が、その本だ。 山辺安之助と白瀬中尉を主人公としたノンフィクションで、薄いブックレットながら読み応えがある。 極地探検が盛んだったのは今からちょうど100年ほど前。ピアリーの北極点到達が1909年、南極点の 到達はアムンゼン隊の1911年である。極点には到達できなかったが白瀬隊が1912年。日露戦争後 から第一次世界大戦に至る前、探検への情熱や名誉と諸帝国の領土的野心とが綯い交ぜになった時代の話だ。 もちろん、この本に手を伸ばしたのは「氷山の南」の連載がはじまったからである。
■新連載小説「氷山の南」がスタート! 作家の言葉 「若い主人公が冒険にいどむ。彼は南極海の氷山を運ぶという大がかりなプロジェクトに こっそり潜り込み、氷海を行く船の上でとんでもない試練に出会う。 船の人々は国籍も宗教もさまざまで、反目も多く、ずいぶん怪しい奴(やつ)もいる。 そこに不思議な信仰を持つグループが登場して……。 純白の巨大な氷山を仰ぎ見る体験を共有していただきたい」
密航少年の行動を追うプロローグは懐かしいターリクを思い出すし「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」 の主人公の面影も感じる。ヘリコプターの操縦マニュアルが役に立つ展開もあるかもしれない。 が、何より目をひくのはムックリを携えたアイヌ系の少年という設定だろう。 海を見たことがなかったけれど、列車に乗ってオホーツクまで流氷を見に行ったというエピソードを読めば はてさて厳密な距離計算はしていないけれど彼の故郷は十勝かはたまた二風谷だろうかなどと考えてしまう。 白瀬隊が到達した「大和雪原」に彼のムックリが響く場面もあったりするのだろうか。なかなか楽しみだ。 関係ないけれどこんなことなら、このお芝居を見逃すのではなかった(主演は今井朋彦さん)。
■「TERRA NOVA -テラ ノヴァ-」(2004年 文学座アトリエの会) 20世紀初頭、地上に残された最後の知られざる地、南極。「人類初」の名誉と栄光と生命を賭けた 壮絶なレース。探検史に残る熱き人間ドラマが、今、鮮烈に蘇る!神の住む白き大地に足を踏み入れた男達。 1910年、スコット大佐はテラ・ノヴァ号に乗って南極探検に出発する。5人の英国隊は重い橇を引き、 1年半後、苦難の末に南極点に到達。しかし、そこにはノルウェー国旗が立つ。失意の5人は帰路につくが・・。 アムンゼンとの南極点初到達競争に破れ、極寒の大地に倒れたスコット隊の悲劇― その「世界最悪の旅」を通して、未踏の極地に挑む人間の誇りと苦悩を描いた問題劇です。
『氷山の南』で興味深いのは、2016年という近未来の設定であること。 連載が終わって単行本化されて文庫化されて新刊書としての賞味期限のサイクルを終えても何とか近未来、 というくらいの加減の時間設定だ。僕が子供の頃には小松左京『復活の日』や昭和基地からの衛星中継などで 南極を割とリアルに感じていたが、近年はかえって「環境問題」というカテゴリーの抽象的な背景としてしか 意識してこなかった。船と冒険という(挿絵のタッチのせいもあってか)昔の少年活劇小説めいた仕立てで 南極を描くことで、小説というジャンルの「おおもと」を再び生き直す試みになればおもしろい。
■高山宏「はじめっから詐欺」より(『かたち三昧』所収) 『ロビンソン・クルーソー漂流記』(一七一九)を書いたダニエル・デフォーはその時代の典型的な相場師 だった。この名作はある漂流船員の「冒険(アドベンチャー)」を名乗るが、この語、冒険と「詐欺」の 両義を分かち持つ。当時大流行の「企画(プロジェクト)」もそうだ。ガリヴァーがしきりと「企画家 (プロジェクター)」と呼ばれたがっているのも同じである。
最初の小説とも言われる『ロビンソン・クルーソー』をはじめ、『ガリヴァー旅行記』や『宝島』『闇の奥』 『八十日間世界一周』など何れをとっても船と航海と未知なる世界の物語だし、『秘密の花園』『若草物語』の ような物語にも貿易や植民地や戦争といった背景が登場人物の運命を左右している。 少年の日に物語を読み初めた作家にとって、小説という世界認識の道具(その多くは英国製)は船と海と島と さまざまな国籍の登場人物が綾なすタペストリーなのだろう。 須賀敦子さんの書棚にも少年冒険小説が少なくなかったという。航海することと小説を読むこと、それが隣り 合っているような知の在り方の時代があったのだ。『エンデュアランス号漂流』を愛した星野道夫の気配も在る。 「純白の巨大な氷山を仰ぎ見る体験を共有していただきたい」という抱負からは、『白鯨』も連想される。 ますます『楽しい終末』が再読されるべき時代にあって「その先」を描いてくれる作品になることを期待しつつ 深まり行く札幌の秋、そして冬を思いながら連載を追って行こう。
|