「静かな大地」を遠く離れて
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題:260話 栄える遠別20 画:蝶番 話:初秋の日射しが樹冠から下生えの草の上にきらきらと注いで美しい
だんだん暖かくなっていく。去年アテネで買った生成りのコットンの服を、 先日自分で染料を買ってきて風呂場で染めた。色は当然、スカイブルー♪
きょうは啓蟄だという。季節感なんて緯度や気候でまるっきり違ってしまう。 まだ北海道に在住していたころ、トウキョウに3ヶ月以上の長期出張をして そのあとの休暇をオキナワで過ごした、ということがあった。その年の僕は、 図らずも大好きな秋を追いかけて南下しつづけ、ずっと同じような気候の中 に身を置いていた。24℃の竹富島で思ったのは、札幌へ帰ったら真っ白な 雪の世界だな…ということだったけれど。北海道で24℃の空気に身を置く には、あと何ヶ月待てば良いのだろう、そんなことを考えたのを覚えている。
北海道の近代史は、北洋漁業の歴史でも炭坑の歴史でもある、しかし何より コメを作ることへの挑戦の歴史だったのではないか。品種改良、作付け方法 の工夫、 道具の開発…、内地とは異なる、稲にとっては厳しい条件の数々を 克服して、静かな大地をコメの産地に変える壮大なプロジェクト。食糧増産 の流れの中で、後に「減反」が行われる前の時期にはきっと現在よりもっと 沢山のコメが作られたのだろう。全道に数多ある、日本各地からの移民たち が作ったムラには、星の数ほどの篤農家たちが居て、農業試験所あたりでは 「プロジェクトX」ばりの努力と挫折と試行錯誤と歓喜があったのだろう。
それを現在の視点から否定することは出来まい。アフガニスタンでブルカを 着ける女性の選択を蔑ろに出来ないように、蝦夷が島でコメを育てることを 選んだ人々の選択を、文化を、人生を蔑ろにすることも出来まい。それとも コメは戦争に携行することの出来る軍需物資であり、それを増産させる国策 に従って稲の生育に不適な土地での米作を強いられた可哀相な人々…とでも 見るのか。そこに“被害者”が居るとしたら、鮭を捕ることさえ禁じられて 自らの選択を、文化を、人生を蔑ろにされた人々、それだけは確かだろう。
静かな大地と空に見合う暮らし方、そのエレガントな解もきっとあるはずだ。 三郎や志郎が幻視する“ユートピア”は、いまだって未来圏の風の中に在る。
もうすぐ春。桜の咲く道を散歩したりする、温帯の春の至福を噛みしめよう。 そして熱帯にも寒帯にも至福があることを想おう。もちろん、空色の上着で。
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