「静かな大地」を遠く離れて
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2002年02月21日(木) |
演劇アンタッチャブル |
題:246話 栄える遠別6 画:レース編み 話:栄えるところに妬みはついてまわるものだ
題:247話 栄える遠別7 画:飾りボタン 話:馬の心などはいつになってもきれいなものなのだが
巽先生の新刊がやっと入手できたので、“フィクションとしてのアメリカ”という切り口で 書こうと思ったけれど、ま、未読でもあり、読み出すとまた面白くて騒ぐと思うので今夜は 紹介に留める。なお、これは『ユリイカ』誌に連載された「<南北>の創生」をベースに、 徹底的に加筆訂正し、終章「モビィ・ディックの世紀」を加えたもの。『ユリイカ』の巻頭 連載と言えば、かつて超英文学魔・高山宏師が『ふたつの世紀末』としてまとめられた連載 「ぱらふえなりあ」を書いた枠でもありますな。
■巽孝之『リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社) (帯惹句より) その瞬間、世界は劇場と化した すべては1世紀半前、当代の名優が観劇中のリンカーンに向け放った銃弾から始まった。 演劇的想像力が世を覆い、大統領暗殺は、アメリカのみならず、世界全体へのテロリズム となるだろう。20世紀前半の再評価を経て、いま新たなるリンカーンの世紀が始まる。 (あとがきより引用) かくして、時代が再びリンカーンを中核とする演劇的想像力の方向へ回帰していくのを うすうす予感していた矢先、二〇〇一年九月十一日にはニューヨークとワシントンDC の国家的中枢を襲う同時多発テロが起こり、予感は確信に変わってしまった。十九世紀 中葉、いまだ元首という頭脳と国家という身体から成る政治的主体が信じられた時代で あれば大統領個人の脳髄を狙ったであろう凶器が、二十一世紀初頭、指導的個人を高度 情報ネットークそのものが上回り、それ自体が国家的営為と化してしまった時代には、 実質的に政治経済軍事を司る構造そのものに向かって放たれる。だから、ブッシュ大統 領が「これは戦争だ」と宣言した瞬間、わたしは知らず知らずのうちにこう言い換えて いたーー「これこそ暗殺だ」と。 (引用おわり 巽ゼミ公式HP http://www.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/)
17世紀オランダでも18世紀英国でもなく、19世紀アメリカこそは、グローバリズム という妖怪に姿を変えて、21世紀に入った現在なお我々を取り巻くリアリティである。 とりわけ19世紀半ばすぎの日本の歴史的運命を左右した南北内戦=シビル・ウォーの 時代、すなわちメルヴィル『白鯨』の時代に“演劇的想像力”という面からアプローチを 仕掛ける(らしい<なんせ未読ゆえ(^^;)本書は、2000年の秋に“予感”を胸にして 生まれて初めてアメリカを訪ねた僕の「宿題」を片づけるための力強い味方になりそう。
それはそうと…、今日は“演劇的想像力”というものが、とことん体験的、いや肉体的な ものであり、台詞の威力の驚異を味わわされた夜であったことをぜひ書き添えておきたい。 観たのはこちら↓。
■自転車キンクリートSTORE公演「OUT」(PARCO劇場) 原作・桐野夏生、脚本・飯島早苗、演出・鈴木裕美
平日のソワレ、今日はなんとか観に行けると思っていたのに仕事が予想外の運動会状態(^^; こぼれたフォローは明日するつもりでどうにか走り抜けて劇場に駆けつけた。原作ありの 作品で上演時間が長いとは聞いていたのだが、一瞬の弛みもなく最後まで観せられた感じ。 長い原作を処理するためか、登場人物が劇中の随所でモノローグに入るの作りなのだが、 圧巻はラスト、主演の久世星佳さんと千葉哲也さんの二人が舞台に並び立ってはじまった 息をもつかせぬ“二人語り”。クライマックスの立ち回りが、逆に“語り”で描写される ことで、本を読むのとも、アクションで観るのとも違う、深い浸透度を実現していたのだ。
役者という生き物の獰猛さ。台詞というものは素人が軽々と触ることのできない禍々しい までの威力が備わっているのだ、と空恐ろしくなった。物語のテーマの現代性とか描写の 巧拙とか、そういうものも大事かもしれないが、今夜はそんなことはブッ飛んでしまった。 特に千葉哲也氏の実力には感嘆。今後、彼の舞台には何を於いても駆けつけたい思いだ。 決して叫んでいるわけではない、つぶやくように喋っている台詞がどうして届くのだろう?
ここでは朗読とか、演劇的メソッドとかの効用を面白がって称揚してきた感があるけれど、 あれは半ば冗談というかアイロニーがこもっているのだ。素人が触るのが危険な領域かも。 大体、台詞を喋るというのはトランス状態になる巫女のようなものだから、大した準備も なくやってはイケナイ秘儀の世界ではないか。そう、朗読や台詞は「取り扱い危険物」だ!
天才でもない限り、「専門家」の指導を受けた鍛錬を行ってから触るべきものだと思う。 戯れ言としてならともかく、本気で扱うなら「演劇リテラシー」の底上げを100年でも かけて行うべきだろう。僕はここに提唱する。厚生労働省は朗読と芝居を禁止せよ!(笑) そのときこそ、地下活動として行われる演劇は、目眩く危険な快楽の世界となるだろう。
さて土曜日は南果歩さんの一人芝居、驚異の小説まるごと上演の「幻の光」を見に行く。 変に影響されて深夜に台詞を絶叫したり、ぶつぶつ呟いたりしないように気をつけよう。 野田秀樹さんの「キル」初演を観た時のように(^^;
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