「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月23日(土) 那覇〜千歳便の悦楽と90年代の「病」

題:12話 煙の匂い12
画:梅干し
話:「父上、うちは蝦夷に行きますか」(父の兄)

『BRIO』誌の「アマバル日誌」近況欄によると、北海道取材へ頻繁に
行かれている模様。つくづく“自分のため”に本を書く人だなぁ(^^;
日本最長の航空路線「那覇〜千歳便」は一度だけ乗ったことがあるけど、
すごく高価で贅沢な路線だ。正規だと欧州や北米へ行けるくらいかかるが、
日本の脊梁山脈を貫くように飛ぶので、たいそうパノラミックでよいのだ。
九州を抜け、模型のような屋久島のこんもりした山容を見下ろし、馬毛島は
どこだったかと、わかるはずもないのに目を凝らし、南西諸島を点々と
伝いながらオキナワ本島にいたる。運賃に見物料も込み、な路線なのだ。
しょっちゅう乗れるもんじゃないけど、一度は体験されることをオススメ。
日本が大きな国だとよくわかる。

北海道と沖縄の気温差は大きい。僕が乗ったのは冬だったので、北海道の
自宅からダウンジャケットを着て出て、そのままそれを持って那覇の空港で
タクシーに乗った。年輩のドライバーに「内地からですか?」と問われて、
「(うっ、北海道は「内地」ではないよなー、けど自分はヤマトンチュ)」
とかわけのわからない内的逡巡があったあと、北海道から来たことを素直に
告げた。そうしたら何だか“食いつき”のいいこと!あとでいろんなとこで
話してもオキナワの年輩の人は「北海道から」というとヤケに感激して、
実際行ったことのある人は旅の想い出を陶然として語り、行ったことのない
人も、憧れの眼差しを禁じ得ない。北と南はつながっている。
それが一体「どのように」つながっているのか、それを硬軟聖俗いろんな
座標平面で考えてみるのも、この日録のテーマのひとつだ。

ここ数日の睡眠不足、と言っても職業のせいだけではなくてこれを書いてる
せいなんだけど、ともかく睡眠を補うべく朝ダラダラしてたら仕事上の緊急
の電話が入って泡を食う。こういうとき職場と自室が近いとラク(^^)
あわてて出かけたものの、その件を片づけたら他に進められることもなく、
結局明日も一寸行く必要が出てきた。思いがけずシャキッとした状態で昼に
フリーの時間ができた。トラブルがなければ午後までウダウダして疲れが
かえって抜けなかったりしたパターン。これ幸いと、気になっていた芝居の
予定を急遽入れて六本木へ。交差点近くの俳優座劇場へ駆け込む。

今日の芝居のチラシより。
 東京芸術座制作「NEWS NEWSーテレビは何を伝えたかー」(作・平石耕一)
 1994年6月27日 松本サリン事件が起こった。
 その日からテレビ各局の「ニュース戦争」が始まった。あれから7年。
 結局、テ・レ・ビ・ハ・ナ・ニ・ヲ・ツ・タ・エ・タ・ノ・カ……
東京に先立って長野でしばらく上演されたらしい。
熊井啓監督の映画「日本の黒い夏ー冤罪ー」の原作、とも書いてある。

平石耕一さんは、今ドキちょっと面食らうくらいにストレートに社会問題を
扱う劇作家さん、という印象だけを持っていた。今回の芝居はメディアの問題が
遡上に乗せられることと、サリン事件そのものへの関心、あるいは事件の忘却の
され方というか、90年代という時代への距離感の取り方、みたいな視点でも
関心が持てそうだったので、時間が許せば観たいと思っていたのだ。

内容はとても面白かった。長野の高校生にも見てもらおう、という意図もあって
上演時間もタイトだし、適度にわかりやすい引っ張りを入れながら作られていて
好感を持った。法廷劇ではないが、ある事件の経緯を探りつまびらかにしていく
プロセスが上手く描かれた舞台や映画というのはなかなか日本にはないものだ。
しかも事件が飛ぶような早さで「消費」され風化する世の中で、こうして近過去
のことを巻き戻してヨイショコラショと考えてみる、しかも小難しくはせずに、
そういう情熱と技術には尊敬の念を覚えた。

時代が平成に入って湾岸戦争などを潜り抜け、93年くらいまでの妙に危機感と
明るさが入り交じったような空気。それと平成大不況、いわゆるバブル崩壊。
そして“日本が見た最悪の悪夢の年”95年。あれからもう6年が経っている。
あれ以前、僕が前にトウキョウに住んでいたころはフリッパーズ・ギターとか
聞きながら、鼻歌交じりに浮薄な日々を送っていたような気がする。

いま思うに93年に一度自民党政権が瓦解して細川政権が出来た時、あのときが
何か重要なチャンスだったのではないか、それが誰かの失策で失われたのでは
ないか、そんな気がしている。あの時もう少しマトモに事態を進めていたら、
現在の小泉政権のカラ騒ぎなどという事態はなかっただろう。
誰か、というのは例えば小沢一郎氏とか細川護煕氏とかそういう個々人ではなく
もっと相関関係の中で起こったことなのだろうが。だが彼らの罪も重いと思う。

劇中でサリン中毒の症状についての描写があった。あれとて村上春樹の分厚い本、
『アンダーグラウンド』を読んでいなかったら、古ぼけた時事ネタの復習として
しか認識できなかったのだろう。数日来、「物語」のことばかり話している。
『アンダーグラウンド』、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』などで語られた
村上氏のものの考え方の推移は、僕にはとても納得できる。「物語力」の練度を
高め、誰もが「物語リテラシー」を高くしておけば、ジャンクな物語に足下を
すくわれるのを避けられるのではないかという、物語る側からの真摯な回答だ。

僕が北海道にいたのは93年の夏から99年の夏までの6年間。
このころ御大は『週刊朝日』の「むくどり通信」連載を主要な仕事として、
後に『ハワイイ紀行』や『未来圏からの風』にまとまる仕事をしていた。
『マシアス・ギリの失脚』を終えて、次の「長い話」が7年後になるとは
思わずに、沖縄の時事に深入りしていった時期でもある。
畏友・星野道夫との交感を深め、96年夏に彼を失い、埋め合わせるかの如く
『旅をした人』にまとまる量の原稿を書き紡いだ時期もあった。
そうした御大の90年代の彷徨は『花を運ぶ妹』と『すばらしい新世界』に結実。

作家の90年代は、どんな時代であったか?
オキナワとホシノミチオ。物語作法、作劇テクニック、そういうものではなく、
「生きる」こと、そのものの層に作用してくるような大きな存在。
これらの体験が後にあって、背中を押してくれなかったら、ライフワークの
「北海道」に着手するのがこんなに早くはなかったのではないか、そう思う。




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