ずっと以前、「援助交際」ブーム(?)の頃、複数の知人でそれについて話していて、ふと、
「10代の女の子の事ばっかり問題になってるけど、男の子は何をしてるのか?」
と疑問になって、一同首を傾げたことがある。
ちなみにその場にいたのは、赤ん坊のいる既婚者が1人、
後は私も含めて20〜30代独身ばかりだったので、
10代の素行についてはさっぱり見当がつかなかったのである。
だが、それからしばらくして神戸の酒鬼薔薇事件が起こったので、ああ、そういうことか、
とかつての疑問が氷解したものだ。
今回、先日の長崎の12歳少年の事件に引き続いて、小6少女4人が監禁されていた事件が
起こった。不明の小6少女4人を都内で保護 監禁容疑の男自殺
これもまさに対象的な10代男女の性と生のあり方を示しているようである。
ひとことで言えば「抑圧」と「開放」である。
男の子の方が内向きで陰にこもったマイナスのエネルギーを発している。
この監禁容疑者の、自殺したと見られる男はどうやら援助交際を斡旋する会社をやっていたらしい。
すると、「大人の猥らな毒牙にかかった可哀相な少女たち」という典型的図式が成立しそうだが、
少し違うように思える。
例えばある少女の自宅には、この容疑者のやっている「アルバイト」のビラが残されていたとのことだし、
また、彼女たちは「(遊ぶお金は)ブルセラショップで稼ぐから大丈夫」と
友達に言いふらしていたそうである(名塚元哉さんの「あんた何様?日記」より情報を得ました)。
つまり、その「バイト」が援交である事まで想定していたかどうかはわからないが、
自分たちの「性」を売る・売れるという事に関して彼女たちは、十分確信犯だったわけだ。
従って、少なくとも「何もシラナイ無垢な少女」ではあり得ない。
こうした少女たちは社会の風潮に踊らされている事は確かだが、
しかしもはや既にそういう社会である以上は、ただ単に社会や大人の責任ばかり
云々しても始まるまい。
ふた昔前なら少女売買春というものは、新聞の見出しで「小学生が売春」などと、
売る側の「性の無軌道振り」を主体にして報じられたものだ。
でも現在では「教師が小学生を買春」のように、買う男の責任を追及するのが常道である。
なるほど、法的にはまぎれもなく買う方の犯罪だし、そして需要供給の法則から言っても、
欲しがる奴がいるから売るのである。従って確かに、少女の性を求めるスケベオヤジどもが専ら悪い。
・・・とフェミニズムはここ20年、説いて来たし、私もそれに同感だったが、
しかし今や、「どっちが悪い」と言う段階は通り越しているのではないか。
社会に組み込まれた12歳少女は、自分の性がいかに高く売れるかを知っているのだ。
子供も既に、単に消費社会の客体であるばかりでなく、積極的な参加主体でもある。
「自己決定」や「自己責任」という事への自覚と認識が、今ほど個々人に問われている時代はない。