今週の脚本の野村さんはガンダムSEED23話を書いた方ですね。私も以前SEEDサイトをやっていたので(既に過去形)この方のお名前は覚えがあります。 SEED23話は種50話の中ではだんとつトップでよく出来たお話でした。 この回は脚本の出来が上々で、突っ込み所が見当たらず感想を書くのに大変苦労した記憶があります。 よく仕上がっているほうが感想が書きづらいなんて、なんとも嫌な性分ですね。 SEEDは総括して言うと、うける設定、うけるキャラクター、うけるキャラデザ、うけるシチュエーション、うける音楽、 うけるキャストと、「うける要素」をだた並べただけという印象が強いアニメでした。 個々の設定は魅力があったり、その場面だけをくり抜いて見ると面白かったりするのですが、全体を通しでみるとだめだめなアニメでした。 とにかくまずシチュエーションありきといった感じで、そのシチュエーションだけを描いて、そこに至るまでの経緯が不明だったり、立派な設定だけこしらえて、作中でをそれを説明することをしなかったり、脚本の都合でキャラクタがその都度変わったり、話の前後に繋がりが感じられなかったりで、整合性というものが存在しなかったのです。 そして従来のアニメが、そうした要素は話を構成する一要素にすぎなかったのに対し、SEEDの場合はガンダムSEEDという作品そのものが、うける要素を入れる「入れ物」として用意されている点が他とは違う新しい点でした。 また作っているほうが、思い入れたっぷりに語っていて、客観的知性さというものがどうにも感じられないのも特徴的でした。どう、驚いたでしょう?どう、凄いでしょう?と自分で自分の作品に酔っているような同人っぽさが漂ったのも気になったところです。 しかしながら、それは逆に言えば、部分部分は拙くなく、楽しめる部分もそれなりにあったと言えることになるかもしれません。批判される個所も多ければ、支持される個所も多く存在したとでも言えばいいのでしょうか。 猛烈に批判される一方で、多数のファン生んだのもまた事実でした。 各種メディアに登場した監督の発言も、いろいろと物議を醸し出しましたけれど、それは裏返せば自分の作品に対する思い入れの強さがなせる技だったのかもしれません。少なくとも、監督夫妻がどのキャラクターが好きか、どのキャラクターに思い入れを込めているかは作品を見ていてはっきりと伝わってきました。 またスタッフのこだわりといった個所も隋所に伝わってきました。 さらに視聴者の財布の紐をゆるめる商戦も狡猾かつ盛大に行なわれました。 視聴者はあざといあざといとわかっていながらも、その策略に乗ってしまったものです。そしてそれは放送終了後の現在も引き続き行われています。 思い入れもなければこだわりもなく、視聴者が何を望んでいるかも理解せず、うける要素もないエリア88アニメ。 ああ、そうだよ、SEEDはまだましだったんだ。 アスランは・・・まだましだったんだな・・・・・・
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