Espressoを飲みながら

2006年01月09日(月) 妙な納得

 なにか特定の仕事とか、なにか特定の役割をはたしてがんばっている人を見ると、えらいなあとは思うけれども、自分では決してなにか仕事や役割を持ちたいと思ったことはない。お金が必要だから働いたということは確かにあるし、気がついたら、後から考えてみれば、あの時の僕はああいう役割をはたしていたのかなあと思ったりすることはあるのだけれども。

 幼稚園に通うような年の頃には、すでにこの社会全体に−もちろんその年で社会全体なんか見えるわけがないから、目に見える範囲の全ての社会に−大声で"No"とは叫ばなかったにしても、内的、感覚的には"No"というフィーリングしか持っていなかったような気がするのだ。幼稚園、学校、道行く人々、病院、家族、親戚、道路、車、近所、警官、工事現場、ありとあらゆるものが気に入らなくなっていた。

 毎日見ているうちに、減感作療法的に反応は弱くなるのだけれども、社会的なことに関しては今でも同じ拒絶反応のようなものが、僕の細胞の中にはあるように感じられる。楽しみは純粋にプライベートな暮らしの中にしか見つけられないように思う。

職業というのが社会全体の活動の中で一定の役割をになうことであるとするならば、今動いているこの人間社会全体が気に入らない私は、やはりいかなる職業も本質において気に入らないだろうなと妙に納得するのであった。


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空遊 [MAIL]

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