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私の季節
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2001年10月15日(月)
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私の季節が終わった。
毎年この時期になると、色んな思いで切なくなる。
昼より寒めの早朝6時半、現場にいた頃はこんな時間に出勤だ。
ヴー...寒いなぁ〜行きたくないなぁ〜眠いなぁ〜。現場に行っても寒いんだよなぁ〜。毎日毎日そう思いながらの通勤だ。
この頃の秋から冬にかけては本当に苦しい毎日だった。
起きるのも辛い。起きても辛い。現場に行っても寒い。三重苦
そんな辛く、寒かった毎日を思い出し、嫌ぁ〜な気分になる。
学生の頃、スキー授業はマイナス31度、2時間遅れ(注1)の時でも実施されていた。
嫌々学校に向かい、バスに乗ってスキー場に行く。
他のみんなは、どんなに寒くとも大抵ワクワクだ。持ってきた蜜柑が凍ったゼィ〜等と言いながらはしゃいでいる。反対に私は憂鬱極まりない。あんな寒いところに、どうして板滑りなんかをしに行かなくちゃいけないのだろう?いくら寒くてもバレーボールとか創作ダンスとかやっていた方がよっぽど良い。バスの中で、私はいつも憂鬱だった。
スキー授業がある北海道、そんな場所に生まれてしまった私は、どれだけ自分の運命を恨んだだろう
スキー授業があるからこそ、冬になると体育の成績も下がった。やるせない
そんなスキーと寒いのが大っ嫌いな私に、スキー授業の日、悪夢が起こった。
その日は2時間遅れの日だった(つまりマイナス31度以下)。午前中は自由時間など無い為、先生やCクラスの同級生達と一緒にワーだとキャーだのすってんコロりんしながらのろのろと滑っていた。
『よ〜し!もう一本滑って昼にするゾーーー!!』先生が叫んだ。
最後の1本だ!やったゼ!その1本さえ滑ればお昼ご飯!昼からは自由時間だ。下の方で子供達と一緒に米袋(よく滑る)尻滑りが出来る!やっとその時が来た!と喜び勇んでリフトに乗った。
そして........、リフトが停止した。
悪夢だった。本当に悪夢だった。当時はまだ、Cクラス(注2)の人間が滑れるようなコースのリフトにフードなんて気の利いた物は付い ていなかった。
私達、Cクラスの人間のみ極寒リフト上で、30分以上置いてけぼりにされた。
風がピューピュー吹いていた。
雪こそは降っていなかったが、リフト横に盛り沢山生い茂っている木に降り積もっていた雪が、風と共に私たちの顔面を直撃していた。
手袋さえ凍っていた。おかげで指も悴んでおり、ポケットに入ったカイロさえ取り出せなかった。
元々凍傷気味の足の指さえ痛くなり、もしかして私、このまま死んでしまう?本気でそう考えた。
この時のスキー授業は本当に辛かった。
寒くなると、必ずこの辛かったスキー授業の日を思い出してしまう。
そしてもう一つ。これは思い出ではなく、現在進行形なのだが、冬になると彼の汗の臭いを嗅ぐチャンスが減る。
私は、彼のクリィミィで時々スッパな汗の香りが好きだ。
夏は狂った様にくんくん嗅いでいる。
彼がシャワーを浴びる度に残念な気持ちになり、香って来る時間が待ちきれなくなる。
今はもう、こんな涼しいせいで、嗅ぐって来る時間が日増しに長くなってくる。
これが冬になってしまうと、もっと待たなければならない。そう思うととっても残念でならない。
私の季節は終わった。
注1:『2時間遅れ』とは?
北海道は寒い。わかりきっている事だが、とにかく寒い。それに増して私の実家は盆地の為、寒いときはすこぶる寒く、暑い時は泣きたくなる程暑いと言う、海も無いのに冬と夏を十分に満喫出来る様な場所だった。
そんな訳で、冬マイナス25度以下だと2時間目の授業に間に合うよう学校に行けば良く、マイナス31度以下だと3時間目の授業に間に合うよう学校に行けば良かった。
なんだか知らないが、こんな決まり事があった。
私たちは毎朝NHK6時50分のニュースで今日の気温をチェックしたものだ...
注2:『Cクラス』
まぁ、わかるだろうけど一応。
スキー授業は1学年全員で行く、レベルがバラバラなので、特A,A,B,Cクラスに分かれる。
さすが北海道ダケあり、Cクラスは一番人数が少ない。
Bクラスが100人以上、Aクラスが50人以上いるのに対し、Cクラスはたった10名程度だった。
普段、人(男限定)を馬鹿にする事を生き甲斐にしていた私だったが、スキーの時は小さくなっていた。
私がトロトロ滑っていると、Aクラスの奴らは、ここぞとばかりに激しく雪を舞わして止まり、私に雪をぶっかけて行った。勿論、追いかけたりなんか出来ない。あっという間に小さくなっていく奴らの後ろ姿を睨む。それが私のわずかな抵抗だった。
冬は屈辱の季節でもあったんだ。チクショウ(思い出してムカムカ)
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