武ニュースDiary


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2013年08月04日(日) 容貌の衰え論議について

日が変わってしまいましたが、昨日の続きで、ちょっとした話題を拾ったものです。
ひとしきり続いた(今もあるけれど)金城「老けた」報道ですが、
これに関して、韓松落という中国の作家がエッセイを書いています。
なんでこんなに大騒ぎするのかに、この人なりの解釈をしたものです。



城武、レオナルド・ディカプリオ、キアヌ・リーブス、ジュード・ロウといった人たちが、
最近、しょっちゅう一緒に引き合いに出され、
外見が変わった、老けた、太った、生え際が後退したと言われている。

時間に逆らえると考えるような愚かな者はいないが、俳優はいつもその期待を寄せられている。
彼らの職責の1つが、すなわち老いないという幻覚を創り出すことなのだ。
幻覚であるから、必ず消えねばならない。

1つ前の世代の人間、またはそのまた前の世代の者は、
既に彼らの当時のスターが老い衰えたのを目撃し、運命と諦める経験をしている。
彼らが口を閉ざしているのは、それが揺るがせぬ定めであり、
にもかかわらずかつて幻想を抱いたからである。
消え去った幻想は常に秘密なのだ。

今の世代は、自分の時代の男神女神の老いを受け入れ始めたばかりである。
つまらぬことに大騒ぎするのは、まだ自分自身を振り返るひまがないからだ。
これが時間の切っ先で、その鋭さはこの上ない。

金城武のマネジャーは、釈明せざるを得なくなって、こう語った。
「年齢が異なれば、状態も異なるものです。
彼に永遠に20才のままでいることを求めることはできません」

金城武本人も人を介して口を開いた。
「他人に外見を褒められようと神経や金を注ぎこむより、
社会の人々にとってもっと意味のあることに使った方がいい」

そして、その後、ジョン・ウーの映画「太平輪」のクランクインの儀式に出席したが、
ニュースの焦点は彼の体型が前の通り健康で美しいかどうかにあった。
みんないささか戦々恐々としていた。
恐れていたのは彼の老いではなく、彼の老いがはっきりしたら、
必然的に自分自身の老いがあぶり出されることだったのだ。

もちろん、老いは逃れることはできないが、
一歩譲って、老いてもいいけれど、それが表に出て(挂相)はだめなのだ。

挂相というのは北方の方言で、いくつも意味合いがある。
1つは、心が浅く、物事をしまっておけないことを言う。
喜怒哀楽がすぐに顔に出て、麻雀で勝てば笑顔になり、負ければふくれっ面になる。
また、体が力が足りないという意味もある。
酒に弱く、ほんの少し飲めば顔が真っ赤になったり青くなったりする。
あるいは病気がちで顔色が悪い。

また、人が似ていることにも使う。
家族で、息子と父親が似ているのも「挂相」と言う。

「挂相」は身体的な要因や、感情、健康の程度が外に現れることなのだ。
一番よく見る意味は、今挙げたいくつかの説明の総合やそこから派生したもので、
人の性格、経歴、職業が顔に出ることを「挂相」と呼ぶケースだ。

我々が芸能界の人間に求めるものは、非常に矛盾している。
彼らが道楽し放題の世界にいることをはっきり知りながら、
そこでの経験が面に表れてほしくないのである。
あるいは、表れても、もう少しゆっくり、もう少し後になってほしい。
あるインタビュー番組で、司会者が李宇春に、彼女がキャバレー出演しないのはいいことだと言った。
その理由は「1カ月、2カ月なら大丈夫な人もいるが、長くなると顔に出てくる。
仕事が顔に出る。ああいう生活も人に必ずある痕跡を残す」というものだった。

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』はそれゆえ、
芸能界(あるいは強烈な欲望をこやしとする業界すべて)を読み解くための
読み物と見ることができる。
美少年ドリアン・グレイの登場シーンはこうである。
「真っ赤な、柔らかい曲線を描く唇、まっすぐな青い目、カールした金髪。
……若者の全ての率直さと純粋さが全てそこに表れていた。
彼は世俗の汚れなど受け付けないと人は感じる」

見てほしい、ここでの重点は、決して容貌そのものの物質的な美ではなく、
「世俗の汚れを受け付けない」ということにある。
この美少年はすぐに欲望の渦の中に身を投じてしまうのだが、
幸い、彼は自分の肖像画と、ある不思議な関係を作っていた。
彼の境遇、彼の内心の残忍さ、偽りがすべてその肖像に反映され、
彼自身はいささかも損なわれないが、最後には徹底的に崩壊してしまう。

これこそが、まさに芸能界の残酷なところである。
スポットライトの下の人間は、肖像画の助けのない状況で、汚れ、捨てられるのを待つことになる。
この過程で、我々は彼が欲望の深い海に身を沈めながら、
その純白の清潔さを力の限り維持することを要求するのだ。

このような要求は隠されていると同時におおっぴらであり、善良であると同時に残酷でもある。
まるで綱渡りを見て、綱を渡る者が落ちないよう願いながら、
彼にこの興奮でいっぱいの道を歩かせているのは、自分たちが見物するからこそであることを
完全に忘れてしまっているようなものなのである。
和迅網 2013.7.15


   BBS   ネタバレDiary  1:15


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