武ニュースDiary
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2006年04月04日(火) |
海外ブログから(ある記者の思い出話) |
大陸のファンが、面白い話がブログに載っていると教えてくれていたものですが、 筆者はマレーシアの記者のようです。 芸能人に会った印象記をいろいろ書いていて、これは金城武の項。
人が上り坂になるときは、何をしても良く映る。 人は素敵に変わり得るものだが、それはその者の独特な持ち味がある場合である。
歌手出身の金城武は、アイドルと言えるけれども、それを決して好んではいなかった。 日本の血の交じった面立ちは、当時の芸能界では、困難が多かった。 そのころの流行りは、ジミー・リンやニッキー・ウーといった、活発できれいなアイドルで、 金城武はその中に混じって、ややどっちつかずの感じがあった。
人々が彼の独特な持ち味に気がついたのは、 ウォン・カーウァイ監督の「恋する惑星」が最初である。 この映画を見直して気づいたのは、金城武が実はあまり表情を変えないのに、 そのメランコリックな雰囲気が、たちまちあたりに発散されることだ。 彼が顔を上げると、アジア中の女性の息が止まる。
その後「天使の涙」に出演し、レオン・ライのような天王さえも、 あの憂愁の素晴らしさには抗することができなかった。
真に金城武が光芒を放つようになったのは、 日本に行き、ドラマに出演したあの時期である。 他の香港台湾の男性スターとは、もうレベルが違っていた。 この頃の金城武は、ちょうど冒頭で言った通り、 何をしようと良く見え、良い味があった。
私は香港のある公開イベントで彼に会ったことがある。 そのとき、彼はまだ日本に進出していなかったが、 ウォン・カーウァイの2本の作品で香港映画界に足を踏み入れていた。 イベントの主役は彼ではなかったので、記者たちは短いインタビューを済ませると、 他のスター達に注意を移してしまった。
金城武は片隅でコーラのカップを持ち、 のんびりと周りの人の行き来を眺めていた。
「私はマレーシアの記者です。 取材させていただいてよろしいですか?」 もともと取材リストには、金城武の名はなかったのだが。
「ええ、先にお手洗いに行ってくるので、待っててくれます?」 私が質問内容を用意しながら待っていると、 後ろから金城武がいいですよ、というように、私の肩をトントンとたたいた。
そこで私は彼についての知識を総動員して、彼とおしゃべりをした。 「おしゃべり」と言ったのは、正式なインタビューではなかったからだ。 私の質問はばかみたいで、これはどうして、あれはなぜ、と尋ねるだけ、 ファンの方がアイドルについてはもっとよく知っていただろう。
金城武は仕事の夢や、感情面や、生活態度について語った。 インタビューを終えるとき、私は彼に、早くマレーシアに来てくださいよと言った。 というのも、「金城武」の名は、マレーシアで火がつき始めていたからだ。
彼はマレーシアでの思い出を話してくれた。 それはまだ人気者になる前、「只要你和我」のプロモーションで マレーシアを訪れたときの興味深い話だった。
「マレーシアでの記者会見にぼくは遅刻してしまったんです。 宣伝担当の人は、道路が込んでいたからだって言ったんですけど、 本当の原因を知ってます? (私は首を振った)それはね、会社の人がぼくには車を用意してなかったので、 宣伝担当の人と一緒に 街頭でタクシーをつかまえなくちゃならなかったからなんですよ。 なかなかつかまらなくて、それで遅刻してしまったんです」
なんと、これはほんとに面白い裏話だ。 数年後、その宣伝担当者に金城武の思い出話のことを話すと、 彼はきまり悪そうに言った。 「仕方なかったんですよ。 そのころは彼も今ほど人気者じゃなかったから、会社も予算をとってなくて。 人気者でないとそういうものなんです」
下っ端時代の金城武は、とうに昔の話である。 (張国様的文字花園 2006.4.2)
BBS ネタバレDiary ★ 17:00
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