武ニュースDiary
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2005年03月01日(火) |
陳可辛監督インタビュー |
「Perhaps Love」についての大陸の、監督インタビュー記事ですが、 いつ行われたものかはよくわかりません。 部分的に、以前読んだのと全く同じ一節がまじっているので、 少し前のものなのでしょうか。でも、違うところもあるのでご紹介。 この映画は「LOVERS」とはまた違った「挑戦」なのかもしれないなと ますます楽しみなのです。
金城武はもっと壊れてほしい ジョウ・シュンはマギー・チャンを思わせる
「私は『如果愛』というタイトルは満足がいかないので、 今、新しく別の名前を考えている最中です。 この前思いついたのは『紅(ホン)』です」 インタビューが始まったとき、ピーター・チャン(陳可辛)があまりゆっくり話すので、 カメラが長回しになってしまう。 ――紅とはある状態、それともある感覚? 彼のためらいがちな口調はまるで、秘密を明かそうとしているかのようだった。 「記憶の中で、私は本当に愛したのだろうか?」
もし、この言葉にぴったり合うものを彼の作品中で探すなら、 「ラヴソング」こそそれだと言う人がどのくらいいるだろう? 流行歌にロマンティックな夢を見て、目が覚めてもまだその心持ちは残っており、 体は力が抜けた状態で、誰が今日明日を思い煩おうか。 「必要なのはそのような、醒めてもいるし、酔いしれてもいるような時間なのです。 自分が心奪われていることはわかっていて、それをとめることはできない。 だから、『如果愛』のテーマは忘却と記憶。 ジョウ・シュンは忘却を、金城武は記憶を象徴しています。 全体の感じは『アトランティスのこころ』(勿忘我)にちょっと似ていますが、 イー・トンシンの『忘不了』にもよく似ています」
ジョウ・シュンはマギー・チャンを思わせる
記者 「如果愛」で表現したい愛とはどんなものですか?
陳 ジョウ・シュンは記憶することを好まず、病的に記憶を消してしまう。 金城武は記憶することをよろこび、やはり病的な方法で心に留める。 本当のところ、記憶の中で、我々は真に愛したのだろうか、 そういうことを探りたいと思っています。
記者 この映画は、7年前の「ラブソング」の続きだそうですね?
陳 そうです。私は違う手法で同じことを表現するのです。 シウクワンとレイキウが香港に行ったのは、相手のためでは決してなかったのですが、 ラストの再会は2人を戸惑わせます。愛はいつもあざむかれるものなのです。
記者 それなら、ジョウ・シュンとマギー・チャンをどう思いますか。
陳 ジョウ・シュンは私に「ラヴソング」のマギー・チャンを思い出させます。 マギー・チャンは文化や土地に束縛されることのない俳優です。 彼女をどこにおいても、OK. パリでもかまわないし、ニューヨークでもロンドンでも大丈夫。 私は、内地には、このような特質をもった俳優は大変少ないのに気づきました。 時代劇では大変きれいな女優はいますが、現代劇を演じさせるとあまりよくない。 ジョウ・シュンは最高の俳優ではないかもしれないが、 このマギー・チャンの特質を備えています。
記者 この映画で1番の難題は何ですか?
陳 1番心配なのは金城武です。というのも、回想部分では彼はやっと20歳だから。 20歳というのは1つの状態ですが、ジョウ・シュンはやりやすい。 北漂一族の服装をさせて、顔を赤く化粧すればその感じが出てくる。 金城武にはもう少し自分を崩してもらうことが必要です。 「不夜城」よりももっと壊さなければいけません。
記者 初めて内地で撮る映画に、なぜミュージカルを選んだのですか?
陳 主な理由は内地の観衆の好みを考えたということです。 私はアクション映画は撮れません。アクションで愛を描き出すことはできない。 それなら歌と踊りを使って愛を際立たせよう! ということです。 それと内地で映画を撮っても、人は十分すぎるほどの理由がない限り、 映画館には行かないということを発見しましたよ。
記者 どんな理由が必要かわかりましたか?
陳 今内地で本当にヒットしているのは、いくつかのコメディと武侠物です。 恋愛映画はどうかといえば、人はディスクを買って家で見ようと、まず考える。 だから私は、華麗な歌と踊りのシーンによって、観客を映画館に呼びたい。 映画の華やかな美しさ、壮麗さを、大スクリーンで感じ取ってほしい、 そしていつのまにか、その中の愛の物語に感動していてほしいのです。
記者 内地の映画をどう思いますか?
陳 以前は、内地には商業映画とそれを撮る監督はとても少ないと思っていました。 今、内地の映画市場はようやく動き出したのだと思います。 モデルが出来上がらないうちは、ここには刺激と挑戦がいっぱいです。 フォン・シャオガンが香港のスターを巧みに使いながらも、内地の話を撮るような、 そんなやり方でやれば、両岸三地の観客をみな満足させることができるでしょう。
記者 あなたは、妥協せざるを得ないと感じていますか?
陳 香港の監督は1人1人がみなプロデューサーですから、どうしようもありません。 あなた方は非主流の映画も撮ることができる、ここは人がたいそう多いから。 香港ではだめです。香港の人口はわずか600万です。 アメリカにはウディ・アレンが存在しうる。 しかし香港は人口に比例して言うと、ウディ・アレンを見る人は3,4人だけ。 もちろん、ウォン・カーウァイは特例です。 彼は商業的な手法を用いて自分の物語を語る。 だから、香港の監督は妥協しなければならないときもある。 でも妥協は決して悪いことではないのです。 (新快報 2005.2.28)
BBS 2:00
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