武ニュースDiary

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2003年12月05日(金) |
International Man Of Mystery② |
昨日の続きですが、金城武の経歴を語った部分には、間違いもあります。 例えば、デビュー・アルバムが失敗だったということなど。 以前、大陸サイトの文章で、不遇の下積み時代があった――と 書いていたのもあり、お話としてはドラマチックですが、 この辺りについては、台湾発の情報が一番正しいでしょうね。 その他の部分についても、そのつもりで読んで下さい。
ただ、以前、カム・コクリョンがウォン・カーウァイに武を推薦したことについて 書きましたが(2月17日と18日のDiary参照)、 彼が武に注目したきっかけがわかったのが、収穫です。
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日本人の父と中国人の母の間に、1973年10月11日、 台湾で生まれた金城は、 混血であるゆえに、幸せでない少年時代をすごした。 かつての香港の娯楽雑誌に、こんな彼の言葉が載っている。 East Move誌の記事である。
「2人の兄と僕は、両親が台湾の他の親達と〝違っている〟のを誇らしく思っていた。 周囲の人間が、それをしんどいことにした。 近所の子は、例えば、父親が中国人でないと言って、いつもバカにし、 僕を〝日本人〟と呼んだ。中国人の血だって流れているのに。 中には遊んでさえくれない子もいた」
台北日本人学校のクラスメートたちまでが、 彼を、その出自ゆえに受け入れることができなかった。 「半分は日本人なのに、彼らは僕を中国人だと思っていた」 という金城の言葉が紹介されている。 「彼らは、どうして僕みたいな中国人の子が 日本人学校に来ているのかわからなかったんだ。 近所の子ども達のように、僕が混血だからって 遊びたがらない子もやっぱりいた」
金城の歌の師匠である陳昇が、 弟子の名前をアニキ・ジン・チャンウーと変えたのは、 おそらくそのような台湾における民族的偏見を考えてのことだったろう。 当時歌手として頑張ろうとしていた 20歳の金城のレコーディングのプロデュースを、 陳昇が担当することになった1993年のことである。 この計画はうまく行った。 アニキ・ジン・チャンウーは同じ年、ポリグラム(現在は ユニバーサル・ミュージック・グループの一部)と契約をしたのだ。
しかしながら、金城のデビューアルバムは大失敗だった。 挫折の後、このルックスの良い少年は、 エネルギーを台湾と香港のテレビコマーシャル方面に振り向け始めた。 やがて、幸運の女神が、声望ある香港の俳優・脚本家・監督の姿を借りて 彼のドアを叩いた。 甘國亮=カム・コクリョン(「キラー・スネーク」「パープル・ストーム」)である。
「私は阿武(金城の愛称)のテレビCMを見て、 この少年は何か普通と違うものを持っていると思った」 カムの言葉である。 「多分それは、彼の中の日本と中国の血と、悲しげな顔のせいだろう。 きちんと育てれば、こいつは国際的スターになれるかもしれない、 と、私は直感した」
そこでカムは金城を、異才で知られた友人の監督兼プロデューサー、 ウォン・カ-ウァイに紹介したのである。 「カーウァイは阿武をすぐ気に入った。 彼はそのとき『恋する惑星』を撮影中だったので、 阿武をその映画に使うことにした」 後の話は知っての通りである。 (完) (Galaxie 2003.10.17-30号)
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