(仮)耽奇館主人の日記
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2006年03月27日(月) 奇岩であるために。

うちの、寝起きしている部屋の柱にかかっている、母方の菩提寺の浄土宗は浄林寺(新潟県上越市)のカレンダーの三月の標語は以下の通りである。

とらわれを離れて彼岸へ

英語だと、

Cast off your prejudices and seek enlightenment

お彼岸の間は、ほとんど不眠不休で、映画、会社、お寺と連日連戦だったが、人生における「とらわれ」との闘いに慣れている身なので、何とか生き延びることが出来た。
人は、私も含めて、ありとあらゆる「とらわれ」にがんがらじめになっていることで、生きることが辛く、苦しい。
世間体や自分自身の欲求から醸し出される、もろもろのしがらみ・・・。
そこで、若い檀家たちへの説法で、闘い方について説くために、奇岩を持ち出した。
奇岩。
普通に四方から眺めて、同じような形をしている岩ではなく、どこから眺めてもそれぞれ違った形になる岩のような人間になるべきだと。
「それって、多重人格っすかね?」と檀家の一人。
「そういう言葉を吐くってことが、まさに、のっぺりしたつまんねぇ岩なんだよ!人間は元々、二重にして多重なのさ。あたりめえのことをいちいち声高に叫んでるのが、昨今のつまんなさでな。何も普通にふるまうこたあねえ、善人、常識人ですって顔をしなくたっていい、まず一回、本性をまるだしにして、てめえの奇岩を作り上げることだな。そうして、後は、ゆったりと暮らしてな、色々な角度で眺めてもらえばいいんだ。その方がずっと楽な生き方だし、また、面白い人生が送れるぜ」と私。
「酒飲んで、実は酒乱だったことがバレるとか?」
「そう。それも含めて、全部さらけ出しちまやいいんだ。ひとつぐらいは隠してもいいが、いくつも隠してると、キツイからな」

・・・・・・

剛さんと話してて、いつも口にしていることだが、だからといって、奇をてらって、いかにも私は普通じゃない、ヘンなんですって顔をしているのは、ただのカッコつけなのだ。
それでは角ばっかりで、叩けば脆く崩れてしまう岩でしかない。
カルトだとか、サブカルだとかを気取ってる連中に、そういうのが多く、私たちも同じ仲間として扱われた時もあったが、自然に離れていった。
私たちのやってることは、確かに奇怪さが際立っているが、私たちは奇怪さについて語ったことなど一度たりともない。
人間についてしか語らないし、また、愛について語ることを最大の仕事としている。
知人、友人は、私が愛と平和をまともに口にすると、大丈夫か?などと余計な心配をするのだが、剛さんや、家族たち、若い檀家たちはちゃんと分かってくれている。
のっぺりした、つまんない岩じゃあ、言うことなど、まともに聞いちゃくれない。
だが、私のように、奇岩を目指して生きているものの言うことは、それなりに耳を傾けてもらえる。

山から崩れて、川で転がって、丸くなっていくもの・・・

海岸が割れて、波で洗われて、尖っていくもの・・・

そうした岩々より、溶岩が地表を突き破って、燃え、うねり、這い回りながら、そのまま固まった岩の方が・・・

はるかに人間くさいし、愛を語る説得力があるのだ。

南無、奇勝景観たれ。合掌。

今日はここまで。




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