FayeBlue
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2004年08月06日(金) 母なるものは偉大なり




中学の頃、そうちょうど思春期真っ盛りの頃は

母親と話すことが大っ嫌いで

ひどいかもしれないけど母親が嫌いだった

母親の何が嫌いだったのかと聞かれても

特にどこがって訳でなく

どちらかというと母親とアニキの仲良さに

嫉妬してたんだと思う






『中学1年の時の面接の時にね、

千葉先生から家が嫌いってメモに書いてあります

FAYEは学校ではよく話すし友達も多く

皆に好かれてる存在なのですけど、家では話したくない

と言ってるみたいですけど、何か問題でも?って

言われた時はどんなにショックだったか。』と今でも母親は言う








中学1年の先生はうちのクラスメート全員が好きだった

クラスが一致団結してたうんといいクラスだった。

楽しかった

でも家に帰るのがうんと嫌だった

誰も聞いてなくても1人で勝手にあーだこーだと話すアニキ

だから夕食のテーブルでもアニキの話題ばかり

自然と母親もアニキの話しを聞く感じになってしまう

でも子供の頃の私には母親は私なんてどうでもいいんだって

かなりネガティブに考えてたんでしょうね

かつだからって甘える事を知らない上に素直じゃない私は

強がり、聞いてくれないならいいよ、話さないよ。

でも心のどこかでやっぱり聞いて欲しかったんだ

だから先生にSOS信号を出した

それだけはよく覚えてる









あの頃はよく母親ともケンカしてた

母親の言う一言一言に腹を立て、

感情的になり、なんでわかってくれないの?と思いつつ

口ではケンカを売るような言葉を私は吐き出す

『あの頃はいつFAYEが不良の道に入っていくか

いつ家に帰ってこない日がくるかホントいつも心配してたのよ』

いつだったか母親は私にそう話してくれた

その話しを聞いた時正直驚いた








確かにあの頃はいつ出ていってもいい状態だったし

たまに外出歩いては遅く帰ってきて怒られてた

母親の態度は心配してるってよりは

“出てくなら出てきなさい”的な所あったし、それに加え

“出て行くなら意地でも連れ戻すわよ”的、脅しさえもあった

確かにあの頃の母親は怖かった

長年バレーアタッカーで鍛えた右手からの顔くる

平手は今ではAbuseと言われてもいいくらい

すごいものだった。

それでも女の子の顔は大事という気持ちが母親にもあったのか

アニキを平手する時の音と強さといったら並みではなかった

一度何をしたか忘れたけど、

アニキの顔右半分がパンパンに腫れ

真っ青になったほどの一発平手を見たことがある

泣きながら一発入れたのだ








まぁこのAbuse的脅しが効いていたのか

結局私も小心者だからか

母親の怖さに確実に負けていて

小さな悪をして平手一発ぐらいの事だけで

さほど悪の道に入り込むことなく中学を終えたっけ。

子供の私には決して心配してる様子なんか悟らせることがなかったから

私は驚いた、まぁ心配しない親なんていないかって今は思ったり。

まぁでも中学3年間は母親とはホント口を聞かず

でも母親が私に探りを入れてる所があり

それがまた嫌で、余計口を聞かず

口を開けたらケンカ

親子して素直じゃなかったんだ

そして生意気な子供だった私

恥ずかしい事とかみっともない事をを母親に知られるのが

恥ずかしかった所も私にはあった気がする








いつそれから仲良くなったかは

きっと専門学校に進む時だ、高校3年の時。

何気に進学校に通っていたFAYE

ほとんどの子が大学に入るって中私はアメリカに憧れていた

資料とかを1人で集めて高校卒業後直接行くか

専門学校を通して行くか、お金はどうするか

親は賛成してくれるのか

1人で色々考えていた

どうするにも親に伝えなくてはならず

でも直接話すには何だか恥ずかししどう伝えていいかわからず

私は親に手紙を書いた

日本の大学には行かずアメリカに行きたい事書いて

確かキッチンのテーブルの上に置いておいたんだ

その後は気が付くまで私は知らんぷり

次の日の夜母親と父親が私を呼んだ

決してお金持ちではない我が家なのに

両親は私のやりたい事をサポートすると言ってくれた

専門を通してアメリカに行くことにし

東京の専門学校へ1人寮暮しをすることになった

専門学校の奨学金制度を甘く見ていたFAYEは見事に

奨学金をもらうことが出来ずクラスは4Bというのになった

1から4のクラス分けがあって

私はどういう分けかクラス分け発表の日

教科書等を買いに行った後

教科書の多さとから4Bが一番下のクラスを思っていた。

半分悔しく、半分安心していた

その日母親に『クラス一番下みたいだった、ゴメンね』と電話をした

『どのクラスでも頑張ればこれからでしょ』と励ましてくれた母親

初めての東京暮し

寮に住んでいてもルームメイトがまだ来てなかったから

知ってる人もいないしホームシックになってた







学校初日

クラスルームに行き先生が挨拶と共に

『この4AとBは一番上のクラスです』と言ってた

ちょっと頭が混乱した

また運悪くというか

その日座っていた席の周りの子達は

いわゆる優秀生ばかりで一言目にはどこどこの国行ったことある

とか訳分からんアメリカの音楽の話しとかしてて

私は1人取り残された気分だった

そしてうんと不安になったのだ








アメリカに行きたいと漠然とした気持ちで決め

昔から外国音楽が好きだったとか

映画が好きだったとかそんなのないし

日本国外なんか一回も出たことない私

周りはその反対で、私はもしかして場違いな所にいるのでは?

そして早速だされた宿題やスピーチを皆の前でするという

授業内容を聞いてかなり不安になった

その日家に帰って母親に電話した






『今日学校行ってきたんだけど、4って一番上のクラスだった。

皆周りの人は海外経験とかあって、英語もペラペラ話せるし

なんかクラスでは皆の前に立って

英語でスピーチしなくちゃいけないし・・・・』

ボロボロ泣きながら公衆電話から掛けていた

その時母親は

『あらいいじゃない。英語を学びに学校行ってるんだから

間違ったて恥ずかしい事じゃないでしょ?

英語の出来る友達が周りにいるならラッキーじゃない

FAYEなら出来るから何、泣いてないで頑張りなさい』

背中をポンと押された気がした








きっとこの日からだ。







母親の前で悲しいとか辛いとか少しずつ言えるようになったのは。






専門も慣れて友達も沢山できて英語を皆の前で話すのも

別に何とも思わなくなり

あっという間に一年が終わってアメリカ来た。

アメリカいる間に母親は離婚し、再婚

アニキも結婚して、父親は入院中

家族バラバラになったのがきっかけで

アメリカ来て離れたのがきっかけで

母親と沢山話すようになった

その間にいつからか母親の態度が変ったのだ



今までは引け目を感じていた私が

“あれ?何かお母さんFAYEの事信用してくれてる?”

“一個人として見てくれてる?”みたいなのを感じはじめた

私にはそれが何となく嬉しかったのだ








年に一回だけ日本に帰り、1週間とか一緒に暮して

もちろんケンカしたり口論するけど

いっつも日本からアメリカ帰る時

新幹線のホームで目を真っ赤にして涙を流す母親







前はファックスか国際電話での連絡だったけど

最近はコンピューターでメールを覚えた母親

メールでの母親の文章はとても暖かい

会社での愚痴や自分が思ってる事をメールでたまに送る

返事がかえってくる

朝会社でメールをチェックし

母親のメールを見るとどうしても泣いてしまう

それくらい暖かいメールを送ってくれる母親

そしてそんな母親を持った私は幸せだと1人思う

最近になってやっと私は母親の偉大さを感じる

ぐーたらな父親だった父をずっと支え

子供にだけは普通の生活をさせたいと母親が倍働き、

家の中の事を全てこなして、うちを切り盛りしていた

今自分が社会人になり仕事へ行き、週末に時間があっても

週一回家をきれいにすればいい方だ。

毎日それをしていた母親はすごいなと思う。

母親は家族を壊して申し訳ないと言う、

実家をなくしてしまって申し分けないと謝る

母親が幸せならいいんだよと心で思う






どの母親もやっぱりスゴイんだと

母親の感というのはほんとスゴイと少しずつだけど思う

年のせいか今までは一度も離れている事淋しいと口にした事がない母親

最近のメールでは淋しいとメールが入る

どうやって親孝行をすればいいのか

何かベストなのか私は分からないけど

少しずつだけどちゃんと伝えていこうと思う




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