FayeBlue 目次☆過去☆未来
LA来てからも夜更かし、不規則な食生活。 相当疲れが溜まっていたのか、とうとう今日ダウンしてしまった私。 今朝早くおなかの痛みで目が覚めた私。 キリキリ痛む胃とゴロゴロ鳴いている私の腸。 トイレへ行くとくだしてました。 さらに昨日の食事をすべてもどしてしまった。 くだしては、もどして、一眠り。 そしてその数分後にまた くだしては、もどしては・・・のその繰り返し。 朝出しきった私の胃と腸は落ち着いた様に見えたけど、 まだおなかが痛む。 今日は出かけるのをやめ、一人で言えで横になっていた。 すると今度は頭がボーっとし始め、顔がほてりだした。 どうやら熱も出始めたらしい。 一人で眠っていると電話がなった。 TELに出ると私の母からのTELだった。 母:「眠ってたの?」 私:「う〜ん、今日体を壊してしまって・・・・。 熱もあるみたい。」 母:「そうだったの・・・・。」 その時の母の声が妙に暗かった。 母:「あのねぇ、おばあちゃん今朝4時くらいに亡くなったのよ。」 私の熱でもうろうとしている頭では 最初母が何を言ってるのかよく分からなかった。 母:「今日27日(日本では)に息をひきとったの・・・。」 と言って、母もたまっていた感情と共に泣き出した。 やっと理解した私はそれでも信じられず、 「うそ、うそだぁ・・・。」 それしか言ってなかった。 母:「よく頑張ってたよ。」 とその言葉と共に私も涙が止まらなかった。 私の祖母は去年の暮れに舌に口内炎のような腫れ物ができた。 バイキンか何かが入ったものなのだろうと思い そのままにしていたのだ。 私が今年の正月に日本に帰った時もその話をチラっとしていた。 80も過ぎてるのに、ゲートボールしたりして 一人で何でもする祖母は 「腕が痛むのよぉ。」 なんて腱鞘炎気味の手首に白いサポーターを巻いて 話してるおばあちゃんに 「あんまり無理しちゃだめだよぉ。ちゃんとマッサージして 冷やさないようにね。」 なんて私は言っていた。 でも年が明けて、まもなくした頃、その腫れ物が だんだん大きくなってくてるのに気がついた祖母は 住んでいる田舎の小さな病院へと行ったのだ。 するとその病院ですぐ大きな病院へ行って 精密検査をするよう言われたのだ。 そして仙台の大学病院へ行くと その日に即入院となった。 それから私の母が毎日病院へ、朝と夕方仕事の合間に 行ってお世話をしていた。 その検査の結果、祖母は舌に悪性の腫瘍ができていた。 いわゆるガンだ。 それからどこへ転移してるのとか さらに精密検査が行われ、手術日も決められた。 私が知ったのは2月の中旬だった。 私に余計な心配をかけたくないと思っていた母は 最初私には言うつもりがなかったらしい。 でも万が一にために後で教えてくれた。 3月中旬に無事手術を終え、その時点では転移は見られなかった。 祖母自身にはガンであることはその時言ってなかったらしい。 手術後順調に回復しているように見えていた。 がしかし、それはほんのつかの間だった。 一度は退院し、食べ物もやわらかい物を口にできるようになって まごまごしてるが、話せるようになっていたが、 手術後の検診で祖母のリンパ腺に 転移してるのが発見されたのだ。 その時点では先生が祖母、母、母の兄を前に ガンの転移の話をしていたらしいが、 祖母は悪性の腫瘍イコールガンっていうのが よく分かってなかったらしく、また入院するのも よく分かっていなかったらしい。 母は私に逆にそれでいいのかもと言っていた。 入院している間(その頃は体もぴんぴんしていたので) 暇らしく一人で寂しいからと言っていると言ってたので 私はカードを送った。 届いたカードをとても喜んで見ていたと母は 後で教えてくれた。 それから祖母は2度目の手術に挑んだ。 しかし80過ぎてる祖母の心臓はその手術に耐えられる 力がなかったのだ。 そのためガンの摘出手術は途中でやめさせられ 後は薬と放射線治療のみとなった。 いわゆるこれは慰めにしかならない 最後の手段だ。 一日一分でも長く入生きらせるための治療。 それが5月くらいだった。 母:「もしかしたら卒業したら帰って来なくちゃいけないかも。」 とこの頃よく母は言っていた。 その後私も忙しく毎日を過ごして、母からも特に連絡もなく たまに話しても、「大丈夫だよ。元気に頑張ってるよ。」と 言われていたため。私も安心していた。 その間に私は卒業し、新しいVISAも取得していた。 このVISAがまたやっかいなもので、このVISAは 一度アメリカをでるとこれではアメリカにもう一度入ることは できないのだ。しかも申請できるのも一回。 すでに取得していた私はこれでもし日本に帰ることになったら 今まで学校に行き、それでやっと手にいれたVISAも 台無しにすることになってしまう。 でも私も最悪のことは考えていた。 帰らなくちゃいけなくなったら、帰ろうと。 ガン発見から、8ヶ月後。 私の祖母は亡くなった。 悪性の腫瘍が年をとった祖母の体を食いつくるのに 時間はかからなかった。 ガンとその治療でひどく痛みつけられながらも 祖母はその痛みに耐えながら、頑張っていた。 私は数週間前に3枚ほど写真屋さんが撮った 卒業式の写真を日本に送った。 1つは母へ、もう1つは兄へ、そしてもう1つは祖母へ という手紙を添えて。 祖母が亡くなる一週間ほど前に写真は届いていたらしいが その写真をしっかり見ることはできないくらい 祖母の体は弱っていた。 祖母は私の卒業を心配していた。 母似の性格の私をとても心配していた。 3年前、私の両親は離婚した。 その頃の私の家族は色々な問題があり 辛い時期だった。 その時日本に帰って、祖母と話をした時 母の離婚と再婚のに単なる興味を批判の目と共に 同情しながら話すいとこやおじさんに 「平気、平気。母が幸せになればそれでいいわけだし。」 なんて私自身整理もできてなかったのに 強がって言っていた私を祖母はしっかり分かっていた。 母も祖母と似ている性格だからだろうか。 それともそれが昔の日本人女性という物だのだろうか。 祖母はそんな私を本当に心配していた。 「大丈夫かぁ?」とよく聞いてくれて。 それに決して、祖母が悪いわけでもないのに 「ごめんなぁ・・・・。」と謝っていた。 電話では母は 「あんたはこれからが大事なんだから今回は日本に 帰ってこなくてもいいからねぇ。おばあさんが一番 心配していたんだから、頑張りなさい。」 とだけ言っていた。 居たたまれない気持ちになった。 その日私は夢をみた。 おばあちゃんの家に私がいて、お風呂かトイレの戸を 開けるとおばあちゃんがいたのだ。 私は抱きつきながら、おばあちゃんに 「ごめんねぇ・・・。」と謝っていた。 そしたらおばあちゃんはただ笑顔で 私を抱いてくれていた。 温かいぬくもりが確かにあった。 あ〜、おばあちゃん怒ってないんだぁ。 って安心した時私は目が覚めた。 私は信じてる。 きっと心配したおばあちゃんがきてくれたのだと。 「いいのよ。頑張りなさい。」 って言ってるように思えた。 私にはおばあちゃんがついていると思った。 今まで頑張ったね。 ごくろうさま。 天国で安らかに眠ってね。 大好きなおばあちゃん。
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