昨日のニュースステーションの特集は、「哲学のススメ」。 「考える」ことを「考える」。哲学とは考えることだと池田晶子氏は 言いました。無の存在、自分の存在、またその存在とは何なのか。
今、自分は何でここにいるのかという簡単で難しい問いに私たちは どう考えるのかというのは、人それぞれでしょう。そう、その「考える」 ことをするから自分の存在意義がある、考えることをしなくなったら その存在意義がなくなるということを言いたいのでしょうか。
いわゆる哲学というものの中の問いには、「自分の存在」とか「生と死」 とかいった類が多いように思います。というのも、その答えがなかなか 出せない、あるいは人によって考えが違うから、大きな流れとしての パターンが出来にくいから。1+1=2といったような形式的論理が 通用しないからです。
「人間は生きている」
これは正しい表現でしょうか? この世に存在している人間だけが人間なんでしょうか? もしそうならば、人間はこの世に生を持つという限定を定義してあげる 必要が出てきます。お気づきでしょうが、この「定義」が曖昧、つまり 人によって違うから答えが導かれないんです。
哲学は、このあたりを曖昧なままにしているから哲学が成り立つと考え ます。数学のように定義付けをしてしまうと思考の領域を限定してしまい、 哲学という分野は成り立たなかったと思います。
そもそも哲学の定義が曖昧だから、「哲学とは難しく考える学問」という 理解を私たちはしてしまっていると思います。歴史上の哲学者を見てね。
哲学は、自分の幅を広げる道具だと考えればいいんじゃないでしょうか。 あぁ、こういう考えもあるんだな、でも自分はこう考える。そういう 程度でいいんじゃないでしょうか。絶対的な答えを求めているわけでも ないんだから。ただ、そこには「自分で考える」作業が必要なわけで、 これを抜きに他人の考えを聞くだけでは自分を広げることにはなりま せん。このあたりの重要性を問いかけているんではないでしょうか。
自分は哲学者でも哲学を研究した人間でもありませんから、深いところ での哲学の意義は分かりませんが、「哲学」という言葉は使わなくても 「考えること」をベースに自分のことを見つめてみることを哲学という 言葉の中に込めてみればいいのではないでしょうか。
そう考えると、堅物が考える学問と思っていた哲学も、普段考えていること を自己に限定すれば、なーんだ、特別なもんじゃないんだと思いますね。
何気ないことを自分なりに考えてみる。これでいいんじゃないのかな。 子供の頃は「どちて坊や」でもいいんだけどね。一歩進んで自分で考える。
はい。今日は晴れときどき曇り。(東京地方)
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