『日々の映像』

2008年11月09日(日)  肺がん告白から543日…筑紫哲也さん逝く

4月から6月の社会の情報交換会で次の書籍がテーマに上がっていた。
「抗ガン剤で殺される」 船瀬俊介著 共栄書房
「『薬をやめる』と病気は治る」安保徹著 マキノ出版
「ガンは自分で治せる」安保徹著 マキノ出版

 こんな時筑紫哲也さんの病気を知る。抗がん剤で髪の毛が抜けた状態で毛糸の帽子をかぶってテレビに出演していた。「抗ガン剤で殺される」を熟読し、社会の情報交換会で話し合っていたので、筑紫さんの余命が少ないこと感じていた。そして妻に「そんなに長くないと思う」といってことを記憶している。最も親しみを感じていたキャスターであったので、複雑な思いが胸をよぎる。もし、筑紫哲也さんが上記の本を熟読していれば、こんなに早く逝去することはなかったように思う。

1、肺がん告白から543日…筑紫哲也さん逝く
                    毎日新聞 2008年11月8日
2、筑紫哲也さん死去 記者出身、TVキャスター
                       2008年11月8日 朝刊
3、筑紫哲也さん死去 闘病1年半、壮絶肺がん全身転移
                  2008年11月8日06時04分 スポーツ報知
4、「NEWS23」で“最後の多事争論”放送
                     2008.11.8 05:03 サンケイスポーツ

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1、肺がん告白から543日…筑紫哲也さん逝く
                    毎日新聞 2008年11月8日
 TBSの報道番組「筑紫哲也NEWS23」のメーンキャスターとして活躍したジャーナリストの筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、肺がんのため都内の病院で死去した。73歳。大分県出身。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻・房子(ふさこ)さん。昨年5月、番組内で肺がんを告白し「がんに打ち勝ってまた戻ってきます」と宣言し、闘病生活を続けていた。新聞、雑誌、テレビなどジャーナリズムの第一線で活躍。映画、音楽、演劇など芸術の分野にも造詣が深かった。

 落ち着いた語り口と鋭い視点で多くの視聴者の信頼を集めた筑紫さん。関係者によると、家族にみとられて静かに息を引き取ったという。

 昨年5月14日に番組内で「先週、初期の肺がんだと分かった。しばらく治療に専念したい。自分ががんになるとは思ってもみなかった。がんに打ち勝ってまた戻ってきます」と宣言。闘病生活に入ってからは、特番などに声のみで出演。同10月8日には147日ぶりにスタジオに登場。抗がん剤で髪の毛が抜け、一部は付け毛だと明かしながらも「約束したことが果たせてうれしい」と笑顔を見せていた。

 関係者によると、がんは全身に転移。鹿児島県の病院で治療を受けていたが今週に帰京。数日前に容体が悪化したという。がん告白から543日で帰らぬ人となった。

 療養中はDVDで映画や最新ドラマを観賞したり読書をして過ごしていた。国の行方を憂い、福田康夫前首相が辞任した時には「国としての体をなしていない」と嘆いていたという。

 1959年、朝日新聞社に入社。政治部、米統治下の沖縄特派員を経てワシントン特派員となり、ウォーターゲート事件などを取材。その後「朝日ジャーナル」編集長時代には企画「新人類の旗手たち」が話題になり「新人類」は流行語になった。

 テレビへの進出は78年、テレビ朝日「日曜夕刊!こちらデスク」。89年には朝日新聞を退社しTBS「筑紫哲也NEWS23」のメーンキャスターに。新聞記者として培ってきた独特の視点で論評するコーナー「多事争論」が人気で、TBSがオウム真理教幹部に坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題では「TBSは死んだに等しい」と発言、大きな反響を呼んだ。

 昨年12月に後藤謙次・前共同通信社編集局長にキャスターを譲った後も、スペシャルアンカーとして体調を見ながら時折出演。今年8月11日に哲学者の梅原猛さん(83)と対談したのが、最後のテレビ出演となった。

 「NEWS23」で97年10月から06年9月までサブキャスターを務めた草野満代さん(41)は「いつも穏やかで懐が深くて、どんなに違う意見にも耳を傾け論議する。まさに“多事争論”そのものの方でした」とコメントを寄せた。映画や音楽、演劇をこよなく愛し、番組でも文化や芸術を積極的に取り上げ、黒澤明監督や指揮者の小澤征爾らをゲストに招いた。作曲家・滝廉太郎は大伯父で、大分県竹田市の滝廉太郎記念館の名誉館長だった。

 筑紫 哲也(ちくし・てつや)1935年(昭10)6月23日、大分県日田市生まれ。早大政経学部卒業後、59年に朝日新聞社入社。政治部記者、米ワシントン特派員などを経て84年に朝日ジャーナル編集長に。89年7月に同社を退社し、10月から「筑紫哲也 NEWS23」のメーンキャスターに。06年4月から立命館大学客員教授。ベストドレッサー賞(92年)、橋田賞特別賞(05年)、日本記者クラブ賞(08年)などを受賞。著書は「多事争論」(95年)「スローライフ」(06年)など多数。
筑紫哲也さん死去:「キャスター」身近に 闘病生活も最後まで「現場」
 長年の取材に裏打ちされた歯切れのいい言葉で、国際政治からポップカルチャーまでを語り、テレビの視聴者に支持されてきた筑紫哲也さんが7日、73歳で亡くなった。「ニュースキャスター」という言葉をお茶の間に浸透させた代表格だった。
 朝日新聞記者時代には、テレビ朝日の報道番組「日曜夕刊!こちらデスク」の司会者に就任。今では一般的になった活字メディア出身のジャーナリストがテレビ出演をするきっかけを作った。
 「筑紫哲也ニュース23」のキャスター就任後は、開戦直前のイラクで現地取材をするなど、現場にこだわった。98年11月には米国のクリントン大統領(当時)をスタジオに招き、市民との直接対話を実現させて話題を呼んだ。
 TBSのワイドショースタッフが坂本堤弁護士のインタビュー収録テープをオウム真理教幹部に見せた後、坂本弁護士が殺害された問題が、96年に発覚。当時の「ニュース23」で「TBSは死んだに等しい」と述べ、キャスター降板を考えたことを明らかにしている。
 闘病生活に入った後も、大きなニュースがあった日などに不定期出演。今年3月28日放送の「多事争論」コーナーで、番組タイトルから自分の名前がなくなることを明らかにし、出演してきた18年間を振り返った。8月11日には同番組で哲学者の梅原猛さんと対談。これが最後のテレビ出演となった。
 キャスターのかたわら、立命館大客員教授や雑誌「週刊金曜日」の編集委員も務めていた。「ニュースキャスター」(集英社)「筑紫哲也の この『くに』のゆくえ」(日本経済新聞社)などの著書もあった。今年5月には、日本記者クラブ賞を受賞している。
 7日の「ニュース23」では冒頭、筑紫さんの死去について約20分間放送。後藤謙次キャスターは「(筑紫さんは)ジャーナリズムのチャンピオンだった。遺志を継いで報道の最前線で戦っていきたい」と語った。
 ◇ニュースキャスターの鳥越俊太郎さんの話
 同じ時期に新聞社を辞めてテレビの報道番組に転身した、同志であり兄貴分。日本の国の在り方を示し、進むべき道を探る羅針盤のような存在だった。私たちにとって、大きな損失だと思う。
 ◇元沖縄県知事で大田平和総合研究所主宰、大田昌秀さんの話
 95年の3米兵による少女暴行事件の後、沖縄県民総決起大会に筑紫さんが来て、「沖縄県知事は他の知事より大変だが頑張って」と激励された。その場限りの報道でなく、腰を据えて沖縄問題を伝える姿勢が確立されていた。
 東京朝刊
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2、筑紫哲也さん死去 記者出身、TVキャスター
2008年11月8日 朝刊
 テレビのニュースキャスターとして長く活躍したジャーナリストの筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。73歳。大分県出身。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻房子(ふさこ)さん。
 2007年5月に、キャスターを務める番組「筑紫哲也NEWS23」でがんを告白し、闘病を続けていた。
 早稲田大学政治経済学部卒。1959年、朝日新聞社入社。政治部、米統治下の沖縄特派員を経てワシントン特派員となり、ウォーターゲート事件などを取材した。その後「朝日ジャーナル」編集長時代には企画「新人類の旗手たち」が話題になり「新人類」は流行語となった。
 89年に退社しTBSの「筑紫哲也NEWS23」のメーンキャスターに。独自の視点で論評するコーナー「多事争論」が人気で、TBSがオウム真理教幹部に坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題では「TBSは死んだに等しい」と発言、大きな反響を呼んだ。98年に当時現職のクリントン前米大統領をスタジオに招き、市民との直接対話を実現させた。
 治療のため、キャスターを後藤謙次・前共同通信編集局長に譲った後も、スペシャルアンカーとして番組に時折出演した。日米関係や米軍基地問題などに詳しく「総理大臣の犯罪」など著書は多い。雑誌「週刊金曜日」編集委員、立命館大客員教授も務めた。
 映画や音楽、演劇にも造詣が深く、番組でも文化や芸術を積極的に取り上げ、黒沢明監督や指揮者の小沢征爾さんらがゲスト出演。作曲家滝廉太郎は大伯父で、大分県竹田市の滝廉太郎記念館の名誉館長だった。
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3、筑紫哲也さん死去 闘病1年半、壮絶肺がん全身転移
2008年11月8日06時04分 スポーツ報知
06年8月、インタビューに答える筑紫哲也さん。肺がんのため73歳で死去した
 TBS系の報道番組「NEWS23」のメーンキャスターとして活躍したジャーナリストの筑紫哲也さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。73歳。葬儀は近親者のみで行い、喪主は妻の房子(ふさこ)さん。後日お別れの会を開く。昨年5月、同番組で肺がんにかかっていることを告白。「がんに打ち勝って、また戻ってきます」と宣言し、闘病生活の傍ら、スペシャルアンカーとして番組にも時折出演していたが、1年半後に力尽きてしまった。
 18年半にわたって夜のニュース番組をリードし、日本のご意見番的存在だった筑紫さんが、がんとの闘いの末、この世を去った。
 筑紫さんは今月に入り、呼吸困難に陥るなど容体が悪化。がんは全身に転移し、手術は出来ない状態だったという。最期は都内の病院で家族にみとられながら、息を引き取ったという。
 普段から喫煙していた筑紫さんは、昨年5月の健康診断で肺がんが発覚。同14日放送の番組で視聴者に「しばらく治療に専念したい。がんに打ち勝って、また戻ってきます」と報告し、番組を休養。闘病生活に入っていた。
 その後も同7月の参院選などで、音声での中継に参加。同10月8日には147日ぶりに画面に登場し「約束通り戻ってきました。ほぼがんは撃退した」と“勝利宣言”。「たばこをやめざるを得ないし、少し太っちゃった」と照れ笑いし、髪の毛についても「抗がん剤の影響で2割ぐらい減っちゃった。上のところは付け毛なんですよ」と明るく語るなど、元気な様子だった。
 それでも「がんは手ごわい相手。いつリターンマッチを仕掛けてくるか分からない」と慎重に話し、同12月からはメーンキャスターを共同通信社・前編集局長の後藤謙次氏(59)に託し、節目節目で番組に登場する「スペシャルアンカー」として番組にかかわっていた。
 今年3月に番組を引退。8月11日に不定期の企画で、哲学者の梅原猛氏(83)と対談したのが最後のテレビ出演となった。
 筑紫さんは朝日新聞時代に政治部やワシントン特派員として活躍。「朝日ジャーナル」編集長時代は「新人類」「元気印」などの流行語も生み出した。記者時代の77年にはテレビ朝日系「日曜夕刊!こちらデスク」の司会を務め、サファリルックでおなじみに。
 朝日新聞を退社した89年には10月の「NEWS23」放送開始とともにメーンキャスターに就任。独自の視点で論評するコーナー「多事争論」が人気で、TBSがオウム真理教幹部に、教団と対立していた坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題が発覚した際、「TBSは死んだに等しい」と発言し、大きな反響を呼んだ。
 人気キャスターらしく、都知事選や衆・参院選など、たびたび政治家への転身もうわさされたが、「私が権力の座を目指すことは今も今後もありません。長年やってきたジャーナリズムの仕事は大切」とジャーナリストとしての立場を貫いた。
 ◆石川さゆり弔問 ○…東京・練馬区の閑静な住宅街にある筑紫さんの自宅前には約30人の報道陣が駆け付けた。歌手の石川さゆり(50)も弔問に訪れ、目を真っ赤にして無言のまま。「昔の新聞記者仲間」という初老男性は20日前に入院先の病院で見舞ったそうで「変わらない感じで…」とうつむきながら話した。
 ◆筑紫 哲也(ちくし・てつや)1935年6月23日、大分県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、59年に朝日新聞社に入社。71年から米ワシントン特派員を務め、84年に「朝日ジャーナル」編集長に就任。89年7月、同社を退社。同10月からTBS系「筑紫哲也NEWS23」のキャスターを務める。93年にはギャラクシー賞テレビ部門個人賞を受賞。06年から立命館大学の客員教授に。著書は「総理大臣の犯罪」など多数。母親が滝廉太郎の姪にあたることから、93年から滝廉太郎記念館の名誉館長を務めている。
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4、「NEWS23」で“最後の多事争論”放送
2008.11.8 05:03 サンケイスポーツ
 TBS系「筑紫哲也 NEWS23」のメーンキャスターとして活躍したジャーナリスト、筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、東京・中央区の病院で肺がんのため亡くなった。73歳だった。
 7日夜の「NEWS23」では冒頭でメーンキャスターの後藤謙次氏(59)が「今夜はこのニュースからお伝えしなくてはなりません。私たちの先輩、筑紫哲也さんが亡くなりました」と無念そうに伝えた。
 在りし日のキャスターぶりや親しかった関係者の談話を紹介。今年7月5日に収録し8月1日からネット上だけで公開していた「多事争論」を“最後の多事争論”として放送。「この国はがんにかかっている。それに対して私たちはどうするのか」と語り掛けていた。

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石田ふたみ