年齢のせいもあるのと来月からの身辺の変化を 控えているのとで 夏の開放感はちょっと感じられない。
若さがある時はあれもしたい、これもしようとか夢や期待という 光にきらめくのが夏のはずだったけどな。 孤独で辛くて寂しくて その分感性も鋭くて 夏に体を溶け込ませて街の中、ビルの中 華やかな 夏の服が並んでいるのを見て気持ちを高めたりした。
わたしにとってそれもあまり意味がない。 面倒で疲れるし夢がないんだよね。
この世のことも死ぬまで大事だけど あの世のことも興味がわく 次元という 表現のほうが相応しのか。
先祖供養とは、自分供養ではないのか・・。 生きているこの瞬間の自分をいたわることになるように わたしには思える。 死後の親 そのまた親・・。いつしか すべての親になるわけで・・。とりあえず何世代かの近いかった 人びとを忘れず思い出し感謝を捧げることの大事さなのか。
それはわかっている。 でも、もしかしたら 死んでしばらくの間 その人たちは違う次元において、まだ生きていたときの延長で 次の段階へ登るまでの営みがあるように思えてきた。 やっかいだな。 死んでまた親に再開してまた親子なのか?
|