贋作ヒロイズム - 2005年02月10日(木) てゆうかただの銀時の悪口な気がする 銀時純粋にカッコイイと思ってる方すんません 読まない方がいい、ですよ…震 前々から何度も云ってるようだけどマラはえろ本拾ってきたり小銭を自販機の下から拾おうと必死になってるような銀時が好きなんだ 例えば今週のジャンプとかの銀時を見るとフンてなるんだよね。 「俺は知ってたよ」とか「判ってた」とか 自分人間観察眼するどいからお見通しなんだよねみたいな態度とられると結構やってらんねーよってなる オマエ、オマエ!!ってなるよ カッコつけることを空知が赦しちゃってるのが気に入らない 自分で「オレカッコイイ」って思ってたら暴れ出したいくらい厭だ マラの描く銀時は空知銀時へのアンチテーゼだねってバジルさんに云われたんだけど確かにそういうところがある。 ヒーローっていうのは自分がかっこいいだなんて思いつつできるもんじゃない。強いって事がどれだけ無責任に人を傷つけるか、力ずくで物事を曲げることがどれだけ軋みを産むか、そういう悲劇だとか悲哀だとかを常に身のうちに飼っていないとならない。 でもさぁ空知銀時だって攘夷戦争で刀を捨てた時点で何でも思い通りになんかいかないっていうのを痛いほど思い知ってると思うんだよ。身の程を知らないハズはないと思うんだよ。 目に見える限り全ての人なんて、目に見える限り全ての想いだなんて救えない。いくら藻掻いてもどうしようもない。強さは全てを動かせない。そう思い知って刀を捨てたはずだ。それで不特定少数に、知り合いきれる人の為にだけ剣を振るうような今のスタンスになったんだと思う。 あいつの存在そのものがアンチヒロイズムみたいなメタファを含んでると思うんだ。そこで揶揄されるヒロイズムはジャンプのそれであったりアメリカ映画のそれであったりするけどゼブラーマンのそれでは決してない。 ヒーローであることは見苦しく足掻くことだ。端から見てかっこよくみえたとしてもそれは端から見ているからだ。 ヒーローになりたくてもなれなかったものからの憧れと妬みに応えるだけの、覚悟とあきらめがある。そこには余裕なんてない。取り繕うだけの余裕なんてない筈なんだ。 それとも何かなあのこにはヒーローだって自覚すらないだけの話なのかな。 でもあんだけワガママやって腕ぶんまわして沢山のモノをねじ伏せてきたら少なくともそんなに気楽じゃいられないと思うんだけど。 なんか支離滅裂なアレになった よくない 気付いたら〆切まで2週間ナイ 原稿しよ う… ...
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