逆説の美学 - 2003年11月24日(月) 酷く淡泊な世界に生きている。 全ては現象として在り、その現象には抗いようがない。だから論理だ宗教だ哲学だ時間だと理由を付けて納得している訳だ。言葉そのものだって酷く扱うには不安定で時には知らぬ間に主体と客体が逆転していることだってある。 制御するために作ったものに己が振り回されていれば世話はない。 それでもワタシには言葉しか道具がないから今日もこうして振り回されている。 美学は美学で在るが故見苦しく見苦しさは見苦しさで在る故美学だ。 ワタシはモラリストであると自覚するが故自らをアモラルであると思う。 描くと云うことは理性的だ。混沌は理性的に置換された時点で混沌ではなくなる。 (だから世界のどんな文章よりも現実の方が凄惨である) 死よりも残酷な事がある。そう云いながらも私達は生にしがみつくより仕方ない。 言葉は反対語の上にでないと立脚しようがない。だから自分は言葉を扱う以上逆説的であるよりないのだ。 後ろを振り返る政治ばかりだからいかんと思っている。それでも自分だって後ろばかりを振り返っている。だって未来を振り返るわけにはいかないのだから。 結局「旧革新派」等という訳のわからないところに落ち着かなければならなくなる訳だ。 ワタシは道徳を好まない。綺麗事を好まない。そう云いながらも非道な記事を読めば悪し様に罵る。時には都合の良い「みんなの正義」を自覚せず振りかざしていることもあるだろう。 マイノリティーを尊重するべきだと思う。そしてその信条に基づくとするならば幼女の腹を性器で割かないと興奮できないというマイノティーも認めなければならないわけで、結局の処、その信条の最初に「他人に迷惑を掛けない限り」等という条件文をいくつも付けなければならなくなる。そして条件文を付ければ付けるほど曖昧になり説得力が無くなっていく。 理解できない事があると私達はすぐに病名を付けたがる。誰だって多かれ少なかれ依存症を患っている癖に。 区別はあって然るべき。差別は廃されるべき。ボーダーを引く権利は誰にあると云うのだろう。 ああなんて煩雑な概念が満ちあふれているのだろう。 全ての主張の前提には「セカイ」があって、一つの脳味噌でオレを纏めきれるのかと睨みをきかせてくる。ごめんなさい出来ません。と地にまみれるしかない。そしてワタシは文章の最後に「だと思う」とか「ではないだろうか」を付けざるを得なくなる。 全ては程度問題でしかない。 ワタシは○○である。と、言い切ることの覚悟や責任や気が遠くなるほどの無関心にワタシは絶えず尻込みをしている。 胸糞の悪くなるようなレポートを読んで憤慨して、むかむかするものを持て余した。 自分の薄っぺらいロジックに呆然として、どう修正すればいいものか悩んだ。 それでも中村屋の新種の肉まんは旨かったりするわけで。 その突発的な小さな衝撃、感情のぶれの合間にも日常は連綿と続いていくわけで。 それらを繋げて辻褄を合わせて己の生き方に準えるのはあまりに難しい。 莫迦で良い。莫迦のままで居たい。 それでも自分の莫迦さ加減に全ての知性を載っけられる莫迦になりたい。 経験は貧弱で語彙は足りなく道は果てしなく遠い。 ...
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