めいきんぐおぶうらのべる - 2003年08月06日(水) えろノベル書きました。えろかどうかかなり不安が残りますがうらのべる書きました。数本書きました。上がってないだけで結構前に送りました。 理想と現実と。の、妥協点を探る。そんなつもりで書いてるのですが。やはりまだ点と点でしかない。平面ではないから何点あっても面にならない。いびつに幾つも点を打っていくしかない。それでも形はどこまでも朧気にしか見えない。 むしろ二人にとってもそういう行為なのかも知れない。そう思う。 それは肉欲と純愛との狭間であるだけでなく。この世の全ての二元論の象徴ですらあると思うのだ。 恋は奪うもの。愛は与えるモノ。なんだそうな。 どちらもエゴイズムからしか動けないものなのだと思う。与え合うものであり且つ奪い合うものなのだろう。お恥ずかしい話だがワタシはそこまで激しく奪い合ったことも与え合ったこともない。血が滾って全ての感覚がもぎ取られてしまうような愛おしさに自分を攫われたこともない。(そしてこの先も体験できないのではないかもしれないと薄々感じている。自分という存在が、衝動がメンタルとフィジカルとで完全に乖離したイキモノである限り) だからワタシは傍観者でしかない。第三者でしかない。そしてその立場を離れられないからこそ、一人二役を演じることが出来るのだろう。 二次元は簡略化されている。全ての感覚を盛り込むのは無理だ。世の殆どの作品は、他者がなぞることが出来るような形で筋道が立てられている。狂気だとて、一般化された時点で、大衆の共感を得た時点でそれは何ら特殊なものではなくなる。彼だけに感じられた感覚ではなくなる。そこが創作の限界なのだと、ドストエフスキーだかの作品の書評に書いてあった。 そこまでを自分の創作に求めているわけではない。作品の中で何人人格を動かしたとしても、所詮自分の人格から出てきた言葉しか使えないのだから。ただ、迸りだけでいい。塗り残しのようなものでいいから、ワタシしか感じ得ることの出来なかった彼らの感覚、が表現できていれば。 でもとてもじゃないけれどワタシの筆致はそこまで届いていないだろう。呆然とするほどワタシは薄っぺらい。だからこそ文章に叩きつける。それしかワタシに手段は残されていないから。ワタシは恍惚とさえしている。叩きつける。叩きつける。それは最早祈りのようなものに近い。 ここまでがむしゃらに、関係性について掘り下げられるのはある程度土台の与えられた二次創作ならでは出来ることなのだと思う。加賀と筒井というワタシに与えられた今回の素材は凄く、自分の表現したいこととシンクロしている。だからこそ盲目に、往生際悪く続けていきたいと思う。 そう、それはマスターベージョン以外の何物でもないのだけれど。 ...
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