2004年02月03日(火)
*久々入り込み繭玉の巻
何だかすごくg@me.が観たいです。
佐久間を思い出します。
なんでかっていうと、仲間さんが劇中に着ていたヒラヒラな感じの洋服を見かけたから。
すごく単純な思考なんですけど、ただヒラヒラだったっていうだけです。
春物がいっぱい出てきてるでしょ。
やっぱりヒラヒラが多くなるじゃない。
ヒラヒラでシャラシャラな感じが。
それで、仲間さんみたいだな〜って思ったら佐久間が浮かんできたってわけです。
もともと、ああいう感じの服って好きで、映画観てるときも気にしてたから。
勝手に服から映画に結びつくんですよね。
それがイメージってもんなんでしょうか。
1つの事柄から誰かを連想する。
1人の人から何かを連想する。
物静かで
スーツが似合って
エリートで
仕事もできて
お金持ちで
女にモテて
そういう人を連想しなさいと言われたら多くの人がNaoって答えるような気がする。
逆にNaoから連想することはと聞かれたら、多くの人がこんなようなことを言うような気がする。
それはイメージ。いわゆる思い込みだったりもする。
それが定着すればするほど、必要とされる強みにもなるし、イメージ壊したれ!と思う人がいたらイメージを壊す楽しみや新たなイメージが生まれる。
ある1つのイメージがあればこその強みでもあるように思える。
佐久間は多くの人が持っている藤木直人像そのものの人物じゃないかな。
でも、佐久間の役がなかったとして。
佐久間のような人物から誰を連想するか。
Naoの名前があがるのは確かだとは思うけど、みんながみんなではないはず。
Naoが言っていたイメージの固定化というのは、そのみんながみんなNaoと答えるくらい強いイメージを作り上げたいということだったのではないかと。
今になってそう思うのです。
佐久間を思い出したとき、制作発表とかでNaoが言ってたイメージの固定化というのを思い出して。
言ってることは理解できてたつもりで、Naoの持ってるイメージを固定化させたいと解釈してた。
固定化っていうのにずっと引っかかってたんですよ。
ちょっと不思議で。
だから言葉のままに解釈しておこうと。
だけどそうじゃなくて、逆にあるイメージから全ての人にNaoを連想させたいって意味だったんじゃないかって。
図式にするとこう。
Nao→イメージ という意味ではなく
イメージ→Nao という意味。
残念なことに、私はイメージ先行型ではないもので。
高杉に興味を持った時から、私は高杉ってどんな人なんだろうと、Naoという人を知りたいと思った。
度々驚かされながら、常に受け入れ態勢で、イメージよりNaoらしさ優先でいたいと思ってたし。
それで仲間さんの服から佐久間だったりNaoだったり思い出したので、考え込んでみました。
クドクドしててごめんなさい。