いいことあった
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2008年09月07日(日)

◆日常

保育園のバザー。今年は手伝ってないので当日行くだけって楽だぁ〜。とケロを連れて自転車で出たところで雨が降り出し、一旦戻って傘を持って徒歩で出直した。その後は雨が降るどころか夏に戻ったようなカンカン照りで、私の晴雨兼用傘は「あつい」というケロに奪われて私はまた日焼けしてしまった。

ケロはゲームを一通り回り、何故かミニゴルフ3回中2回カップインという知られざる才能を発揮し、ぬいぐるみやらシールやらの景品をたくさんもらった。
私はケロのゲームで余ったチケットでジュースやパンを買って、帰宅。

◆読書

柏葉幸子「霧のむこうのふしぎな町

ちょっと読み返したい箇所があって図書館で借りた。子どもの頃は持っていたんだけど途中で処分した本。どこでもない場所として設定するにはあまりに西洋的で、西洋のファンタジーを読んでは「こんなところがあったらいいのに」と思う日本人の子どもを惹きつけるのはよく分かる。廃鉱となった炭鉱の町、今誰が残っているか管轄外なので分からないという駐在さんの存在など、大人になった今読み返すと異世界へ移動するまえの現実をしっかり設定してあると思う。(まあ今日現在では廃鉱になった炭鉱の町という存在自体がダムに沈んだ町みたいな過去の幻のようなものだけど、書かれた当時としては。)

しかし、大人になって読み返した今、「ああ、ハリー・ポッターとかを日本人はイギリス人と同じようには決して読めないんだなぁ」という暗くて深い川の存在を感じてしまう。日常から非日常への移動が、するっと一つ曲がり角を間違えたようにはいかず、もう一段階大きな文化の違いを乗り越えなくてはいけないというところ。

そこから何十年も経て、今は日本のファンタジーはかなりその辺の影響を抜けたと思う。荻原規子さんとか上橋菜穂子さんとか伊藤遊さんとか。(梨木香歩さんと高楼方子さんは西洋的な部分があるのでこの括りには入れにくい。面白いけどね。)

・・・でもまあ、解説で佐藤さとる氏が書いているように「なによりも、この作者が頭で書かずに心で書いているのが強みです。理屈ぬきに、とにかくリナのあとを追って、山の中のヘンテコリンな町へでかけることをすすめます。」というのが一番正しい読み方だと思う。

荻原規子「薄紅天女

またまた再読。そもそも読み返したのが勾玉ファンサイトを読むにあたっての予習的なものだったので、それからそこを舐めるように読んで、また本作を読み返して、二度三度と楽しんでいる。
そういえば甦りを続ける闇の一族の末裔は、鳥彦以外はどこへ行ってしまったのだろう。チキサニは海を渡ってきた女神だけど、闇の一族と同じものではないような。母親であり娘というあたりが転生を繰り返す闇の一族と同じにも見えるけど、そこのとこはどうなんだろう。

中沢新一「僕の叔父さん 網野善彦

叔父さんとの出会い(父の妹の婚約者として)のあたりは、中沢氏自身が幼かったので冗談関係の成立についての思い出話だが、中沢氏の父親とその兄弟達のコミュニストとしての人生も垣間見られて大変楽しかった。網野氏が常に本流でない人々の人生に関心を持つところも具体的な例を挙げてあって、ただの研究者ではなかったのだなぁと改めて思った。

『蒙古襲来』まで、アジールの側に立つ歴史学、天皇制との格闘、別れの言葉と4章に分かれているが、網野氏が語りきれなかったことを中沢氏の視点でよく解説していると思った。

それからこれを読んで網野氏が歴史学者の中で嫌われていたというのを初めて知った。さもありなんだけれど。現代人としての常識から歴史を解釈してはいけないというラディカルな主張は従来の歴史と相容れないでしょう、確かに。

あと中沢氏が実家の元の商売、紺屋について書いていて、関西では良く思われないと初めて知って驚いた。本の最初の方で「平素から神官のような白い袴を身につけて神祈祷をおこなう人だった」と書いてあったが、紺屋の白袴についてはもうちょっと色々気に留めておいたほうがいいのかもしれない。(私が知っているのは、藍染めは藍の釜に空気を入れないのがコツなので、白い袴に染みひとつつけない慎重さで染めなくてはいけない、だから紺屋なのに染めていない白袴を履くのだ、という紺屋さんか染色家の方のお話だけだが。)


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