昨日手を洗う時、ケロが水の下で手を動かしていて「石鹸とれた?」と聞くと「ちょきん、ちょきん」と答えた。ああ私も小さい頃水が鋏で切れるんじゃないかと思っていたよ。
今朝はケロが早起きで、家人がつきあってご飯を食べていた。ずいぶんはっきり喋るようになったと布団の中で聞いていたが、ケロ語が多く家人には単語の意味が分からなかったらしい。 「ちゅーのちゅー(ケロの豆乳)」と言っていたのを「(ケロ)のちゅー」と自分で言い換えていた。あらー、2歳半お誕生日を過ぎて人間語が喋れるようになったか。
朝から楽しく遊んでいたのでおむつ交換を嫌がり、最後に私に怒られて「ごめんね」と謝ってきた。私はまだぷんぷんしていたので「やだよー」と言ったら「おかーしゃん、やだよ、ないーっ」と逆ギレされてしまった。可哀想な私。
その後一人で木製レールを組んで、「(ケロ)のおうちできたーよ」と一軒家のフィギュアを見せてくれた。それから2階建てのフィギュアは「おとーさんの会社できたーよ」と見せてくれた。マンション住まいでも「おうち」といえば一軒家を想定するのか?その辺ケロがもっと喋れたら根掘り葉掘り聞いてみたい。
午後は室内干し用のつっぱり棒を手に布団に座り、「おふねだよ」と棹をさしていた。(オールで漕いでるのではなくあれは棹をさしていたのだと思う。)どこかで何かを見て覚えるんだろうけど、色んなことを思いついてびっくりするわ。
そういえば今週頭くらいから、お風呂に入るときに突然わんわんのシャンプーハット持参で行くようになった。(以前シャンプーを嫌がって購入、しかし花で飾った帽子の代用にしか使われていなかった。)TVででも正しい使い方を見かけたか?
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溜めた読書記録更新。どうも抜けてる本があるっぽいが。
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モニカ・ディケンズ「こんなふうに生きてみた 」(2006-049) 片岡しのぶ訳 晶文社(1981年5月)
昨日読んだ「なんとかしなくちゃ」の作者の自伝。ずっと太っていて容姿にコンプレックスを持っていて、ある日お母さんにそれを訴えたら真剣に受け止めてくれて病院へ行き、甲状腺ホルモン剤の投与でみるみる痩せたという。そんなこともあるのね。
昨日読んだコック・ジェネラル体験記の後で見習い看護婦体験記、婦人記者体験記、G.I.妻体験記を書き、幼児虐待や自殺防止電話の取材記を書き…と自分の体験を次々に本にして、関係者に嫌がられていったようだ。これが全部「やることがないから」働いている人の書いた、しかもほんの数年の体験を面白おかしく書いた作品だとしたら、やはりその仕事に携わって(しかも彼女と一緒に働いて)いた人たちにとっては面白い本ではないだろうなぁと思う。新入社員のうちは分からなくても段々に必要だとわかることなどあるし。
しかし最後の自殺防止電話についてだけは、アメリカでボストン支部を立ち上げたりしているのでちょっと救われるところがある。本人も「書くだけでは、生き方としては余りに自己中心的」と書いているので自覚はあるらしい。
上橋菜穂子「隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民」(2006-050) 筑摩書房(2000年5月)
「守り人」シリーズで有名な上橋菜穂子さんのノンフィクション。当時日本の大学院生だった上橋さんには、「本物」のコミュニティで調査研究するつてもなく、海外の小学校に日本を紹介する先生として行くという民間の交流プロジェクトを利用してオーストラリアへ向かったという。それから10年の自分の体験と、町に住むアボリジニへのインタビューをまとめたもの。
「ホワイト・ネイション」「ラディカル・オーラル・ヒストリー」と続けて読んできたからこそ納得のいくことも多い。アングロ・ケルト系住民が「砂漠に住む『本物』はすごく興味深い。だけど町にいる連中は駄目だ。」と言う、その町の連中(実際にはこちらの方がずっと多い)を取材したインタビューと、背景の解説と自分の体験が交互に出てくる。
共感は難しいことも多い。アボリジニは150年間権利と文化と命を奪われてきたと思っても、それがお隣りにアボリジニの家族(定職につかず失業手当で暮らし、家族の誰かはアルコール依存症で、夜中まで騒ぎ、暴力をふるい、親戚がやってきては住民が増えていく)が住んだら、という日常へ想像をすすめると、我が身可愛さに「人種や理由にかかわらずそんな人たちと付き合うのは嫌です」と思うのも本当。自分が「そんな人たち」になったかもしれない可能性(あるいは今からなるかもしれない可能性)が低いと自分で思うのは、ただ自分の生まれた時代や国や民族が生存に有利だったというだけなのに。 彼らのインタビューから知る差別虐待はあまりにひどい。それらに対する自分の罪の意識だけで上記のような日常を受け入れても、(人間は自分を正当化していく生き物だから)段々「悪いのは彼らだ。今は彼らの方が恵まれているのに。」と逆恨みのような感情がわいてくるのも分かる気がする。 日本でもいくつかの言葉を置き換えれば、これはすぐに日常になるでしょう?
自分がこちら側に立つと(善良なナショナリスト)、この整理のつかない感情がひとつ。
そして向こう側に立つと、「部族のこと」も多く失われていて、言葉もはなせないのに、自分がそうであることを捨てられない、更に、砂漠を離れて町で白人と同じように暮らしていても、どうしても目に見えないものも「ない」と思うことができないという日常はとても苦しいものだろうと思う。 インタビューで科学では不可解な出来事が多く語られる。でもそれを「ある」と思う人にはやはり「ある」んだと思う。いや「ない」と思う人にも「ある」んだと思うけど、私は日常的にそれほどスーパーナチュラルな体験をしないから、人づてに聞くだけだけどやっぱり「ある」と思ってしまうしね。(決して魔法の生きている暮らしは楽しいものではなさそうだ。)
…と色々考えるところがあって読みやすい本なのもあり久しぶりに一度読んで最初から読み直してしまったよ。
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