| 2005年11月12日(土) |
木枯らし1号>東京地方に昨年より1日早く |
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朝は自治会に出席。またまたうっかり熱く語ってしまって反省。責任も負えないのに語る資格はないわね。そして「どうしてそんなことまで」な最近の出来事に関する詳細を仕入れてきた。
終了後、ケロはすっかり出かける気持ちでいたらしく家に帰らないと泣かれたので、そのまま買物に。目的のフリース上着と冬用の帽子(どちらも保育園の外遊び用)は良いものが見つからなかった。
が、何故かのぞいたおもちゃ屋で、キティちゃんやその他のドールズハウス(廉価)をみかけ、「世の中にドールズハウスはシルバニアと木製だけではない」と反省。 でもねー、私考えたんだけど、三面鏡のように折りたためる壁を作ってドールズハウス用の壁紙を張って、床位置にカーペットをひいて、家具を置いたら、折畳式のドールズハウスできるんじゃない?舞台装置みたいだけど。(←何でも小さくなるものが好き。)ケロがこのままぬいぐるみ好きで終わるのか、抱き人形を欲しがるのか、小さい人形を使ったドールズハウス遊びをしたがるのかによって作るサイズが変わるので、しばらく考えのまま保留だ。 それともダイヤブロック買って家作った方が、他の形でも遊べていいかな。窓とか扉が規格パーツのサイズになってしまうので、遊べる人形サイズが限られるが。 …うーん、うーん、うーん。
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帰宅後ネット巡回をしてはっと振り返ったら、マッサージチェアのひじかけ部分にケロがクレヨンで落書きしていた。うわー、目を離した私がわるいんだけど、やっぱり七五三でもらったクレヨンは没収。油性だし描きやすいんだよね、きっと。
TVの着物姿の人を見てケロがなにやら言っていたので「また着物着る?」というと頷く。ので「(安物だけど)買っておいてよかった」「(安物だから)好きなときに着せてあげられるわ」「つまり安物を買って良かったということね」と喜びつつ気軽に着物を出した。紐が縫い付けてあるので、洋服の上に着物だけ羽織らせて紐を後ろで結んでおわり。でもかなり嬉しいらしく簪もつけろとうるさいので簪(パッチン留だけど)ひとつとちんころもつけてあげた。鏡を見て悦に入っていたよ。兵児帯も買ってあげよう。浴衣にも使えるし。
実は私「もう一枚着物を縫ってあげようかしら、こんどこそ手縫いで」とか「七歳の時は帯するから、今から着付け習って私が着せられるようになっておこうかしら。その時私も着られるように着物が欲しいわ。」等の妄想が広がっていて、密かにポリエステル縮緬の販売サイトを見たり、近所の呉服屋さんの着付け教室の張り紙に見入ったりしてるんだけど、しばらくすると熱が冷めると思うんでそれまで我慢してるんだ。 ああ、でも、甚平を作ろうと思ってまだ作ってない綿サッカーがあるから、あれで浴衣縫ってあげたら気が済むかな。
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月曜日に家人と入浴してから、ケロがそれまで立ったまま入っていた浴槽に屈んで肩まで浸かり「あったかいねー」と言うようになった。お風呂の入り方を教えてもらったらしい。 しかし今日入浴剤を入れたお湯に入れたら、下が見えなくて怖いのか「だっこだっこ」と怯えて立とうとしなかった。「足が立たないかもしれない水に入るのが怖い」というのは、人間として正しい姿だと思うけど、本能なのか学習なのか。多分学習だよね、本当の赤ちゃんは水怖がらないから。
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…ということで市販品で気に入ったのがなかったフリースの上着、ミシンを出して縫いかけ。途中まで縫ってサイズを見ようと「ケロ、ちょっと着てみて」と言うと最初「いやだ」と断られたが、気が変わって袖を通してくれた。どうやら気に入ったらしい。うっふっふ。 ケロが寝てから、続きを手縫い。本当はミシンが好きなんだよー、私はー。でもフェルト食材作ったり着物の揚げをしたりして、針を持つことにあまり抵抗を感じなくなってきた。結局仕上がりはミシンの方が(たいていのものは)綺麗だし早いから時間の無駄みたいな気もしてるんだけど、夜みんなが寝静まった時にできるからねぇ、手縫いだと。
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恩田陸「蒲公英草紙―常野物語」(2005-148) 集英社(2005年6月)
リクエストしてずいぶん長くかかった本。短編集の「光の帝国−常野物語」の方を読んで続きを読みたいと思っていたが、こちらは長編。宮城のある村の少女を語り手に、明治末期の時代と村の人々を描く。直近に読んだ本が「沼地のある森を抜けて」なのでつい比べてしまったが、現代の、答えの出ていない問題をテーマにするよりも、既に分かっている過去を舞台に、それを知らない人たちが未来予想を語る話の方が楽に書けていいなぁ(ちょっとずるい)などと余計なことを思ってしまった。 そしてここは常野の出身地に近いので、キーになる人達がみんな常野を知っているというのもちょっとご都・・・げふげふげふ。いやこの時代この地方ではそうだったんですね、きっと。
ストーリーはクライマックスで「こんなことが本当であればどんなにいいか」とは思いつつ、あまりに出来すぎではまり込めなかった(と言いつつぼろぼろ泣いてたけど、私の涙腺は私の思考とはリンクしていないのだ)。
丁度いいから「沼地…」読んで以来考えていたことの続きをここに書いてみよう。 「こんな時代」「これからの不透明さ」はいつの時代にもあり、それを厭い、子どもを生み育てることをしなければ、とーっくに人類絶滅していると思う。現在だって将来のことを考えたときバラ色の未来とは思えない。ビル・ゲイツだって飢えた人達全ては救えない。でも、もっと昔は自分の足しかその場から逃げる手段がなかった、その時に人々が感じていた絶望が今の私たちと違うかどうか分からない。だから「こんな時代」に子孫を残すことは特に珍しいことじゃない。もしかしたら子どもは幸せになれるんじゃないかという賭けを人類はずっとしているんだ。 そして「沼地…」で不満だったのは、それ「以外」の道を更に提示してくれるんではないかという私の期待が膨らみすぎていたからだと思う。 そして「蒲公英草紙」の方は、その賭けについて自分以外の人間に頼る姿勢に共感できないものを感じてはまれなかったんだと思う。賭けっていうのは、結果がわからないから賭けなんだよ。
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