ケロが夕方一人でベランダに出て、「きゅっきゅー」と言って戻ってきた。「きゅーきゅーはおうちにいるでしょう?」と言い聞かせたが悲しい声で何度も繰り返し、私をベランダに誘うので出てみた。 外で子猫が困った声で鳴いていた。「お外で猫ちゃんが鳴いてるんだねー。」と言うと頷く。困ったな、レスキューしに行った方がいいかな、猫ケージ処分しちゃったんだよな、と色々考えているとマンションのほかの住民が猫探しに出てきて「あっちだ」と言いながら追いかけていた。しばらくして鳴き声がしなくなったのでケロに「お外のきゅーきゅー、お兄さんとお姉さんが助けてあげたから大丈夫だよ、お家のきゅーきゅーはねんねしてるよ」と言うと頷いた。 ケロがもう少し大きくなるとうちは猫屋敷になるかもしれん。 ついでに猫のことは「にゃーにゃー」と呼んでいると思ったが、「きゅーきゅー」も一般名詞として使っているのか?
おたふく以来いろいろ滞っていたので、一部企画に着手。
梨木香歩「沼地のある森を抜けて」(2005-145) 新潮社
図書館にリクエストしてたら意外に早く回ってきた。村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を彷彿させる二本立ての進行。エッセイと小説を両方書いている作者の場合、同時期に刊行されたエッセイが小説の解題になっていること(とネタ使い回しになっていることも)があるが、「ぐるりのこと」でずっと梨木さんが考えていたことがこれなのか、と、この場合(読んだ順番もあり)こちらの小説の方が解題になっていたように思う。そして有性生殖の始まりを「食ってやろうと思った」と表現した人のことも思い出した。
ただこの小説の終わりは「事実ではあるが、言葉にすると全てが終わってしまう(それを言っちゃおしまいよ)」ことであるような気がして、それでいいのかと思ったり。 主人公の変遷のどちらにも共感する部分はあるのだけれど、やはりそれ以外の道もあると思いたいのよ、私は。
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