「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2017年04月24日(月) 瞑想するきっかけの作り方

世の中には瞑想する/自分を見つめる方法が色々とあります。音楽、散歩、日記をつける、自然の中に出かける。他には、食べることやテレビを見ることさえも、瞑想を始めるタイミングとして利用できるでしょう。利用するものがなんであっても、意識を一点に集中させることが出来るようになれば、こんな素敵なことはありません。大切なのは自分を見つめる時間を作る、ということなのですから。

少し、私の経験をお話すると、私はそれらの物を利用して自分を見つめ続けた結果、ある時から自分の呼吸の音に惹かれ始めたのです。自分の内側から聞こえてくるその音は、その他のどれよりも、より私に近く、つまりそれは私自身であり、他のどの音よりも自分を実感できたのです。それはまさに、生きていることを実感できる瞬間でもありますし、正しい呼吸法には他にも利点がありますから、瞑想/自分を見つめるのによい環境を作ることが出来ました。

そして、私という人間は心身ともに常に変化していますから、その時の状況や感覚で、音楽で自分を集中させたいと思ったり、料理をしながら瞑想したいと思ったり。良いことを発見したのだから必ずそうでなければならない、ということもなく、今ここにあるものを利用して、自分を見つめています。

みなさんはどのようにして自分を見つめる時間を作っていますか?よかったら、聞かせてください。


2017年04月19日(水) 「愛してるよ」

米国は今、夜です。私は少し前に寝支度を整えて、もういつでもお布団に潜り込むことが出来る体勢です。

もしあなたがこれを一日の終りに読んでいるのならば、本日のご自身へのご褒美は何でしたか?
今夜の私にとって、それは「愛しているよ」の言葉でした。私はシャワーをあびている間中、自分の体を温かいシャワーのお湯の中でストロークしながら心のなかで「愛してるよ」と言い続けました。

こんな風にした理由は次のとおりです。
シャワーの時間から一時間前にストレッチをしていたのですが、顔を斜め左に向けて首や肩のストレッチをした瞬間、泣きたい自分が現れたのです。最初、理由はわかりませんでしたが、私は個々最近の勉強集中で首を酷使していて、首や肩がかなり疲れていたのだとすぐにわかりました。そんな私が、ストレッチを通して自分がいま最も欲しているところに辿り着き泣きたくなったのです。もっと細かくお伝えしますと、<泣きたい>のもっと奥には、こんなになるまで放っておいて!があったのです。

そんなわけで、私は丁寧に首をケアし、気づかなかった自分を省みて、そのお詫びということでもないですが、その後のシャワーの時間で心は自然に、私の全身に向かったのです。そうして「愛してるよ」の言葉が溢れてきたのです。

心も体も、私の全てが普段の気持ちに輪を掛けて愛しい夜でした。



2017年04月10日(月) 正の強化刺激

先日、機会があってアシカのショーを見ました。アシカは人間の言うように動き、動いた直後にご褒美をもらうことを繰り返されることで、人間が指示する行動をするようになります。パブロフの犬の実験が有名ですね^^

私はこのアシカのショーを見た後、人間ももちろん同じように訓連することが出来ると考えました。特に赤ちゃんが、子どもから大人になるまでの過程には、周囲の大人は少しでもよいことを伝えようとして様々な、正の強化を試すものだと思います。一般に言われる "褒めて/認めて育てよう” というのは良い例だと思います。そして、もちろん大人にも。大人の私たちにも正の強化が出来ると思うのです。

子どもさんが相手の場合は、大人がその強化を施す人になりますが、自分のために行う場合、対象はもちろん自分自身です。私を含めた大抵の大人は自分で自分のことを決めることが出来ますし(ここでは、例えば、人生が大きく変わるような大きな決断については語っていません。もちろんそれが出来るのは良いことですが)、自分がしたいことすれば良いことも知っていますし、すればいい事してみたい事がわかっているのですから、あとは実行出来るように動いたり、すぐにでも出来るのであればその場で行動しさえすれば良い。やってみると意外と簡単なものだと、私は思っています。実際に経験した結果を見てもそのように感じます。

「え?なんだか特別なことをしているの?」

特別なことは何もありません。例えば、毎日の生活に、朝5時に起きて一日を始めるとします。朝の早い時間に起きた自分へのご褒美に、温かいお茶を入れて、ちょっとのんびりするのです。早起きの特権とかなんとかつぶやきながら。。。です。これを続けることにより、私は規則正しい時間を手に入れることができますし、夜には早く寝ることが出来、美容にも効果があるのです。これは立派な、<正の強化>。
ね。意外と簡単でしょう?!


2017年03月30日(木) 寄り添い

私は今、自宅でヨガのクラスを開いているのですが、今日は久しぶりにプライベートのレッスンを行いました。私は実は、プライベートレッスンが好きなのです。理由はその方の体の状態に合わせて丁寧に伝えていくことが出来るからです。それから、練習のプランもその方独自のものになるので、生徒さん自身もより取り組みやすいであろうと思っています。

ちなみに、クラスの中でいつも大切にしているのは、呼吸を意識することです。誰もが知ることですが、私たちは、例えば手足が不自由になってもなんとか生きていけるものですが、呼吸が出来なくなると、脳は三分で死んでしまいます。このことから、呼吸というものがいかに私たちの身体にとって重要であるかがわかると思います。

そして、この、呼吸というのは、私たちが唯一自分でコントロールすることが出来る内蔵器官なのです。私たちは、意識する以前に呼吸をコントロールするのです。例えば歩行中に何処かからタバコの臭いがしてきた時、タバコの嫌いな人は自分でも気付かないうちに息を止めたり細めたりすることがありませんか?嫌いな匂いは嗅ぎたくないですし、または体に悪い物を入れたくないという防衛本能も働くのでしょう。また、深呼吸して新鮮な空気を体内に取り入れるという行為は、私たちが呼吸をコントロールできる証でしょう。

このようなことを、私はいつもクラスの始まりにお伝えするのですが、今日は特別に生徒さんの名前を呼びながら、話を勧めていきました。一つ一つのポーズでは、生徒さんの横に立って、彼女と同じようにやってみたりして。それはまるで、2人で取り組んでいるような感覚。いつもと違う空気の中、穏やかにクラスを終えました。終わった時、私はこの一時間、彼女の呼吸に寄り添っていたような気持ちになりました。


2017年03月22日(水) 自分の中の、別の自分に出会ったら

先日、日本人のお友達どうしで集まった時、一人の女性が「自分には2つの人格があって、一人は今こうして皆とあってる活動的な自分。もう一人はどこにも出れないで家の中にこもっていたい自分。いつも活動的な自分が外に出て楽しんだ後に、陰気な自分が、なんでそんなことしたの!と、もうひとりの自分を責めてくるので辛い」と話し始めました。

皆さんにもこのような事を感じた経験はありますか?

多重人格と聞くと、一般的には精神的な問題を抱えた人のことを指し、特別な意識を持ちがちですが、自分の中に幾らかの、違う自分がいるのは特別なことでしょうか?

私は、私たちの中には少なくとも3人以上の人格が存在していると思っています。その人格達は、それぞれの状況において自分のために活躍するのです。自分のためにそこに居るのですから、多くの場合は、自分の人生をよりよい形に持っていこうとして活躍するのです。これは特に問題がないばかりか、よいことでしょう?時には頭の中の声に気づいたりして、そんな自分を知っていれば、別の人格たちと語り合い楽しむことができそうではないですか?

ちなみに、冒頭に書いた女性のように、活動的な自分を攻める自分がいるような場合はどうしますか?責められたら辛いですし、活動できなくなるのも問題でしょう。

そんな時は、ネガティブな自分がいるその原因、つまり、「外に出ちゃだめ!」と言う自分がいるその原因を探せるように行動を起こすことです。自分を探求する。例えば、その人格の言葉や、頭に浮かんでくることをひたすら書き出したり、どうしてそう思うのかと尋ね続けたり。ネガティブな自分に巻き込まれないように、持っている能力をしっかり意識することが前提になる作業ですが、丁寧に続けていくことで、何かしら、小さな形でも、道は開けてくるのです。

冒頭の女性が言いました。「でも、トラウマは癒せないよね」
私は答えました。「トラウマは自分で癒やせるんです」
自分の経験談なしでは心のことのは語りにくいので、私は自分の経験を語りました。

私のしたことは、まさに、自分の抱えていた問題の原因を探せるように行動することでした。繰り返しになりますが、その人格の言葉や、頭に浮かんでくることをひたすら書き出したり、どうしてそう思うのかと尋ね続けたり、と。ネガティブな自分に巻き込まれないように、持っている能力をしっかり意識して、丁寧に続けていくことで、何かしら小さな形の変化が起きてきたのです。開けた窓の外から春風が、レースのカーテンをふんわりかき分けて、そーっとこちらへ入ってくるように、静かに静かに道は開けてきたのです。



2017年03月10日(金) 心の目で視えるもの

皆さんは、生活様式や文化の違いなどを理由に特定の人に対してネガティブな感情を持つことがありますか?そんな自分に気づいたらどうしますか?

私は最近、仲良くしようとして接してくれる人を受け入れられない自分に気づきました。それは、無意識のうちに相手が近寄ってこないような方法や理由を考えている自分を何度か演じたあとのことです。私は、相手は自分に好意を持っており良い関係を築こうとしているのを知っていましたから、私の中に芽生えるネガティブな感情は自分の過去の経験から来ていると分かりました。(文化の違いに対する戸惑いは、相手を否定する理由にはなりません^^)

しかし、どうしましょう。そんな自分をわかっても、今、受け入れられないものは、今は受け入れられないのです。それなのに、相手は私に好意を持っているのですから、そんな相手を嫌いになれる理由もないのです。

頭のなかで、この状況を思い浮かべてみて下さい。うっかりすると、罪のない人を嫌いになる自分への否定が起こると思いませんか? 私もその例に漏れず、暫くの間、そんな自分を持て余したのです。

しかしその後、私は不思議と(いやなものはいやなのだから、仕方がない)と思うようになりました。そして、ある時から、私はどれだけその人のことを嫌いなのか、その相手と接している時の自分を観察しようと思い始めました。

すると、どうでしょう。それまで感じていた、いつの間にか相手に対するネガティブな感情が沸かなくなってきたのです。少し大げさな言い方ですが、私はある日、自分実験をしました。ネガティブな感情を持っている自分に気づいた時、「自分を観察しよう」と自分に言って聞かせたのです。すると、そう思えて間もなく、否定の感情は何処かへ行って、ワクワクする気持ちすら沸いてくるのです。

この気持ち、とても楽なのですよ。興味深いと思いませんか?それにしても、この変化は何でしょう?

私は以下のように思います。

相手にネガティブな感情を持つ時の私は、見ている対象、考える対象が相手になっている。(実際に目の前にいる人を見ることではなく、心の目で観察するという意味です。観ている、という字を使うべきかな)反対に、自分を観察しようと意識する時の私が対象にしているのは自分自身。つまり、真に自分に目を向ける時、他者がどうであるかは関係がないのです。実際に、私の心の目が対象にするべきなのはいつも自分自身ですものね。

この私の経験について、あなたはどう思いますか?よかったら、あなたの意見を聞かせてください。そして、生きていくのに大切なこと、ニュートラルな生き方について語り合いましょう。


2017年03月03日(金) 行事に思うこと

日本では、今日はひな祭りの日なので、こちら米国でも、ひな祭りを祝おうとする人々を対象にして、日本食材のお店には、ひなあられや桜餅が並んでいました。
 
米国でも日本でも、その他の国においても、行事というものは古くからその国に伝わってきた、その国の歴史や特徴を表す意味のあるものだと思うので、人々はその行事を大切にすることで、その国の文化を次の世代につなげていくのでしょう。
米国は多国籍の国で、いろいろな文化をお手軽に経験できる利点もありますが、米国独自の文化が何なのかわかりにくくなっていることを思えば、その国の文化をその国の特徴として伝えていくことは、私たちが世界を学ぶという意味で必要なことだと思います。

そして、別の面では、これらの行事の日には悲しい思いをする人々もいるということでしょう。例えば本日の、おひな祭りですと、子どもを持てないご夫婦や祝ってくれる大人が家庭に居ない子どもさんなど。私の子ども達も、親の都合でひとり親家庭に育ち、普通でないと言われている人々の中に入るので、どんな思いを持っているか機会があれば尋ねてみたいと思っています。確か、以前息子は、そういうのは気にしない家庭だから、と言っていましたが。。。

さらに、問題と思う考えも浮かんできます。例えば、もしかすると幾らかの人々は、これらの行事にまつわる経済作戦に足を引っ張られているのではないか、ということです。雛人形は、品質にこだわらなければ、今では100円ショップでも買えるようになりましたので、決して高くはないですが、女の子が家庭にいることを嬉しく思う為に、必ずしも雛人形が必要ではないでしょうから、そうすると、その100円ショップ訪問さえもいらない気がしてきます。彼らの性別に関係なく、子どもや孫が、人生の喜怒哀楽をシェアする相手としてそこに居ることだけでも充分な喜びのように思うのです。

そんなわけで私は、歴史や文化を学ぶ目的以外では、いろいろな行事にあまり関心がありません。その代わりに、今の時期ですと、日差しが少し暖かくなって瞬く間に開花した梅の花をじーっと眺めている方が楽しいのです。時には、戴き物のひなあられでお茶を楽しみながら。







2017年02月25日(土) グラウンディング

ヨガをしていると、Grounding (グラウンディング)という言葉をよく聞き、練習の最中にかなりの頻度で意識します。グラウンディングがうまく出来て初めてポーズの安定はもちろん、自然界のエネルギーを上手に体内に取り込んだり、体内で作られるエネルギーが無駄に放たれるのを防げると言われています。

このように言ってしまうと何か特別なことのように思われるかもしれませんが、私は、これは日本語で言うと <地に足をつける> とか <根付く> とかいうことだと思っています。自分の考えを持って、周囲の状況に右往左往せず、安定した心で生きている、大地に静かに立っている大木のようなイメージです。時には強い風に吹かれて葉の先端が小さく大きく揺れますが、その土台、私たちの中心はいつも私たちの中に、揺るぎなくそこにあるのです。なんと素敵なことでしょうか。(エネルギーに関しては、別の機会に語り合いたいと思います)

ヨガでのグラウンドは、身体の安定を思わせますが、実際には心の安定も大きく関係しています。今していること、ヨガの時間ですから、ヨガのこと以外は全て頭の外に小さくたたんで置いておき、そうして、意識の全てを自分の呼吸と身体の声に向ける行為は心の安定があればあるほど楽だと思います。そして、そのように意識することは心の安定にも繋がるのです。こうして考えるとヨガは心と体の安定に一石二鳥です (他のスポーツにおいても同じことが言えるでしょう)

そんなわけで、グラウンディング/血に足がついている自分をいつも意識して、安定した自分を育てましょう。意識することによって、上がらなかった足が少しずつ上がるようになり、伝えられなかったことが少しずつ伝えられるようになり、見えにくかった世界が少しずつ、楽に見えるようになり、心と身体の利用領域が広がりそうだと思いませんか?


2017年02月17日(金) すきま風が入ったら

私たちは、実は気付かないうちにマイナスに巻き込まれていることがあるのです。例えば、これは私自身の体験ですが、
先日の、なんとなく活気がない自分に気づきました。特に心当たりが浮かばないうちにあ、(うんー。なんか今日は冴えないなぁ。。。)という程度だったのですが、それにしても、そんなふうに思うのはおかしいと思って原因を探したのです。そうしたら。。。

原因は、その前の日に女性のヨガクラスメイトに会った時の彼女の涙にあったのです。涙の理由の詳細は省きますが、彼女の話を聞く中で私は過去の自分をぼんやりと思い出していました。うんと昔、生きている意味を見いだせなくて右往左往していた過去の私です。しかし、過去のことを思い出していたのはほんの一瞬ですし、まさかその自分に巻き込まれているとは思いもしませんでしたが、今考えてみると、彼女と語り合った後の一日とその翌日、彼女の表情を度々思い出していたのです。つまり、彼女と過去の自分を重ねていたのでしょうね。

このように、私たちは往々にして、知らないうちにネガティブに巻き込まれていることがあるのだと思います。ネガティブはまるですきま風のようにスーッと、気付かないうちに私たちの心に入り込んでくるのでしょう。

しかし、いろいろな自分に気付けることは心からの喜びです。特にその気付きがネガティブな自分であった場合は心の整理をしてトラウマを癒やせばいいのですから。

皆さんにはこのような経験はありませんか? 機会があったら、シェアできたらうれしいです^^


2017年02月15日(水) 目線の違い

ご無沙汰していました。実は全米ヨガアライアンス資格取得のためのレッスンに通っていたので、睡眠、食事、おトイレとシャワー以外の殆どの時間をヨガに利用していました。ちなみに、資格が捕れるのは少し先のことです。これから数ヶ月自分で丁寧に練習し、春にもう一度2回めのクラスを受け、解剖とヨガレクチャーの試験にパスすると資格が取れることになっています。

今回一緒に勉強した生徒さんは殆んどアメリカ人の女性、男性は2人でそのうち一人は日本人でした。年令的には、私よりも若い方が半数で、残りの半数は私と同じか少し年上の方もいらっしゃいました。ここで既に、日本文化と後外に気付かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本では、60代近くになって新しいこと、特に身体を使うことに挑戦しようとする女性は少ないのではないかと思います。

年齢幅も含めて、経験の度合いも違っていました。運動系のお仕事をされている方、ヨガに魅了されてヨガの世界で生きている方、それから、東洋医学系のお仕事をされてきた後、ヨガにたどり着いたという方など。私の場合は、身体と心のつながりを深めることにこの上ない魅力を感じていますし、自身の体の成長を観るのはほんとうに楽しいですし、この楽しみを人々と分かち合えたら、という思いからヨガを続けています。そして、せっかく米国にいるのですから、英語でレクチャーできるようになるのもまた楽しいのではないか、という思いです。

基本的に英語技術の不足がある私、皆さんの英語をなんとかかんとか一生懸命聞き取りながら、わからなすぎて落ち込みそうになる私を手伝ってくれたのは、ヨガインストラクターとして活動したい私におつきあいしてくれている日本人の生徒さんたちを通してほそぼそと続けているヨガクラスでした。それから、周りの人のほんわかした空気の中で、アメリカ生活の中で一番充実した日月だったと思っています。

さて、そんな私、最終日の数日前に、あることに気付いたのです。
心のことを勉強し始めてからずっと、なが〜い間、そして今でもヨガクラスを開く時、自分の子ども達と語り合う時に、心に留めているいることが1つ。(他にもたくさんありますが)

私は、教師やヨガのインストラクターなど、他の人の成長を手伝う仕事をする時、彼ら(生徒さん)の成長は彼ら自身の力によるものだ、ということを手伝う側のほうが意識していることが基本だと思うのです。というのは、私は日本で度々”おかげ”という言葉を聞来、その言葉に違和感を感じてきたからです。

私のお伝えしたいことは、教える立場の人を無視していいということではないのです。もちろん、成長したい人をよりよい方法で導いてくれる人々は貴重なのです。そして、”おかげ”という言葉で、せっかく持っている自分の能力をどこか卑下したり小さく見積もったりしてしまう可能性があるので、気をつけたほうがいいということなのです。

私はこのアイデアを、特に自分の子ども達と語り合う時に意識します。彼らは彼らの力で生き延びているといつもいつも自覚しておくと、私自身を心の自立を手伝い、良い毎日を作るきっかけが掴めると分かるからなのです。

さてそんなある日、レッスンでインストラクターとしての活動についてのディスカッションを受けている際、私はこのアイデアについて発言しようと準備していたのです。ところが、ふと気づくと、と言うより、気付くのが遅かったのかもしれないのですが、レッスンの始めから終わりまで、それぞれの生徒さんが自由に発言し、それはインストラクターのコメントに追加する形であったり、時には反論する形であったりとバラエティに飛んだものなのですが、どうも見ていると、インストラクターの方は生徒が意義を申し立てることにネガティブな感情を持ったり、上からの目線で生徒さんの動きを止めようとするような動きが見られない。つまり、彼らは、私の目から見て、彼らは生徒さんと同等の立場にいるように見えてきたのです。ですから、私がこの10年間折に触れて思い返してきたこのアイデアについて、彼らの中に既に浸透している、当然のこととしてあるのだという結論にたどり着きました。

日本とアメリカの大きな違いだ、と思っているのは私だけでしょうか。それとも、私と同じように感じている方もいらっしゃるのでしょうか。いずれにしても、この気付きは私のココロのドアを更にオープンにしてくれました。自分の持っている能力は、他の人と比較するものでも自分の中にしまっておくものでもなく、持っているもの、自分を活かすものとして、大いに活用していいのだと、改めて感じた時間でした。

毎日が更にワクワクです。


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