「静かな大地」を遠く離れて
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2011年05月29日(日) |
大島真寿美『ピエタ』 |
大島真寿美さんの『ピエタ』を読了。読んでよかった。読めてよかった。 小説を読むという行為が億劫で億劫で、どんな本にも手が伸びない昨今、 ふと数日前に手に取って、台風の接近する夕方に読み終えた。 大島さんの小説は『チョコリエッタ』がなぜか大好きだった。 時間と意識の流れのようなものを体感させる不思議な力がある。
『ピエタ』はヴィヴァルディの時代のヴェネツィアが舞台。 孤児たちを養育するピエタ慈善院の「娘たち」の物語。 須賀敦子さんや陣内秀信さんのおかげもあってか未知の場所とは思えない。 塩野七生さんの『海の都の物語』も面白かったが、『ピエタ』を読んで ヴェネツィアが、都市が、そこで生きて動いている人が、愛おしく思えた。 栗本慎一郎師も『都市は、発狂する』という本で、シモーヌ・ヴェイユが書いた 「救われたヴェネツィア」という戯曲の話を引いて「都市愛」を論じていた。 このくだりが十代の頃、ひどく好きだったのを思い出した。
■栗本慎一郎『都市は、発狂する』より さて、ヴェイユの戯曲「救われたヴェネチア」は、都市とは、そこに 生まれたか否かを問わず、人にとってなつかしいところだというテーマを 追っているものだ。ヴェネチア生まれではないジャフィエが、都市への愛に 目ざめ、都市に実際に生まれたはずの長老たちが、ただ、自分の住む場を 守るための統一と団結という低俗なムラ的次元におちこみ、 ウソの誓いを立て、人をダマして保身をはかった。 これは、たいへん皮肉な筋書であるとともに、都市が、ふるさとなき者たちの ふるさとであり、実際に都市に生まれた者たちだけのものではないことをも 示している。ヴェイユの生涯を追いかける『シモーヌ・ヴェイユの死と信仰』 (教文館)という本を書いた宇田達夫さんは、ヴェイユの都市論をまとめて つぎのように言う。 「都市への愛こそ、人間の抱くべき、真に崇高な愛である。(中略) その都市とは、今日大都市などといわれる類いのものとは根本的に違う。 ヴェイユにいわせれば、『それは人々の呼吸する空気と同様意識されない 人間の環境』であり、『自然、過去、伝統が夫々相互に接触しあう接触領域』 であり、『メタクシュ』すなわち仲立ち、壁、橋などとも共通の理解を含む 特殊な領域のことである」 そうなのだ。都市では、集団の言語が支配したりするようなことは、 起こりがたい。市政の指導者たちが、思い切ってオロカであることはありえても、 人間が、その根源の裸の姿のまま接触できる領域としての都市とは、どこかで 自浄作用を持っているものだ。 都市にそれがなくなれば、もはや、世界のどこにも、人間が根源から解放される 空間はない。その都市はいま、崩壊と発狂の危機にさらされている。
『ピエタ』は、この人間の希求の力強さを、精一杯の愛惜をもって描き出している。 これを書いてくれた大島真寿美さんに感謝したい気持ちでいっぱいだ。
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