BECKの徒然草

BECK

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己の道を行く
2016年12月27日(火)

生産性のあることしか考えられないような精神状態でここ3日間くらい過ごしている。そして人の意見を聞くことよりも自分の思考を整理することに手一杯である。そう、年末の大掃除が仕事場と実家とほぼ同時に始まったのであった。どうしたら最小のスペースで最大の物質を配置できるのか。しかも美しい分類、美しい配置によって。既に決定された間取り図と棚の寸法の中で、私は最高の整理を目指す。「未整理」と大書きされたクリアファイル、山積みになった書類、「きちっと整理するべきではない。あいまいな物もあっていい。」といった意見などの反逆要素にもめげずに、自分なりのディヴィジョニズムを具現化させていく行為。


悲しき熱帯
2016年12月20日(火)

レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」やっと上巻読み終わる。志の高さと知性溢れる素晴らしい本。
こんな自分が言う資格なんてないかもしれないが、その崇高さを目指す者でありたいなあ。頭を使って時に苦しい時もあるけれど、この調子で下巻を読むのだ。読破するまで他はお預けです。


ここ7ねんぐらいを回想してみる
2016年12月19日(月)

一枚の美しい布を見たときに感じる、きらきら光る崇高さ。その奥には、日々の生活から生まれる力強さ、それも豊かな自然環境の中で育まれた人間にしかできないしなやかな力強さがある。
なぜこんなに力強く美しいものが生み出せるのだろう、そう思いながら自分の浅い制作経験と照らし合わせてみる。油絵学科のときは、「なぜつくるんだろう」という問いばかりが先行して、頭だけで手が追いついていないようだった。テキスタイルに移ってからは、手に職をつけるのが精一杯で、それでも後からなんとか思考もついてきたようにも思う。その途上で経験した共通絵画の1ヶ月は、今から考えても自分にとって大切な時間だった。

目の前にある石、たったひとつの、だけどとてつもない存在を、どう受け止めればいいのか。シンプルな故に小手先では逃げられない命題を出されたようだった。それまでの油絵の課題では言葉ばかりが先行していてモノが後回しになっていたが、(今自分が生活している環境も、モノより言葉が重要視されがちであるけれど、)あの時は「大きな石と自分」というシンプルな関係をどうとらえるか、その一点だけが重要だった。大きな石というモノの秘めている力と、自分の奥深くに眠っている無意識を、ひたすらに感じ、対峙させた一ヶ月だった。そしてその時は「こわい」という単純な感情が、石と自分のとりあえずの帰結点となって画面に現れた。

その後の、テキスタイルの2年間、社会に出ての3年間は、いってみれば技術習得がメインだった。しかし、日々の合間を縫っての制作や、これから始まるミュージアムの仕事も、技術ではなく、「モノがあって自分がある」というシンプルな関係性を追求し続けること、(もしかしたら美術という枠すらも取り払って)そうして見えてくる本当の美しさを求めることが、これからの自分にとってのテーマなのではないか。


議論
2016年12月14日(水)

議論というものは、自分が思っていることと相手が思っていることの差異を確認し、その差異をお互いの歩み寄れる一つの帰結へと導こうとする行為である。がしかし、そもそも自分の思っていることを他者に伝えるということが難しい。一人で考えた末のモヤモヤをわかりやすい言葉で伝えることがまず難しいし、話している間に自分でもよくわかならくなり、余計なことを言ってしまう。そして、今度は相手の言っていることを聞かなければならないが、これも難しい。自分が言おうとしていることで精一杯で、相手の話を聞くのもままならない。それに自分が話していることが既に破綻しかけているので、その話を理解しようとして返ってくる言葉も、もともとの議論の前提からは外れている場合が多い。


NHK
2016年12月05日(月)

100分で名著、今月はレヴィ=ストロースの「野生の思考」です。未読ですが、丁度いま「悲しき熱帯」を読んでいたので、とても楽しみです。彼は美術に携わる人たちに対しても、重要なことを書いてあるように思う。とくに自分にとっては、所謂アカデミックな文化人類学なモノの見方と、「何が美しく、何が美しくないか」という審美眼の間にある溝を、この当時ですでに的確に指摘していることが衝撃。少し背伸びをしつつ紹介。


アフリカ的段階とラオスの布
2016年11月18日(金)

深い傷を癒すためには、人類の起源となるアフリカの地を目標に、思考を一旦ゼロに立ち戻らせることが必要。

ラオスの短繊維を柔らかく紡ぐ。短繊維だからと言って強撚にするのではない。何事も単純な軌道は描かない。


危ういながらも生きている
2016年11月14日(月)

何かを残そうとする意思は、社会に対する意思表示であると同時に本当の自己を見つける訓練。お遊びで終わらないためには、永遠にプレイし続けることを課す。もはや表現といえなくなった先に出てくるものって禅的。


北鎌倉
2016年11月13日(日)

漆芸家の方の展示会を見に、会社の上司と北鎌倉に行ってきた。
3年前の展覧会で初めて見て、その時からずっと頭の片隅に残っていた。
無駄なものがない、素材に素直なものづくり。
角皿なんてマーク・ロスコの絵画のようだ。

他にも色々言いたい形容詞は出てくるけど、言葉が陳腐になってしまうと感じるくらい、もの自体の迫る力がある。上司は風邪気味だったけど、いつものように熱く工芸論を語っていて、かっこよかった。

寺を回ってあんみつを食べた。


結婚式
2016年11月12日(土)

日記をつけようと思う。
学生の時にも、こういったweb日記をつけていたのだけど、
サーバが閉鎖してしまい、そのまま終わってしまった。
一応その頃の文章もパソコンには保存してあるので、
気が向いたら載せてみようかな。

今日は友達の結婚式だった。
半分屋外での神前結婚は清々しい雰囲気の中行われた。
初冬の透き通った光が木々から差して、
よく手の行き届いた境内が、
より一層清められているようだった。
自分もとても澄んだ気持ちで祝うことができたように思う。
披露宴の料理もとても立派で、
同じ年なのが少し信じられないくらい立派な会だった。
おめでとう。



2012年12月12日(水)


染まる
エネルギー

「力」
それだけではなく、様々な感情を生み出すものとしての
エネルギー。

ドローイングをそのまま表すことから、
織物の中に入ってドローイングすることに移ろう

絵画という括りのなかで、
もしくは、「絵画」というテーマを念頭に置くことをやめるんだ!



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