議論というものは、自分が思っていることと相手が思っていることの差異を確認し、その差異をお互いの歩み寄れる一つの帰結へと導こうとする行為である。がしかし、そもそも自分の思っていることを他者に伝えるということが難しい。一人で考えた末のモヤモヤをわかりやすい言葉で伝えることがまず難しいし、話している間に自分でもよくわかならくなり、余計なことを言ってしまう。そして、今度は相手の言っていることを聞かなければならないが、これも難しい。自分が言おうとしていることで精一杯で、相手の話を聞くのもままならない。それに自分が話していることが既に破綻しかけているので、その話を理解しようとして返ってくる言葉も、もともとの議論の前提からは外れている場合が多い。
100分で名著、今月はレヴィ=ストロースの「野生の思考」です。未読ですが、丁度いま「悲しき熱帯」を読んでいたので、とても楽しみです。彼は美術に携わる人たちに対しても、重要なことを書いてあるように思う。とくに自分にとっては、所謂アカデミックな文化人類学なモノの見方と、「何が美しく、何が美しくないか」という審美眼の間にある溝を、この当時ですでに的確に指摘していることが衝撃。少し背伸びをしつつ紹介。
深い傷を癒すためには、人類の起源となるアフリカの地を目標に、思考を一旦ゼロに立ち戻らせることが必要。 ラオスの短繊維を柔らかく紡ぐ。短繊維だからと言って強撚にするのではない。何事も単純な軌道は描かない。
何かを残そうとする意思は、社会に対する意思表示であると同時に本当の自己を見つける訓練。お遊びで終わらないためには、永遠にプレイし続けることを課す。もはや表現といえなくなった先に出てくるものって禅的。
漆芸家の方の展示会を見に、会社の上司と北鎌倉に行ってきた。 3年前の展覧会で初めて見て、その時からずっと頭の片隅に残っていた。 無駄なものがない、素材に素直なものづくり。 角皿なんてマーク・ロスコの絵画のようだ。 他にも色々言いたい形容詞は出てくるけど、言葉が陳腐になってしまうと感じるくらい、もの自体の迫る力がある。上司は風邪気味だったけど、いつものように熱く工芸論を語っていて、かっこよかった。 寺を回ってあんみつを食べた。
日記をつけようと思う。 学生の時にも、こういったweb日記をつけていたのだけど、 サーバが閉鎖してしまい、そのまま終わってしまった。 一応その頃の文章もパソコンには保存してあるので、 気が向いたら載せてみようかな。 今日は友達の結婚式だった。 半分屋外での神前結婚は清々しい雰囲気の中行われた。 初冬の透き通った光が木々から差して、 よく手の行き届いた境内が、 より一層清められているようだった。 自分もとても澄んだ気持ちで祝うことができたように思う。 披露宴の料理もとても立派で、 同じ年なのが少し信じられないくらい立派な会だった。 おめでとう。
赤 染まる エネルギー 「力」 それだけではなく、様々な感情を生み出すものとしての エネルギー。 ドローイングをそのまま表すことから、 織物の中に入ってドローイングすることに移ろう 絵画という括りのなかで、 もしくは、「絵画」というテーマを念頭に置くことをやめるんだ!
赤と黒と白 すべてが独立している気がするので、もうすこし洗うことが必要だ。 調和してなければ意味がない 芒 調和 内面・無意識 そしてメッセージ 非西洋圏のアートは、環境問題/社会問題に対して真っ向から対峙しているように感じる。 それはそれらが彼らの意識の中心にある問題であり、 変えていかなければいけないことだからだろう。 自分にとっても、今回の震災はそのようなレベルで題材にすべきテーマである。 まず、電気、というか、エネルギーの問題だ。 エネルギー=身体として捉え直す。 身体から出る力、ゼロから生まれるもの。 そこに、「色」という感情でじっくりと染めて、自己を表現する。 直截的だ、ストレートだ、わかりやすくなければいけない。 これはメッセージなのだ、命に対する、鎮魂歌なんだ。 1年半というまだ短い間ではあったが、染織を学んだ上で、 最初に始めた「描く」という直接的な表現に近いところまで一旦持って行く。 そして、「織る」というより抽象的/間接的な表現へと、移行させていく。
点 線 面 綿が糸になる(無から線へ) 糸が織物になる(線から面へ) その面はしかし、経と偉からなる面であって、 経糸と緯糸が、同じ色の場合は、その色の面となる 違う色の場合は、a色、b色が点描のように、点となって交互に現れる。(面から点、若しくは点から面へ) 色面(あるいは点の集合による面)は直交する直線のみによって現れる。 織物の原理 表現の原型 色 なぜ紡ぐのか 「獲得」 そこに譲れない何かが 身体を以て画面を制すること 身体性 色 具体 表出 何らかのイメージの図解 風景画ではなく、頭のなかのイメージ 図解は頭でイメージしていたもの それを現したときに、感じる、新たな感覚 風 透過性 なぜ織物 原理を理解する そこに既に存在する思考 無意識の思考 テンガナンの城壁に 守られているものと いないもの 城壁をかいくぐって運び込まれる風 城壁はいつからできたのか 昔から信じられて守られていた慣習 信じることを続ける 続けることを信じる 何十年も何百年も 傍から見れば、 まったく意味のない慣習を 赤、黒、白は、アジアの色。 土と風、 しっとりとした風が吹く。 雨が降る。 そして強い光が大地に注がれる。 光の色 それは白か、黄色か、はたまた、 他者に委ねるとするか
現代アートの難解は、自分にとって本当に必要なものなのか アカデミズムという枠を外したときに、そこからどれだけが己の体の血となり肉となり、また精神の安らぎを得られているのか 感動とはなんだよ、 シンプルなことでも突き詰めれば何かは生まれるのだよ、 単純な方法で、永遠と繰り返すのだ、 男性・女性という二元論のなかで絵画を判断すると、 女性性は暖かい色、小さなキャンバス、有機的なフォルム、壊れやすさ、はかなさ。 男性性は冷たい色、大きなキャンバス、直線的なフォルム、強さ、力、といったイメージ。 そこまで単純明快なイメージはそんなにないが、実際を見てみても、 男性のなかにある女性性はあくまで男性らしくあり、 女性のなかにある男性性はあくまで女性らしくある。 ここまで考えて、そんなことはどうでもよくて、 自分自身は自分自身なのだということに気付きました。
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