BECKの徒然草

BECK

My追加


2019年01月20日(日)

数字のことだけではない

実際の苦しさ
他メンバーとの不平等

私は言いたい



2018年11月18日(日)

まず確認しなくてはならないのは、「アンチ機械文明としての手仕事」ではなく、作り手の生産・創作意欲を阻害する因子としての行き過ぎたマスプロダクション社会、経済優先社会への対抗として、手仕事を見直す、ということ。作る側の人間がもっと自由に発想して、愛をもって仕事に打ち込めるような、ものづくりと人間の関係性を見つめ直す場をつくりたい。また、そのような場が実際に社会へのアンチテーゼ(価値の変更の申し入れ)となるように、リアルに繋がる必要がある。(『つまり、制度とか、現存する社会がこうなっている仕組み自体は、それは、無意識としては受け入れているところを前提としたうえで、しかし、教育のほんとうの目的は何なのかっていったら、やっぱりぼくは、価値の変更ってことにあるんだよっていうふうに思えてならないところがあります。』吉本隆明「私と生涯学習」講演日時:1993年10月3日/主催:文京区教育委員会/場所:文京区女性センター/収載書誌:弓立社『人生とは何か』(2004年))
だから、現在の日本の市場で販売し、収益を上げてはじめて、責任をもって上記のメッセージを伝達することができる。



2018年09月11日(火)

周りのこと全体のこと考えないで着実に整備してきた人たちの決定権を迫害して最終的には自分の気分で判断する人。内実を知ろうとしないのでイラっとする。細かいところ、ぜんっぜんわかってない。しかし、めぐりめぐってその細かい所、自分たちの追われている雑務の大変さが周囲に理解されていないことが問題であって、それが一番問題?あるいは、このような組織が働きにくい環境を作り上げてしまっている体制が問題なのではないか?

以上のことを悶々としながら考えているが、本当に考えぬきたいことはそんなことではなく、どういうふうに生きていくかとか、なにをしたいか、とかもっと創造的なことである。組織に属することで生じる、本当にどうでもいい問題に直面しなければいけないことがとても面倒くさい。こんなことをずっと考えながら生きていくなんて滅法御免なので、そのうち組織から独立して生活していきたい。


もやもやとした心
2018年04月29日(日)

現代染織工芸における美意識の問題

なぜこうまで美意識が低いのか。

先生と呼ばれる人たちは薀蓄ばかりで実がない
学者は技法や学術的なことばかりで美を忘れている

もっと「生き方」や「スタイル」、「思想」を打ち出さないのか。
ビジョンを描かないのか。

そして自分。
目の前のことしか見えていない。
目の前のことをこなすことで精一杯。

それはしょうがないことでもあるけれど、夢を忘れちゃいけないな。

あの日自問自答したことを、本を読んで共感したことを、ある人の言葉に胸を打ったことを。

繰り返すことで生まれる力。身体を信じて直観を信じて感じる美。大地の上に立っている。さーっと風が吹き上げる。さあこれからだ。


美しいものと現代社会の接合点
2018年02月25日(日)

美しいものと現代社会の接合点

作りたいという意欲の本質

溢れるばかりの造形

住む環境の作用

単純な形体が驚くような効果を生むデザイン

手工芸が生き延びていくための道



2017年02月05日(日)

もともとは美術大学の油絵科が出自なので、学んだことも今振り返ってみれば無意識にも西洋芸術を中心に据えた見方で学んでいたのだと思う。とくに好きだったのは大竹伸朗。彼もまた、20代のころのイギリスへの旅し、デイヴィット・ホックニーやマイク・ミルズと出会ったことが画業を形成していく上での重要な要素となっている。彼のその後の活動はアフリカに旅したり、日本の地方に注目したりと、決して西洋を中心に据えて表現を行っているわけではない。しかし、表現活動をする場として選択しているのは現代アートのギャラリーや美術館で、そういった施設のキュレーターは西洋美術や現代アートばかりを勉強してきた人たちなので、どんなに作品が非西洋圏をモチーフとしていたとしても、展示の仕方や紹介のされ方などは自ずと西洋的な文脈に書き換えられてしまう。

自分の働いているミュージアムのコレクションには、ホモジーニアスな歴史観から逸脱しているような、血なまぐさい首刈りだとか、人身供養などの風習があった地域のものもたくさんある。そういった地域の歴史や思想というのは、現代アートでも深く掘り下げられることは少ないし、ましてや義務教育では教わらなかった。

いまこうやって世界の染織品を直に手で触れたり、その民族について深く知るにつれて、いままでの「現代アート」的なフィルターで見ていた、いってみれば物見遊山に流し見気分で見ていた感覚とは違う、新しい感覚をが芽生え始めている。はっきり言うと、自分の今までの生き方や考え方が、そんなに正しいものとも思えなくなってきた。近代資本主義的生活、国家、社会、そして「私」までもが、確固として存在していることに疑問が湧いてくる。

いま自分がやっていることは、モノを見ること以上にその「背景」を見る経験なのだと思う。人類が散り散りになってそれぞれの空間で生き延びていくうえで作られたモノたち。それらには現代に溢れかえっている趣味的な「なんちゃって作品」にはない、必然性がある。そしてその必然性は、ホワイトキューブの中で一巡してすぐに理解できてしまうような簡単なものでは決してなかった。



2017年02月03日(金)

別冊ele-king「アート・リンゼイ 実験と官能の使徒」に寄せられた文化人類学・今福龍太さんのインタビューから多くを学んだ。アート・リンゼイのニューヨークとブラジルを往復するなかで生まれた新作『CUIDADO MADAME』をテーマとしつつ、今福さんとブラジル・中南米との関わりや、映画監督の話があり、最後はブラジル・ガイーアのカンドンブレ、キューバのサンテリーア、ハイチのヴードゥー、アメリカ南部のフードゥーなどの音楽が全て「黒人奴隷の移動の軌跡とインディアンの強制移住の歴史」の上で同じ系譜にあると語る。そしてそれらを繋ぎ合わせようとする現代ミュージシャンのハイブリット試みは非常に刺激的だという。「顔つきも、身につけた言葉遣いも、身体のリズムもみなそれぞれ違うけれども、それを出会わせてみたら、おなじひとつの兄弟姉妹から生まれた末裔たちはなにを感じるのか。」

この発想は自分が今関わっている仕事にも活用できないだろうか。フォークテキスタイルという工業化以前の名もなき民の染織品は、身のまわりの自然と共同体との強固な結びつきから生まれたものである。歴史のなかで複雑に絡み合った国、民族、宗教を紐解いていき、一つの大きな道をたどっていく…。
おそらくテキスタイルにおけるこの探求のプロセスとしては、民族のアイデンティティを表す文様や色などが主要なテーマとして位置付けられ、他方では風土に根ざした素材・技法といった視点がより背後にある造形性として比較されるだろう。もっといくと、やがて経糸緯糸以前の、乱数的なテキスタイルとしてのフェルト、樹皮布までさかのぼることになろう。また、テキスタイルという枠をとってしまえば、人類の起源まで遡り、ついには人、モノ、生物、すべての境界が消滅した「無」という哲学的境地をさぐることになる。

こまやかでマニアックな探求ではあるが、このような大きな道筋をたてて研究することが、研究を人類全体の未来を探りえる有意義なものとして成立させることにつながる。


人格
2017年01月28日(土)

困難な状況においても焦らず、めげず、へこたれず、冷静に対応できるか。「どうなっちゃうんだろう」という不安に対して、きちんと向き合えるのか。「今やるべきことはなんだろう」と、絶えず自問自答できるのか。そしてそういった時に心の支えとなるものを持っているか。考える時は孤独になれて、ひとの力が必要な時には求められるか。反対に誰かが求めている時は力を貸せるのか。そもそも誰が何を求めているかを認識しているのか。

色々な問題が次から次へとやってきたときに、自分のことで精一杯になっていては何もできない。心を無にして、その状況を切り抜ける「術」を磨くんだ。


行動
2017年01月09日(月)

白楽に行ってから、鶯谷に行き、生田に帰り、寝て、起きて根津に行ってから、武蔵五日市に行き、また生田に帰って寝る。


今年の抱負
2017年01月03日(火)

皆が抱負といって様々なことを言っている。私もその流れに乗ってひとつ。

去年は年明けすぐに転職、教育実習、個展、祖母が亡くなる、旅行もわりと行く、と実にいろいろなことがあった。たくさんの出会いがあり、別れがあった。たくさんの場所に行った。楽しいこともあったし、悲しいこともあった。実はまだ整理しきれていないくらいだ。

そこで、今年はゆっくりじっくり過ごすように心がけたい。そんなことを思っていたって、実際たぶん忙しく過ごすのだと思う。だけど、去年のたくさんの出会いをきっかけに、今年はそれを深めていく、というとなんだか辛気臭い。けれど初めて会った人と次会う時は、もっとゆっくりじっくり、たくさん話したいと思う。「出会い」というのは、たんに人と人が「こんにちは、はじめまして」ということだけではなくて、相手をよく知る、知ろうとすることだということを最近思っている。だから旧友と話すことだってそれは新たな出会いだ。新たな出会いを重ねること、そんな一年にしたい。



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