BECKの徒然草

BECK

My追加

結婚式
2016年11月12日(土)

日記をつけようと思う。
学生の時にも、こういったweb日記をつけていたのだけど、
サーバが閉鎖してしまい、そのまま終わってしまった。
一応その頃の文章もパソコンには保存してあるので、
気が向いたら載せてみようかな。

今日は友達の結婚式だった。
半分屋外での神前結婚は清々しい雰囲気の中行われた。
初冬の透き通った光が木々から差して、
よく手の行き届いた境内が、
より一層清められているようだった。
自分もとても澄んだ気持ちで祝うことができたように思う。
披露宴の料理もとても立派で、
同じ年なのが少し信じられないくらい立派な会だった。
おめでとう。



2012年12月12日(水)


染まる
エネルギー

「力」
それだけではなく、様々な感情を生み出すものとしての
エネルギー。

ドローイングをそのまま表すことから、
織物の中に入ってドローイングすることに移ろう

絵画という括りのなかで、
もしくは、「絵画」というテーマを念頭に置くことをやめるんだ!


赤と黒と白
2012年12月09日(日)

赤と黒と白
すべてが独立している気がするので、もうすこし洗うことが必要だ。
調和してなければ意味がない


調和
内面・無意識

そしてメッセージ

非西洋圏のアートは、環境問題/社会問題に対して真っ向から対峙しているように感じる。
それはそれらが彼らの意識の中心にある問題であり、
変えていかなければいけないことだからだろう。

自分にとっても、今回の震災はそのようなレベルで題材にすべきテーマである。
まず、電気、というか、エネルギーの問題だ。
エネルギー=身体として捉え直す。
身体から出る力、ゼロから生まれるもの。
そこに、「色」という感情でじっくりと染めて、自己を表現する。

直截的だ、ストレートだ、わかりやすくなければいけない。
これはメッセージなのだ、命に対する、鎮魂歌なんだ。

1年半というまだ短い間ではあったが、染織を学んだ上で、
最初に始めた「描く」という直接的な表現に近いところまで一旦持って行く。
そして、「織る」というより抽象的/間接的な表現へと、移行させていく。


点 線 面
2012年11月19日(月)





綿が糸になる(無から線へ)
糸が織物になる(線から面へ)
その面はしかし、経と偉からなる面であって、
経糸と緯糸が、同じ色の場合は、その色の面となる
違う色の場合は、a色、b色が点描のように、点となって交互に現れる。(面から点、若しくは点から面へ)
色面(あるいは点の集合による面)は直交する直線のみによって現れる。

織物の原理
表現の原型


なぜ紡ぐのか
「獲得」
そこに譲れない何かが
身体を以て画面を制すること
身体性



具体

表出

何らかのイメージの図解

風景画ではなく、頭のなかのイメージ

図解は頭でイメージしていたもの

それを現したときに、感じる、新たな感覚


透過性

なぜ織物
原理を理解する
そこに既に存在する思考
無意識の思考


テンガナンの城壁に
守られているものと
いないもの

城壁をかいくぐって運び込まれる風

城壁はいつからできたのか

昔から信じられて守られていた慣習

信じることを続ける

続けることを信じる

何十年も何百年も

傍から見れば、
まったく意味のない慣習を


赤、黒、白は、アジアの色。
土と風、
しっとりとした風が吹く。
雨が降る。
そして強い光が大地に注がれる。

光の色

それは白か、黄色か、はたまた、
他者に委ねるとするか



どんよりとしていたが
2012年08月11日(土)

現代アートの難解は、自分にとって本当に必要なものなのか
アカデミズムという枠を外したときに、そこからどれだけが己の体の血となり肉となり、また精神の安らぎを得られているのか
感動とはなんだよ、
シンプルなことでも突き詰めれば何かは生まれるのだよ、
単純な方法で、永遠と繰り返すのだ、


男性・女性という二元論のなかで絵画を判断すると、
女性性は暖かい色、小さなキャンバス、有機的なフォルム、壊れやすさ、はかなさ。
男性性は冷たい色、大きなキャンバス、直線的なフォルム、強さ、力、といったイメージ。
そこまで単純明快なイメージはそんなにないが、実際を見てみても、
男性のなかにある女性性はあくまで男性らしくあり、
女性のなかにある男性性はあくまで女性らしくある。

ここまで考えて、そんなことはどうでもよくて、
自分自身は自分自身なのだということに気付きました。


言葉にならない絵 絵にならない言葉
2012年07月19日(木)

最近のテーマは、いかに生きるか、ということで。
「いかに生活するか」という思考を、どうやって自己の経済活動に直結させるかについて、考えている。
つまりは自己の人生に対して誠実な方法で稼いだ利益で生計をたてていきたいよなぁ。
しかし、よい作品を作るってのも、それを理解してくれる人がいて、
それを支持してくれる人がいて、それを買ってくれる人がいれば、いいのだけれど。
内省的じゃ苦しいよなぁ、いまの時代。
そこでみつけたのが「工芸」でありまして、
やはりそこには、衣食住という人間の根底にある必然性がもつ力が。
なぜ、つくるのか、ではなくて、どうやって生きるのか、がテーマなんじゃないのかな。
その「どうやって」のところで、すでにある、名もなき作り手たちの労苦の集大成を、
いま、僕はどんどん知っていってる最中なのだ。それに僕なりの答えを、そろそろ一回ださなければならぬ。
思想と機能と造形
歴史的にはこの二者をどのような関係性でとらえていたか。
いやはや、書きながら発見したぜ、この視点。


未来のこと
2012年05月13日(日)

「やりたいことがない」或は
「やりたいことと、進む道が噛み合ない」

前者は、色々なパターンを考え考え考えているものの、
やはりどのパターンもしっくりこない。考えすぎて頭が痛い。

後者は、世間体や大多数の向く方向へ流されそうになりつつ、
いやいや、俺のやりたいことはこういうことではないんだけどなぁ、
といいつつ、やはり、このままいっても不安ですよなぁ。

わかるわかる。いまのままでいいのか、これが本当に自分の進むべき道なのか、
本当にやりたいことなのか...

そんでもやっぱり「現在が一番」だとおもうのです。

今やってることを、とことんやる。これでいいじゃない。
それがなにになるのか、そういうことを忘れるぐらい、没頭してしまえば。
あとからついてくる不安や心配は、その都度考えればいい。

どの道でも、それぞれの出会いがあるわけで、あまり神経質になりすぎないように。




   NEXT
目次ページ