ささやかな日々

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2023年04月27日(木) 
夜明けの時刻がどんどん早くなっている。
この時期、日の出の位置がこの窓からだと建物の影になってしまって見ることが叶わない。その何と淋しいことか。建物の背後がぐわっと燃え上がる様だけが伝わって来るばかり。この眼でそのものをつぶさに確かめたいのに、叶わない。じりじりしながら地平線を見つめるばかり。仕方ないから濃いめの珈琲をぐいっと飲む。そんな、季節。
隣の部屋から覗けば、ほんのちょっとの角度の違いで、建物の間から太陽が垣間見える。でも、私のこの定点観測、ずらしてしまっては意味がない。だから、太陽が少し、また少し、東にずれてゆくのを今はただ、待つ。
薔薇の蕾が次から次に綻び始めている。今年も無事にここまで来てくれたか、と思う。中には、立ち枯れてしまった子も数本。毎年のことだけれど、淋しい。

赦しと許しとの違いが分からない、と、Sさんが言った。私もまだ、言語化しきれない。でも、そこには違いがある。そのことははっきりと分かっている。
また、Sさんからの言葉を受けて気づいたのだが。私のうちで、受け止める、と、受け容れる、は、異なるな、と。これもまたうまく言葉だけで説明できないけれども、この二つは私にとって異なるものだなと思った。
何だろう、何というか、受け止める、というと、壁とかキャッチボールがイメージとして立ち昇る。受け止める、それは、たとえば相手が放ったボールをこの手が受け止めた、そういう感じ。でも受け容れるというのは違う、そうじゃない。もっとこう、内側が関わり合って来る。
私が受け容れるという言葉を使う時、それは、相手を受容した時、だ。
相手とただ向き合っている時、私はそこに受容という言葉を使わない。ただ、受け止める、という言葉を使う。
ああ、そういうことか。私は事実や現実を受け止める、と使う。それは私にとって、知るに近しいかもしれない。
状況を受け容れる、というのは、その状況を受容する、というのは、知るとはまた異なる。それはもっとこう、自分を差し出すような、自分をそこに浸らせるような、そんなイメージ。
水彩絵の具をたっぷりの水で溶いて紙にさっと拡げる。その時そこにさらに水を加えると、じわじわと色が拡がる。その端っこに別の色をたっぷりの水で溶いて落とせば、その色は微妙にじわじわと交り合う。溶け合うこともあれば、互いに存在し合いながらそこに新たなグラデーションを生み出すこともある。
受け止める、と、受け容れる、は、私の中でそういうふうに、違っているんだ。もう少し噛み砕いていったら、きっと、きちんと言語化できるようになれると思う。しっかり向き合おう、これからも。

それから少し前に、「共犯」という言葉と再会した。兄から繰り返し性暴力を受けていた女性の記事でその言葉と出会った。ああ、そうだった、私もこの感覚に長く苦しんだ、と思い出した。共犯関係。この言葉を越えられなくて、自分の被害を被害ときちんと認識するのに長い長い時間がかかってしまった。
でも。そう、違う、共犯などではない。共犯者などではない。被害は被害だときちんと線引きして、いい。

そういえば駅前で、薔薇のプチフェアをやっていた。とても気になる子たちの姿を見つけ、お財布が淋しかったのだけれど、思わず買い込んでしまった。レモンフォセット、ベルネージュ、アランチャ、アヴニール、ロンドン・タイムズ。5本。できるかどうかわからないけれど、明朝挿し枝するつもり。


2023年04月21日(金) 
シムフィアンドラ・ザンゼグラ。名前だけ聞くと軍隊か何かかと思うような、でも実際は釣鐘形をした薄紫色の花を咲かせるキキョウ科の宿根草。植えてみたらこれでもかというほど茂って次々花を咲かせている。高温多湿に弱い子と知り北側の玄関口に場を変えてみる。これから暑くなる季節大丈夫かしら、と思っていたら、親しい友から連絡が。その花はとんでもなく強い子だから地べたに植えると他の子たちを駆逐してしまうくらい勢いよく育つのよ、と。吃驚だ。うちはプランターだからそうはならないだろうけれども、そういえば同じプランターに林檎の芽が出てきている。もしかしたらこの子たちは移動させた方がよいのだろうか。しばらく様子を見ることにする。
薔薇が次々花芽をつけてきている。でも、結構な数の樹がうどん粉病になってしまっている。お酢の希釈液を振りかけて何とかその場を凌いでいるのだけれどどうにもならなさそう。花が綻び出したら切り花にして、それと共に大きく枝を切り詰めてやらないと。でも、薔薇の蕾というのはどうしてこう可愛らしいのだろう。愛おしくなる。根元がぷっくら膨らんできて、つんっと天を向いて立つ。潔いことこのうえないその姿。こちらも背筋が伸びるというもの。

「あっけらかんとして見えても、子どもは子どもなりに反省してるもの。大人のように上手に「反省してます」という素振りができないだけ」といった言葉に出会ってはっとした。息子がこの言葉にだぶって見えた。そうだ、大人のように器用にその振りができないだけなんだ、きっと。彼は彼なりの反省を抱いてそこにいるに違いない。もちろん、一度で改善されないことがほとんどで、私や家人は何度も何度も彼に同じことを言い聞かせている。でもそれも、彼の特性なのかもしれない。そう思ったら、何となく、納得するところもある。そうだ、きっと。明日はもうちょっと、わちゃわちゃした息子にやさしくなれるような気がする。

映画「対峙」を観た。改めて、自分に起きた出来事を物語ることの大切さを思った。それは被害者/加害者も、そして被害者家族/加害者家族もみな同じく必要なことなのだ、と。物語り、それを誰かに受け止めてもらえる体験を経ること、それによって膿んでいた傷ははじめて、乾き始め瘡蓋になってくれる。そんな気が、した。
もちろん語らないことを選択するひともいる。実際友人がそうだった。それが間違いだとは思わない。だって彼女にはそれが必要だったから。そのことを私はよく知っている。でもだからこそ、それはそれでとても苦しい選択だったと知ってもいる。
語ることができる場があるのなら。語ることができる相手がいるのなら。語った方がいい。そうして自分の内に溜まった膿を押し出して吐き出して、傷を乾かしてやる方が、ずっと早く傷は治る。
最後の方で被害者の母親が赦しますという言葉を吐く。その言葉を聴いた時、これは宗教がとても深く関係しているに違いないと感じた。キリスト教という教えが、彼らの中に深く根付いていると。それがない私たち日本人に、赦しというのは真の意味であり得るのかどうか。そのことを思った。
それにしても映画「対峙」にしても舞台「対話」にしても、被害者の母親がいっとう先に変革をもたらすのは何故なんだろうう。何が彼女にそうさせ得るのだろう。知りたい。

続けて映画「ロストケア」を翌日家人と鑑賞。こちらも考え込まざるを得ない映画だった。介護というものについて考えたことのある或いは体験したことのある人間には切実な、切羽詰まったものがそこにあった。私たちは、互いに面倒を掛け合う存在だ。面倒を掛け合いながら、関わり合いながら生きるほかにない。それでも。
ぎりぎりのラインというのはあって。私自身祖母や祖父を介護した時、人間の心を保つ限界というのを感じた。その限界を越えないでいられたらいいのだろうけれど、今の社会のシステムだと危ういところがたぶんに在るのも事実。
ロストケア、救いなのです、と繰り返す斯波という人物のその声が、頭の中木霊している。そしてラストの折鶴。それが意味するところがあまりに重くのしかかる。

今日は友人が法廷に立つ。最後の最後に自分の思いを伝えてこようと思うと話していた。彼女のその切実な思いが、そこにいる誰かにほんの少しでもいい届きますように。どれほど苦汁を飲んでも折れずにここまで踏ん張ってきた彼女の切実さが、どうか誰かに届きますように。


2023年04月16日(日) 
ラナンキュラスももうだいぶ草臥れてきて、はらはらと薄い花弁が落ち始めた。その隣のプランター、宿根草を二種植えたのだけれど、名前を忘れたその子らが今度は咲き始めた。薄紫色の鈴のような形のお花。弦のようなものをひょいと伸ばしている。はじめて見るその姿にちょっとどきどきしていたりする。でも、その隣の林檎の芽がぐいぐい育ってきてしまっているのも見えて、あちゃ、この子らは一体この先どうなるのだろうとも思っている。
ラベンダーが今年は綺麗に咲いている。薔薇も蕾がたんまりついた。でもこんなについたら樹が疲れてしまうだろうなとも思って、どうしたらいいだろうと思っているのだけれど。私は蕾を切り落とすことなんてできそうにない。とりあえず綻び始めたら切り花にして部屋に飾ろう、と思うことくらいしか。それまで頑張れ、と樹たちに声をかける。

感情と身体の感覚があなたはとても近しいのね、とカウンセリングで言われて以来、ずっと頭の中その言葉がぐるぐる巡っている。感情と身体の感覚は、カウンセラー曰く、もっとそれぞれ分岐しているものだそうで。私にはそちらの方がよく分からない。
その時立て続けにいろんなイメージが浮かんできたのだけれど。その昔私に泳ぎを教えてくれたO先生から卒業時にもらった言葉「おまえは感情の塊だ」とか、私に文は人なりという言葉を最初に教えてくれたS先生からの「あなたの書き言葉はとても正直」など、つつつつつっと、昔々の記憶がイメージとして浮上してきた。そういえば私は小学生の頃、保健室っ子だったなと。ちょっと何か感情が強く揺らぐとすぐ体調を崩して保健室に避難していたな、と。そんなことも思い出した。感情の揺らぎが身体の具合に直結しているのは、だから、昔からだったんだろう。
心と身体の話から、何故か器の話に移行し、私が「誰かの話を真剣に聴く時というのは、自分という器から自分をいったん外に取り出して聴く」という話をしたところ、カウンセラーがちょっと間を置いて言った。「憑依型なのかしらね」と。なるほどそういう言葉で置き換えることができるのだと知った。「それも解離のひとつだわね」と言われて愕然とした。「え、これも解離なのですか?」「そうよ」。
そのことについてカウンセラーが説明をしてくれたのだけれど正直よく覚えていない。ただ、それを聞いていて、私は、ああ、あの活動をしていた頃は、この解離が酷く出ていたのかもしれない、と思った。「そこで解離してしまうと、正常な判断ができなくなる可能性があるわね。たとえば解離していなければそこで「これは自分にとって危険か安全か」を判断できるけれど、解離してしまっているとその判断ができなかったり、ね」、そう言われて、考え巡らし、なるほどなぁと納得せずにはいられなかった。
それがいいとか悪いとか、ではなく。自分にとってあの状態は危険以外の何者でもなかったんだな、と今ならすんなり納得できる。だからこそ、五年が限界だったのかもしれない、とも。

家人の知り合いだという写真家の女の子が取材にやってきた。事前に用意してきたのだろうメモを見ながら、まっすぐに質問をしてくる彼女の横顔を見ながら、かわいいなぁと思ってしまう自分がいた。そういえば私はこういう取材をあまりしたことがないな、とも思った。写真を撮り終え、質問を一通りし終えて、大きな大きな荷物を背負って帰って行く彼女の後姿を見送りながら、一生懸命って素敵だな、と思った。それだけでもう、何かできることをしてあげたくなる。

受刑者のYさんからとUさんからの手紙がほぼ同時に届く。ここ何通か、Uさんからの手紙の、封筒の文字、とても落ち着いてきているなぁと思う。Yさんの字は相変わらず、ペン字の先生のように整っている。彼らはそれぞれ、どんな思いでこの手紙を書いたのだろう。どんな情景の中でこの手紙をしたためたのだろう。
手紙をそっと掌の上に置いて想像する。少しでもあたたかなものが、そこにあってくれますように。


2023年04月11日(火) 
週末留守にしていたら、ネモフィラがすっかり萎んでしまった。可哀想に。出掛ける前に水やりをしたのだけれど、足りなかったか、と悔やんでももう遅い。慌てて水をやっても復活してはくれなかった。ごめんね、種をちゃんと採ってやれなくて、と謝りながら萎んでどうしようもなくなった苗をそっと抜く。その隣でクリサンセマムとラナンキュラスは元気に咲き続けてくれている。ありがたいことだ。ただただ感謝。
このところ強風続きで薔薇の葉がすっかり傷だらけになってしまった。彼らは自らの身にまとった棘によって自らの葉も傷つける。この姿を見つめていると、かつてリストカットに溺れていた自分自身が重なる。自分で自分を傷つけることでしか越えられない夜があったことは確かだけれど、それはとても哀しい姿だったろうな、と、今なら思う。
そして同時に、性犯罪加害者・性暴力加害者のひとたちの姿も思い出される。自らの行為で自らの首を絞めてゆく彼ら。そんな姿こそ、哀れ、と言うのかもしれない、とふと思った。

加害者プログラムのために手紙の返事を書いていたら、あっという間に夜中を過ぎてしまった。手紙をしたためるのにはエネルギーが必要だけれど、それ以上に時間も必要だな、と改めて思う。
今回45通目の手紙を受け取って思い出した言葉がある。知らないことは罪、だったか。誰がそう言ったのか何だったのか全く覚えていないのだけれど。そんな言葉があったな、と思い出す。でも、そうじゃない、知らないことは罪などではなく、知ろうとしないことが罪なのだ、と、私は今改めて思う。
彼らが対象者を捕食するにあたって、対象者をモノ化していたことはもう既に知っている。モノ化していたからこそ捕食できたのだ、ということも。もし彼らがその問題行為を始める前に、もっと被害や被害者について知っていたならどうだったろう。果たして対象をそんなにあっさりモノ化できただろうか。
また、被害には被害のその後があるということをもっともっと知っていたなら、どうだったろう。
想像はあくまで想像でしかないけれど、でも、思うのだ。もし彼らがちゃんとした知識を持っていたならば、と。そうしたらまだ少しは、被害者は少なくて済んだんじゃなかろうか、と。

知らないことが罪なのではない。知ろうとしないことが罪なのだ。

前回のプログラムの際、痴漢と盗撮の体験を語っている私の、その語りを聞いていて恐怖を覚えた、吐き気を覚えた、という声があった。その感想を聞いて私は正直ちょっとびっくりした。よほど自分の問題行動については他人事なのだな、と思わずにはいられなかった。その恐怖を感じるような体験を私に強いたのは、君たち加害者なのだよ?と思わずにはいられなかった。でも。
それをそのまま言ってしまったら対話は続かない。だから、言葉を選んで、伝える。
「被害体験について語る横顔を見ていて涙が出てしまいました」という声もあった。そこまで自分に置き換えて感じ入ることができるのなら、もうこの先再犯だけはしないでほしい、と、切に願わずにはいられなかった。

重ねて言う。
知らないことが罪なのではない。知ろうとしないことが罪なのだ。
自戒を込めて。


2023年04月02日(日) 
ラナンキュラスが咲いた。黄色と白。橙色もあったはずなのだが姿が見えない。何処に消えてしまったのだろう。朝顔と向日葵、そして息子が植えたトマトが芽を出してきた。ぐいっと土を持ち上げるあの姿がたまらなく力強い。頼もしい。いつだったか植えた向日葵は全員蕩けてしまったので、今年は誰か一人でも丈夫に育ってほしい。丸坊主だったアメリカンブルーからようやっと新芽が出始めた。でも、四株あるうちのひとつだけ、うんともすんとも言わない。枯れてしまったのだろうか。ちょっと悲しい。
薔薇がこぞってうどん粉病になってしまった。慌ててお酢の希釈液を作る。早く治れ、早く治れ、唱えながら液を噴きかける。
春なんだなぁと思う。私にとって春は正直憂鬱以外の何者でもないけれど、植物にとっては「さぁここから!」という季節。みんな勢いよく芽吹いてきて、ここどけそこどけの勢いだ。

傷ついた友から「心が折れそう」とメッセージが届く。このところしんどいことが立て続けに起こっている。心が折れそうになって当たり前だと思う。きっと頑張って踏ん張って立ち続けているから、泣く暇もないに違いない。
でも。
そういう時こそ、ぽろり、泣いてみるといい。思っている以上に我慢を続けてた自分に気づけるから。涙を零れるままに任せてしばらく過ごしてみるといい。泣くだけ泣いたらもしかしたらつかえてた喉元がすっきりするかもしれない。
「だいじょうぶ、ひとりじゃないよ」と必死の思いでタイプする。しばらくして彼女から「うん、ありがと」とだけ返って来る。
あと私にできるのは、ただ、祈ることくらい。想いを乗せて祈ることだけ。
窓の外風がびゅうびゅう吹いている。この風に想いを乗せたら彼女のところに届くだろうか。

生きていると、生きる程に、誰彼の死と交叉せずにはいられない。私達命あっての生き物だから、こればかりはどうしようもない。そして、誰にも等しく、死はやってくるもの。
みんな、めいめいの命を生き切って、亡くなってゆく。命のバトンを次に託して。だから私たちができることはきっと、そのバトンをしかと受け取って握り締めて、ここを、次を、走り始めること。生きてゆくこと。生者にできるのは、ただ、そのこと。
悲しくないわけじゃない。悔しくないわけじゃない。それでも、死は避けようがない。それならもう、受け容れてゆくのみ。このバトンを決して落とすことなく走り出すのみ。

「人間は二度死ぬ、肉体が滅びたときと、人々に忘れ 去られたとき」。
本当にそうだなといつも思う。だから私は、折々に思い出す。先に逝ってしまったひとたちのこと。思い出して、語りかける。どう?元気? 最近どうしてるの? 私はねこんな具合なんだよね。遠慮なく語りかける。相槌を打ってくれる時もあれば、何となく俯いている時もある。
生きていれば生きた分だけ、見送るひとたちも多くなってゆく。でも、彼らは私の中でずっと生き続ける。生き続けてる。だから、だいじょうぶ。


浅岡忍 HOMEMAIL

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