ささやかな日々

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2023年02月27日(月) 
明日は祖母の命日。いや、本当は2月29日なのだけれども、29日は今年はないので。だから明日が命日。
あの日、祖母は眠るように逝った。いや違う、正確には、あの最後の入院が始まってからというもの、もう全身に転移した癌の痛みを軽減させるためモルヒネを投与されていて、だからもう話ができるような意識はなく、日々ぼんやり眠っている状態だった。だから、亡くなるときも静かに逝った。
最後の入院の前半年、祖母をうちに引き取り、介護していたんだった。思い出せる、ありありと。祖母の豊かな黒髪はもう薄く隙間だらけになっていて、ブラシで梳くことも躊躇われるほどだった。入浴の介護をすれば、緩んだ肛門から下の物が出てしまって祖母はその度泣いた。孫のおまえにこんなもの見られたくないと泣いた。分かりすぎて痛かった。辛かった。でも本当に本当に辛かったのは、泣くしかできない祖母だったはずだ。その祖母が折々にベッドから言った。ねぇピアノ弾いてくれない?と。
私は。
そのたび突っぱねた。弾かなかった。
下手に祖母の望み通り弾いてしまったら、祖母はすぐさま満足して逝ってしまうんじゃないか、そう思えてしまって、どうしても素直に弾けなかった。なんだかんだ理由をつけて、祖母のリクエストを突っぱね続けた。
どれほど悲しかったろう、祖母は。どうしてあんなに頑なに突っぱね続けたんだろう。だって私は祖母が大好きだった。他の誰よりも誰よりも、父や母なんかよりも祖母に生きていてほしかった。祖母がいてくれればそれでよかった。その祖母が、いなくなってしまうかもしれないと思ったら、とてもじゃないが受け容れられなかった。
幼かった私。
芸事の師匠だった祖母は、最後まで背中がぴんと伸びていた。モルヒネで寝たきりになるまで、祖母は背中を深く曲げることなんてなかった。やせ細った背中なのに、いつもしゃんとしていた。そういう、祖母だった。
祖母の若い頃の話を母から少しだけ聞いたことがある。複雑な家庭事情を抱えていた。離婚した父と母とが祖母を取り合って裁判をしたこともあったそうだ。結局母親に引き取られたけれども、母親は再婚し弟二人と妹を産んだ。その弟たちは特攻隊で死んでいった。妹になる大叔母は後に、祖母を見送った後、白血病を発病し亡くなった。
祖母の口癖はいつだってこうだった。「私はもう癌にとっつかまっていつ死ぬか分からないんだから、今を楽しむのよ」。33歳という若さで癌にとっつかまった祖母の、それが口癖だった。入退院を繰り返す祖母は、じっとしていなかった。いつだって、飛び跳ねていた。私には時間がないのよ、とそう言って。
あと10年ちょっとしたら、祖母の歳を私は越えてしまうんだろう。できるなら、祖母と同じくらいの歳でおさらばしたい。

その数日前、「対話」という舞台を観劇した。オーストラリアの、実話を基にした修復的司法を軸に置いた対話劇。私はたまたま加害者家族側の座席だったので、被害者家族と向き合う位置だった。レイプ殺人事件の加害者家族と被害者家族、そして加害者を判定した心理士と、そして修復的対話のコーディネーター。登場人物はそれだけ。
私はその誰もに自分のどこかがリンクする気がした。すべてがぴったり重なるわけじゃない。でも、登場人物の誰にでもなり得たろう、という気持ちになった。
観ながら、対話の難しさ、を思った。でも、この対話は、必要な対話だ、とも、思った。日本人にはまだ馴染みのない対話かもしれない。が。
大切な過程だと私は思う。

そのさらに前に、映画「エゴイスト」をひとりで観に行った。観終えた後の余韻がすごい映画だった。ゲイ映画と括られているようだが、とんでもない、ゲイ映画なんてそんな狭い括り方をしてはいけないんじゃないかと私には思えた。愛の映画だ、と。
もう一度観に行きたい。行くつもり、だ。

明日は。
お線香をもって海にゆこう。そして祖母を思いながら少しでも時間を過ごそう。今頃あの世で祖母は祖父を蹴散らしながらちゃっちゃか動き回っているのかもしれないなぁ、なんて想像すると、ちょっと慰められる。祖母よ、私があの世にいったら、その時は、思い切りピアノを弾くよ。弾かせてよ。祖母がもういいわよって払い手するくらい、しつこく弾くから。
待っていて。


2023年02月20日(月) 
地平線が橙色に染まり始める。拡がる濃紺が少しずつ少しずつ薄らいでゆく。やがて少し緑がかった青色に変わった頃、地平線に棚引いていた雲の下側がピンク色に燃え始める。それは桃色ではない、まさにピンク色。燃え上がるその色はこれでもかというほど鮮やかで目を射る。私は一瞬にして釘付けになる。じっと見入る。この色ばかりは写真では再現できない。あとで調整すればいいという考え方もあるのだろうが、それでも正確に再現は無理だ。そういう唯一無二の色。
やがて雲の一部が黄金色に変わる。明るい黄金色に。そして。太陽が現れるのだ。
一刻一刻変化し続けるその空の様を、ただじっと、見入ることのできる幸せはたとえようのないものだ。たいてい何かをしながら片手間になってしまうのだけれど、それでも一瞬でも長くその前に佇んでいられると、その日一日が輝かしくなってくれるような錯覚さえ覚える。きっといい日になる、そんな気持ちにさせられる。

小松原織香さんの番組を録画でようやく見る。チープな物語にしてはいけないと繰り返し言う彼女の切実さがひしひしと伝わってきて胸がぎゅうとなる。被害者の語りというのはたいてい、そう求められる。回復の物語を求められる。でも、彼女が言うように、そんな簡単なものじゃないしそんな単純なものでもない。ひとつ語れば何か一つ二つこぼれ落ちる。語りの陰に、いくつもの物語が本当は存在する。そういうものだ。
番組を見ながら、私はまだまだ彼女の著書から読み取れていないことがあったなぁと思い知る。近いうちにもう一度読み直そうと自分に言い聞かす。

私は自助グループに馴染めなかった人間だ。何度かトライしてみたが、無理だった。必ず解離を起こし意識が遠のいた。最初の頃は、誰かの語りが私の中に入ってきてしまって私を圧倒するせいで、私自身が語ることが出来ない状態になってばかりだった。最近はそれとは違う、こう、何というか、邪険になってしまう自分を発見した。
だから何、と言ってしまいそうになる猛々しい自分を発見した、とでも云おうか。聞きっぱなし言いっぱなしに、私はどうしても馴染めなかった。
小松原氏は、その言いっぱなし聞きっぱなしにこそ意味を見出し、自助グループに救われたと語っていた。この差異は、何だろう。
ずっと、考え続けている。

私はひとが好きだ。
でも。もしかしたらそんな私はとことんのところでひとを信頼できていないのかもしれない。ああやっぱり、と、誰かの裏切りを諦観をもって受け容れてしまえるのはそのせいかもしれない、と、ふと思う。どうなんだろう。
いやでも私はこんなにもひとが好きで人間が好きで、人間に絶望すると同時に、それでも、と思ってもいる。
それはそれで真実だ。
でも。
信じる、という言葉や、受け容れるという言葉の意味が、もしかしたら私と周囲とでは大きくことなるのかもしれないと思う時が、あるのだ。

信じるとは。受け容れるとは。その言葉の意味をまずすり合わせたうえでしか、だから、他人とこの部分を共有できないのだな、と思う。よくもわるくも、そういうこと、だ。

絶望の先にこそ真の希望がある、と言ったのは誰だったか。映画監督の言葉だったと記憶しているのだけれど今とっさに思い出せない。でもこの言葉だけはくっきりと覚えている。そして、それは私にとっても真理だと、そう思う。
また、ひとは絶望に圧倒されて、それが実は小さなこれっぽっちの絶望に過ぎないのに、絶望に圧倒されてしまってその先にまで目を向けられないことが多々ある。これっぽっちの絶望の先にこそ、これほどの大きな希望が輝いているのに。
そう。
絶望の先にこそ真の希望がある。


2023年02月15日(水) 
ランドマークのてっぺんのあたりで、数羽の鳥たちが旋回していた。その様は曇天なのに眩しく私には見えた。鳥たちが喜んでいるように見えたからだ。あんな高いところを飛ぶことができる鳥たちには、今この場所はどんなふうに見えているのだろうか。何だか不思議な気がした。私から見た彼らは小さな影で、でもくっきりと空に浮かび上がっていて、輪郭はくっきりとここからでも見て取れる。一方彼らから見た私は?
ちょうどエレベーターが吸い込まれる場所に枯葉が溜まっている。かさかさと音を立てながらそこで蠢いている。エレベーターは絶え間なく動き続けるから、彼らは止まれない。そして、何処にも行けない。行き場のない彼らはまるで、性暴力に晒された被害者たちの群れのように見えてしまった。私の錯覚だと分かっている。でもとても置かれている状況が似ていて、切なくなった。

と、そこまで昨夕書いていて、止まってしまったんだった。

ルイボスの、アップルシナモンティーを淹れてみる。友人が贈ってくれたアップルティーがあまりに美味しかったので、弾みで購入してしまった品だ。シナモンの香りが軽く漂って来る。そのシナモンの香りにちょっと、立ち止まってしまう。
この香りさえもが感じられない頃が私にはあったんだったな、と。思い出すのだ。どうしても。シナモンの香りを嗅ぐと、どうしてもそのことを思い出す。それがどちらに転がるかはもう、その時の心調によってまるっきり異なる。今日はちょっとブルーで、だからマイナスの方向に転がり落ちた。
シナモンといえば結構強い香りなはずだった。それが或る時から分からなくなった。いや、シナモンに限ったことじゃなかったのだ、あの頃は。食べるモノは悉く砂のようだったし、飲み物は温かいか冷たいかくらいの違いで。ただ今日生き延びるために喰って飲んでいただけの話で。だから味や匂いがわからなくなっていることにそもそも、なかなか気づかなかった。
気づかないくらい、その当時は要するに、生き延びることに必死だっただけ、だ。

加害者はそんな、被害者の必死に生き延びる様など、告げられなければ知ることもないんだな、と、改めて思う。いや、加害者に限らず、当事者以外。当事者にとってそれはまさに渦中のことであって、我が事であって、それ以外の何者でもないが、当事者以外にとっちゃ言葉通り他人事であり、そもそもそれがどれほどの必死さかなんて、知ったこっちゃないわけだ。
想像力って、何のためにあるんだろう。

今小説を読まないひとが結構増えているのだと耳にした。ぽかんとしてしまった。なるほど、想像力なんて望まれない世の中だものな、と、妙な納得があった。でも、それは、それを肯定したわけじゃない。むしろ、それはまずいだろと思う。
昔私のいた高校の後輩らが、ニュースに出るような事件を起こしたことがあった。三角関係のもつれで、他校の男子生徒をうちの高校の生徒が刺してしまったというニュースだった。ただ刺したなら死ぬことはなかったんじゃないかと思われ。というのも、刺した後その男子生徒は刃を捩じってしまった、と。
結果、相手は死亡。
包丁等をただ刺しただけではひとは容易には死なないのだとその時教師が溢した。刺した包丁を捩じるというそこが、生死を分けたのだ、と。でもそんなこと、きっとほとんどの生徒が知らなかった。知らないというのは怖い、とその時つくづく思った。
そして、そもそも、それを想像しないことの罪を思いもしたんだ。そうしてしまったらどうなるか、と一ミリほども想像しなかったという事実の重さ。
小説や映画、演劇や音楽を通して私たちは疑似体験する。そして想像を働かす。もしこういう状況だったら自分はどうしていただろう、とか、あのひとはどうしていただろう、とか。たとえばの話だけれども。
そんな疑似体験をほとんどせず、大人になってしまった子どもらは、一体どうやって他人と共感しあったり共鳴し合ったりできるんだろう。共鳴も共振も共感も、想像力がなければ味わえない感覚なのに。
そんな私たちは、他者の目、社会からの目を気にするくせに、隣人にはひどく鈍感だったりもする。隣人を、自分が大切に思うひとたち、と置き換えれば私の意図するところが伝わるだろうか。

how to を網羅するより、ひとの心に声に、耳を傾けることに努めたい。こんな時代だからこそ。
簡単にオンラインで通じるのは分かっている。でもだからこそ、大切な相手とは直接会って体温を感じたい。こんな時代だからこそ。
そんなことを改めて自分に刻んでみる。時代と逆行してると嗤われようと構わない。私が大切にしたいことは、そっち、だ。


2023年02月12日(日) 
昨日は息子と自転車で実家へ。私は母に誕生日プレゼントを渡す為に、息子は息子で練習を重ねた大道芸をじじばばに見せたいと勇んで向かった。着くなり芸を披露してみせた息子だったのだが、じじばばまったくの無反応。芸を終えた息子がとことこ私の隣にやってきて言う。「母ちゃん、ボク寂しい。反応ない」。すっかり凹む息子。そりゃ凹むよなぁと私も心の中思う。そんな私達を見たじじばばが、「え?今拍手するところだったの?」と。じじばば完全にタイミングを逸したところで拍手。息子ぽかーん。そしてさらに凹むという具合。私はその様子にもう苦笑以外浮かばず。まぁうちの父母にはあるあるだよね、と思う。息子には初体験のことだったろうが、息子よ、君のじじばばはこういう、空気を読まないところがあるのだよ、と、心の中で呟いた。
こんな父母のタイミングの悪さというか、ズレというか。そういうのを散々これまで体験してきた私や弟はだから、父母に「褒めてもらう」ということを放棄したんだった。何度も望んで何度も願って、でもその度がっくり凹んで。凹むのにも疲れるとひとはやがて諦めに到達するものだ。
それが他人同士なら、縁も切れよう。でも私と弟にとって父母は父母であり、家族だった。だから厄介だったんだ。諦めても諦めても、何度でもむくむくと想いが沸き上がってこようとする。そんな自分たちの内奥に辟易しながら、私たちは十代をあの家で過ごした。もう、まさに「過去」だけれども。
帰り道、自転車に乗りながら後ろから息子が言う。「じじが笑って「行儀悪いままならもう遊び来なくていい」って言った時、すげぇ怖かったよ」。
息子よ、じじは本来とんでもなく恐ろしいお人だったのだよ、母ちゃんはじじと絶縁してた時期もあるくらいなのだから。そう言いかけてやめた。君は今のじじをちゃんと見て感じるべきだ。私には私の、君には君の、じじが、父が、いていい。

機能不全家族。アダルトチルドレン。その言葉に初めて出会った時の衝撃は今も覚えている。ああこれだと思った。ここに私の居場所がある、と。私が十代の頃だから、もう40年は昔のことだ。あの言葉にあの時期出会えていなかったら、私はもっとずっと生き辛く息苦しく、ここにいなかったかもと思う。それらの言葉を見つけてやっと一呼吸できて、だからこそ私はあの家を出ることができた。
その先で性被害に遭って、私は父母と言葉通り絶縁した時期があった。そうした時間を経て、娘/孫というもので再び私たちは縁を繋いだ。それでも一体何度ぶつかったか知れない。そうして「私たちは理解し合えない」というところから始められる関係もあるのだと、ようやく知った。それがあるから今ここの関係も成り立っている。
一度これでもかというほど壊れて、どうしようもなく断絶もして。そうやって幾重にも幾重にも時を重ねての今、なのだ。ひとっとびに今ここがあるわけじゃぁ、ない。
ひととひととの関係というのはそういう、重いものなのだよ、息子よ。ひとはひとであるかぎり誰かしらと関係し続けてゆく。君もこれから幾つもの関係を培うだろう。ひとつひとつ大事に培えよ。私は息子に心の中、そう言葉をかけていた。

母が、あと何年迷惑をかけずに生きていられるかなぁとLINEをよこす。80を越えても父と母とふたりで懸命に暮らしてくれていること、すごいと思うと素直に返す。そのお陰で私は今子育てやら何やらやっていられるのだから、と。そして気づく、父や母に言ってなかった一言。だからこっそりLINEで伝える。「ありがとうね」。
母の誕生日にそういえば昔はいつも花を贈った。フリージアの香りが好きと知ればフリージアを贈り、眠るのが不得意と知れば枕に忍ばせるラベンダーのドライフラワーを贈ったりした。なけなしの小遣いをはたいて買うそれらは私には大事な代物で、だからいつだって母に大喜びしてほしかった。もちろん母はそんな素振り見せないひとだから、いつも私は凹んだ。まるで先刻の息子のように。
そういう小さなものの堆積が、ひととひととの歴史になる。関係を築く。


2023年02月09日(木) 
日記を書くことがこのところとても難しい。書き残す、ということに対して畏れのような、懼れのような、そういったものがあって、書き出すことさえもができないでいる。何だろうこの感じ。
そんな私に構わず、時は過ぎ行く。容赦なく過ぎ行く。おかげで畏れ/懼れだけが増殖してゆくばかり、だ。
何処かで分かってもいる。そんなものは私の心が勝手に作り出した代物であって、誰も私に何かを強いているわけでも何でもない。充分分かっている。
分かっているのに、地団駄踏んでいる。

いや、日記を書く、とはちょっと違うかもしれない。今気づいた。言葉、だ。言葉に対して、畏れ/懼れがどうしようもなく私の中に生じて来るのだ。

言葉。それは諸刃の剣。ひとを生かしもすれば殺しもする。そういう代物。私自身、その諸刃の剣である言葉に、生かされ、同時にずたぼろにもされてきた。
最近見聞きするニュースはどれもこれも、言葉の危うさを私に訴えて来る。そのニュースに群がる人、ひと、ヒト。まるで飢えたハイエナのようだ、他人の粗が餌だとしたら、それに群がり、瞬く間に食い尽くす。
正しいことだけをして生きて来られたひとなんてどれだけいるんだろう。時に間違いや過ちを犯して、悔い改めてそれでもと立ち上がって。人生なんてその繰り返しなんじゃないのか。何度でもやり直しできるのが人生じゃないのか。
それが今、赦されない社会になっているのだな、と。そのことを痛感する。
私は、自分の子どもに、やり直しのきかない社会なんだ、人生なんだ、なんて冗談でも言うつもりはない。それはこれまでも、そしてこれからも、だ。何度だって、思い立ったその時がスタートだと教えているし、私はそれを精一杯励ましもする。私自身に対しても必死に、たった一度のことでへこたれてたまるか、ここからもう一度踏ん張って這いずって、生きよう、と、自分を鼓舞してきた。そうでもしなけりゃ、生き残ってはこれなかった。
そんな私を、支えてくれたのが友の言葉だったり仕草だったりする。
だから、たまらないのだ。友の言葉や仕草とは正反対の、刃としか使われない言葉や仕草を見ると、たまらない思いにさせられるのだ。

どうしてひとは、こんなにも残酷になれるんだろう。

そもそも何故私たちは言葉を与えられたのだろう。隣人と対話するためじゃぁなかったのか。言葉を交わし、お互いを労わり合い、励まし合い、そこからまたさらに生きるために言葉が与えられたのではなかったのか。他人を罵り、嘲り、引きずり落とすために言葉が与えられたのだとしたら、なんて道具を愚かな人間に与えたんだろう。そんなもの与えられたがために、ひとはこんなにも容赦なく残酷な生き物と化している。

確かに、私だって言葉の使い方を誤ることがある。間違えることがある。私の言葉によって傷つき倒れ伏したひとだってこれまでどれだけいただろう。そんなつもりはなかったのだよ、と言ったって、相手にとってはそうだったことに変わりはなく。もう謝っても謝り切れないものがそこにはある。
でもだからこそ、せめて意志的に用いる言葉は、刃として用いることのないよう、言葉を吐くその前に懸命に逡巡するのだ。ひとはそういう能力を持って生まれて来たはず。

私は自分が生き延びてこれた分だけ、親しい友たちから言葉をいただいてきた。恩師からも、言葉を操ることの怖さと同時にいとおしさを教えてくれた。レイプ被害後、どれほどセカンドレイプに苦しめられてきたか知れないけれども、同時に、それを補って余りあるくらい、親しい友たちから大切な言葉をいただいてきたんだ。
そういう体験が、今の私を作っている。生かしている。

だから、どうしても躓いてしまうのだ、こんな社会、おかしいと思えてしまうのだ。ひとの怖さ、言葉の怖さを、思ってしまうのだ。そのあなたの一言が、一刃が、相手の心臓を貫き、結果殺してしまい得るのだよ、と、声にならない声で叫ばずにはいられないのだ。
お願い、その言葉の使い方を、誤らないで。その言葉に託す思いを間違わないで、と。

言霊とは、そのくらい、重い。


2023年02月02日(木) 
黄砂が飛んでる、と誰かが言ってた。朝焼けを見つめてそのことを思い出す。微妙に霞んだ輪郭、色の帯。黄砂の垂れ幕が何もかもにかかっているかのよう。
再婚して10年。10年、という数字に自分が多分一番吃驚している。10年も保ったとは、と。そもそも10年前、彼は直前まで、両親の理解を得てから、と躊躇っていたのだった。私と私の娘とを悪魔呼ばわりし、疫病神と罵る義母や義父から、生まれて来る子を籍に入れるのは許さんとまで言われ、彼は迷っていた。子どもが欲しいと言ったのはそもそも彼だったのに。迷っていた。そんな彼を見て私は、突き放したような部分もあった。結局、彼は婚姻届にサインをしたのだけれども、それでもあの頃はもう、私の中で、この騒動に対しての線引きをしていたような気もする。正直、あまり覚えていない。忘れてばかりいる私は本当に都合よくできているなと思う。いいことも悪いことも次から次に消えていってしまう。
今日彼がこんなことを言った。結婚はまだ早い気もしていた、と。当時そういう気持ちもあった、と。でも今振り返ると、もしあの時結婚してなかったらこの10年はあり得なかったわけで、そうしたら俺は途中で自殺でもしてたかもしれないと思うことがある、と。そしてこんなことを言う。もし俺と一緒になってなかったら、君はどうなっていたんだろうね。
私は仮の話が正直よく分からない。

仮の話をし始めたら、際限がなくなる気がするからだ。あの時もし虐められていなかったら。あの時もし学校を辞めさせられていなかったら。あの時もし恋人からDVを受けることがなかったら。もしあの時レイプなんてものに出会っていなかったら。もしあの時。
きりがない。そしてすべて、考えてもどうしようもないと思えてしまう。だって実際そうなってしまったのだし、そうなったところを私はぎりぎりで生きてきたのだから、もう仮の話なんて考えるのも面倒だ、と思ってしまうのだ。
もしあの時結婚していなかったら。
私は娘と息子を抱え、シングルマザーとして生きていたんだろう。それは間違いない。そして娘はきっとそんな私を必死に支えてくれたに違いない。そんな私たちの間で息子は育ったに違いない。
そんなことを想像したからって、どうなるのだろう? 私にはよく分からない。

だから、うーんよくわかんないや、とだけ応える。

人混みにまみれ、だんだんと足元がふわふわふらついてくるのを感じながら、鼠色の雲が覆う空の下てくてく歩いた。普段自転車で突っ走るところを、彼と並んで歩いた。風が強くて、髪を下ろしていられなくて結わいた。ホットフラッシュが次から次に襲ってくるので彼が手を繋いできたとき吃驚するほど私の手が熱くて、彼が笑った。そんなふうに歩くのも本当に久しぶりだ。「10年後、どうなってるんだろうね。息子はもう独り立ちしてるのかな、そしたらはじめて、君と二人暮らしになるね」。ああそうだなぁとぼんやり思った。私達の間には娘がいた。そして息子がいる。最初から彼らが間に。そう考えるとなおさら不思議な気がして、ぼんやりしてしまった。
10年後を考えられるほど、私に余力はない。今ここを生きるのでいつも精一杯。
そもそももしかしたらふたり別々の道を歩いているかもしれないし、もしかしたら私が先にとっととあの世に逝ってるかもしれないのだし、すべてもう、分からない。未来は先取りなんてできないもの。だから、生きていられる。

何はともあれ、結婚10年。おつきあいありがとう。そしてここからまた、よろしく。


浅岡忍 HOMEMAIL

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