ささやかな日々

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2023年01月24日(火) 
手紙を貰った。想いが結晶している手紙を貰った。こういう手紙を貰うのはとてもとても久しぶりな気がした。
ひとつは刑務所からの手紙。とても率直な、まっすぐに響く言葉で綴られている。きっと一気に書いたのだろうなと思うその手紙は、これまでのそのひととは大きく異なるものが感じられた。読んでいて、なんだかとても嬉しくなった。
でも同時に、ここからだな、とも思う。ここからようやく始められる、そんな気がするのだ。これまではスタートさえしていなかった、そんな気が。時間がかかっても、私もまっすぐに返事を返さなくてはならない。そう思う。
もうひとつは友人から。先日写真集を送ったのだった。写真集への言葉がびっしり綴られた手紙。きっとこれを書くのに彼女は血反吐を吐くような思いを味わったに違いない。身を削って心を削って、それでも写真集を受け取って書いてくれたに違いない。それが分かるから、読んでいてぎゅうぎゅう胸が軋む。でも、こんな手紙は本当にありがたい。またここから撮ろうと思える。

減薬が始まって、すぐ現れたのは微妙な苛々。それと過食。
あと数日で記念日、だ。加害者プログラムで或る人が言っていたっけ、被害に遭った日を記念日って言うの変じゃないっすか、と。そんな日を記念日って言うなんておかしい、と。
あなたがそれを言うのですか、と私は心の中で少しだけ思ったのを思い出す。記念日なんてない方がいいに決まってる。そもそもあなたたちが問題行動を起こさなければ、こんな記念日は誰にもなくて済んだんですよね、と。心の中ほんのちょっとだけ思った。
でも同時に、これをどう伝えたら彼らにちゃんと伝わるのだろう、とも。
あれから一年。今年もまた記念日反応について語る日が来る。今週末が加害者プログラムの日だ。記念日の翌日。
そうか、私は28年を生きたことになるのか。被害に遭う前より、被害に遭った後の方がずっと長く生きていることになるのだな、と、改めて思うと、何と言うかこう、不思議な気がする。私の生は、もはや、被害後の方が長くて、つまり被害後のPTSDや解離性障害を背負ってからの方が長くて、つまり。
そういうことだ。私の生は、そういうものなしに語れなくなってきてしまったのだな、と。そのことを、思う。
もちろん、被害は私の一部であって全体じゃあない。決して全体にはならない。被害だけを取り上げて私を語ろうなんて冗談じゃあない。御免被る。私の生は、誰に踏みつけられても、足蹴にされても、私のものであり、私以外の誰のものでもなくて。孤独だった幼い頃の自分も、DVに遭っていた頃の自分も、生き辛さに喘いで息切れしていた頃も、被害に遭ってそれまでの日常がひっくり返ってしまった自分も、すべてすべて、私のものだ。今のこの、ささやかな日常も、私の。大切な大切な私のもの、だ。私の生、だ。
この全体をどう語ろうとも、語り切れるものではなく、たとえ語り切れたとて伝わり切るものではない、と。そのことを思う。
私にできるのはだから、ただ、ここに在ること、のみ。余計な装飾は、要らない。

誰かに想いを寄せていると、その誰かの気がしんしんと伝わって来る。波のように寄せては引いて引いては寄せて来る。私はただ、それに耳を澄ます。
饒舌な波もあれば、寡黙な波もある。夜は、そうした波に耳を澄ますのに、うってつけの時間だ。特に真夜中過ぎ。まさにその言葉通り、夜がしんしんと更ける頃。

今夜は風が暴れまくっている。夜の只中を荒れ狂いたい放題に暴れている。よほど伝えたいことがあるんだろうなと耳を澄ます。サスケがこちらをちらり見る。頭を撫でてやる。そんな今夜。横浜にも、雪がちらついたらしい。明日は冷えるな、きっと。


2023年01月19日(木) 
茨城県近代美術館まで清宮作品を観にゆく。展示は「戦後日本版画の展開/照沼コレクションを中心に」。Yさんを誘ってでかけた。Yさんは遠くからくる私のためにわざわざ事前に街を下見してくれていて、そのおかげであれやこれやがスムーズに運ぶ。ありがたすぎて言葉も出ない。こういう気遣いは私にはできないなぁと、尊敬と羨望の眼差し。体調が万全ではないはずなのに、それもおして気を配ってくれるYさんにはただただ感謝。
戦後日本版画の展開。その展示を眺めながら、私は頭の半分で昔居た編集部のあれこれを思い出していた。
本作りのひとになりたい、と、幼い頃から思い続けて来た。そうしてようやく夢が叶った。だからこそ絶対にやり遂げたいと我武者羅に仕事にしがみついた。かぶりついた。それが祟って被害に出食わした。当時はまだ性被害なんて口に出すものではなく、むしろ隠しておくべき代物だった。そういう時代だった。それを私が口に出したものだから、編集長やその周辺のひとびとは辟易したに違いない。
結局数か月かかって加害者だった上司は辞めていったが、その頃には私の、PTSDの症状は激しく現出しており。幻聴、幻覚、幻味、眩暈、息切れ、頭痛、身体痛、そして何よりフラッシュバックやパニック。果てしなく襲って来るそれらを、それでも自分は大丈夫と言い聞かせ続けて這うようにして日々を過ごした。一年後、自分はもう気が狂ったのだと思い病院に駆け込むことになる日まで、ひたすらに。
もしあの時。すぐに病院に駆け込んでいたら。何か変わったろうか? どういう方法を使っても相手を訴えていたら何か変わったろうか? 今というこの時代ならば変わり得たこともあったろう。でも私の出来事は二十八年も前のこと。被害者という言葉が現れ出るのだってその年の1995年。それが「被害者元年」。性犯罪被害に対して時代のあらゆることたちが閉口していた。私がたとえあの当時叫んだって、何処にもその叫び声は届かなかったに違いない。
それが分かっていても、もしも、と考えてしまうのだ。もしもあの時、と。そんな、たらればな話は何の役にも立たないというのに。
でも、私が清宮展を企画プロデュースしたり深沢先生との対談を改めてテープ起こしし一冊の冊子に仕上げられたのは、あの編集部で培ったあれこれがあったからだったのではなかったのかな、と。ぽつり思った。そもそも版画に親しくなったのはやっぱり、あの編集部に就いたからだったな、と。
そう思いながらも、否、と言いたい自分もいて。心の中はぐるぐると様々な思いが渦巻いた。
清宮先生のアトリエの机を再現した場に立って、ああもう私が知っているあの部屋はないのだなと思うと同時に、今目の前にある机も絵具も灰皿も何もかも、別物になってしまっているなぁと感じ少し寂しくなった。
すべてが少しずつ少しずつ、変化してゆく。変化し続けている。何もかもが。生きて在るということは、そういう変化とも関係し続けてゆくということなのだな、と、改めて思う。
時がただ黙って淡々と降り積もるように、ひともコトもモノも黙って降り積もる。そうして少しずつ少しずつ色を変え匂いを変え、重さを変えてゆく。
たとえば十年後、今この、ここの時代を、十年先のひとたちは何と称するのだろう。あの時代はまだこうだった、と云うのだろうか。私が今、「あの時代はこうだった、今とは大きく違っていた」と云うのと同じように。
たぶん、きっと。

Yさんがプレゼントしてくれたお茶を淹れ、夜に佇む。あと一週間もすれば自分の被害のあの日になる。今年は偶然にもその日はあの時と同じ金曜日で。ああ、と思い出すのだ。まざまざと、その日、を。


2023年01月17日(火) 
天気予報は曇りのち晴れ。東の空は鼠色の雲にすっぽり覆われている。でもその雲は地平線のところだけ隙間があって、そこから朝陽が零れてくる。きれいな橙色。だから私は窓を開けて挨拶する。おはよう世界。今日もよろしく。

阪神淡路大震災から28年という年月。つまりその日から十日後の自分の被害のはじまりからも、数えて28年ということ。そうか、ひとひとり成人しても余りある月日が経っているのだな、と、改めてじっと思う。私にとってそれは、長かったと同時にあっという間でもある時間。
そう、それはつい今しがた起こった出来事のように生々しく、ありありと蘇る。いつだってそうなのだ。私は途中から解離を起こしたせいでそこからの記憶がほぼほぼ残っていない。にもかかわらず、残っている短い記憶の、その鮮明さや重さは、他のどんな記憶とも比べ物にならないくらい、鮮やかで重いのだ。
一月は、早く過ぎて終わってくれないかな、と毎日毎日思っている。思いながら、気が遠くなる感覚もあったりする。あらゆる現実感が消失されていて、それを一体どう捉えていいのか、受け止めていいのか、いまだよく分からなかったりする。同時に、それはまごうことなき現実であることを、私は知ってもいる。
この両極の感情の真ん中で、私はいつも両極に引っ張られ引き裂かれ、声なき悲鳴を上げるのだ。
地上から4、5センチ浮遊している感じ。そういう感じが常に私につきまとっている。どうしようもない現実の前で、それでもそれを受け容れられない時の感覚。一体いつまでこんなことやってるんだ、もういい加減受け容れればいいじゃないか、28年だぞ、28年も経っていながら何やってんだおまえは。そう思う。
思うのに。どうにもならない。
でも。
そういったことすべてが、どこか他人事でもあって。どうしようもなく現実でありながら、同時にどうしようもなく他人事でもあって。生温いプールにぷかぷかと浮かんで漂っているような、そんな感覚。私の輪郭は、現実と非現実の間で曖昧になってゆく。
そういったこと一切合切が解離なのよ、と主治医は言う。だから、くれぐれも浮遊しすぎて怪我しないように気を付けてちょうだいね、と。いつだったか階段落ちしたことあるのだから、今度はもう怪我だけはしないように、と。
私も、あんな怪我はもう嫌だなあと思う。思いながら、その思いさえもが何処か他人事で、硝子戸の向こう側で。手を伸ばせば届きそうなほどありありと確かに見えているのに、手を伸ばしてもそれに触れられることは決して、ない。
無限ループ。
日記を書こうにも書けない日々。「今ここ」を生きるので精一杯で、しかもそれが一瞬でも過去になると私は次々失ってゆくからだ。覚えていることがほとんどできない。「今ここ」に在ることで精一杯で、それ以上のことが何一つできない。
いや、今ここに居るだけでいいじゃないか、と思ってみたりもする。が、28年なのだ。ひとひとり成人しても余りある時間がそこには歴然と在って、それはどうしようもない時間でもあって。それなのにいまだ自分がこんな不安定なところにいるなんて、とてもじゃないが言えない。
私の周囲のほとんどのひとたちがきっと、あのことなんて忘れている。過去にしている。当たり前だ、ひとはそうやって生きている。私だけがそれらを過去にできないだけで、当事者以外にとっちゃそれは間違いなく「過去」であり大昔の出来事なのだ。
だから一年、一年、さらに口にのぼせることが躊躇われるようになる。どんどん喉元に何かが詰まってゆく。
頼まれれば私はきっと、平然と語るんだろう。こんなことが昔あって、一月は記念日反応で忙しいのよねえと笑ってみせることなど、どうってことはない。どうってことなく為すことができる。でも同時に、それらすべてが私には嘘くさく、向こう側、だったりする。この矛盾したモノ。一体誰が、理解できようか。


2023年01月11日(水) 
近所の公園の花壇の薔薇たち、今日久しぶりにあったら、葉っぱも一枚もない丸裸な状態でそこに居た。ああ今年も剪定されたのだなと何だかちょっと羨ましくなった。私は剪定が下手だ。うまくできたためしがない。そのせいでいつもためらいがちになってしまう。それじゃだめだと思うのに、この枝も残しておいてあげたいななんてためらってしまうのだ。それがいけない。分かっている。だから決めた。明日絶対に試みよう。思いっきり剪定するんだ。小さな決意。

今夜は失敗が幾つも。時間を持て余している息子を誘ってスパイスケーキを作り始めたのだが、計量カップに入れておいた牛乳を倒して床を牛乳浸しにした瞬間、怒鳴ってしまった。
誰にでも失敗はある。牛乳だろうと水だろうと零すときは零す。分かっている。分かっていたはずなんだ。なのに。
思わず怒鳴ってしまった。彼がその後一生懸命片づけていたにもかかわらず、愚痴を言ってしまった。なおさらいけない。
何をやっているんだろうと思う。せっかく一緒に作り始めたというのに。今思い返すと恥ずかしくて申し訳なくて、穴があったら入りたい気持ちになる。
明日の朝、息子に一番に謝ろう。焼き上がったケーキを一緒に食べながら、ちゃんと謝ろう。そしてまた一緒に作ろうねと約束しよう。
本当に。私は何をやってるんだか。
集中して何かをしている時にそのリズムを壊されると、私は今回のように暴発してしまうことがよくある気がする。駄目だなと思う。まだまだ未熟者だ、おまえは。つくづく思う。
でも、一方で、彼に任すところは任せられたこと、それはよかった。クルミを砕く作業や粉類を篩にかけるところ、小さなことたちを彼に丸ごと任せることができた。丸ごと任せた方が彼は生き生き一生懸命やってくれるのだから、これからも彼ができそうな作業を予め探しておいて、それは丸ごと任すようにしようと思う。

重ねて言うが、私のいけないところ。自分がこうすると決めているそのリズムを崩されるとこうやって暴発するところ。今夜はつくづく自分が嫌になった。息子よ、ほんとにごめん。

あと半月もすると、再婚して十年を迎える。十年も、一緒に過ごしてきたのか、と思うと、正直吃驚してしまう。
最初の結婚が二年三年で終わってしまった私が、再婚してちゃんと共同生活できるものなのか、本当のところ自信がなかった。私に共同生活は向いていないんじゃないかと何処かで思えた。
実際、家を飛び出したいとか家をふらりと出ていなくなりたいだとか、思うことはあった。でも、同時に、この部屋は私の部屋なのだ、この家は私の家なのだと思う気持ちもあった。両方の気持ちに、いつも引っ張られていた。
十年前、おなかが大きかったこの時期、家人が入籍を躊躇っていた。ご両親が私と私の親に対し反感を抱き、実際大喧嘩にもなり、絶対に入籍を認めない、子どもも認知しないと言い出したことに端を発する。
私はいらいらした。何故自分で決めないのか、何故親の気持ちばかり優先するのか、もうこのおなかの中の命は待ったなしなのに、と、家人を責める気持ち以外出てこなかった。だからもういいです出て行ってくださいと言ったこともあった。ただし、子どもの籍はきちんとしてください、と。
それが翻ったのは、いつだったろう。正直あまり思い出せない。
でも、結局彼は、入籍に同意し、2月2日に籍を入れたのだ。

あれから十年。何か変わったろうか。同時に、何が変わらなかったろうか。

細々とだけれど私と彼はそれぞれに自分の為すべきことを為し、ここに居る。それでもう、十分な気がする。
息子も、突拍子もないところはあるが元気だ。元気であってくれればそれで、いい。確かに38点のテストなどをひょいっと持って帰られると心中あたふたするが。まぁそんなあっけらかんとしたところも彼の長所であることを知っているのだから、それで、いい。
他人と共に暮らす、というのは、もうそれだけでストレスは生じるものだ。それでも一緒に暮らすことができること、感謝しよう。いや明日喧嘩して、ふざけんな、と思うのかもしれないけれども今夜、今ここでちゃんと感謝しておこう。
十年。明日それは途切れるかもしれない。いつ終わりになるかもわからない。それでも、今ここ、共に呼吸できているというそのことを、感謝しよう。
いつ終わっても悔いのないように。精一杯この場所を呼吸しよう。


2023年01月09日(月) 
Kちゃんから、立つということ、について問われた。彼女にとっての立つは、働いて身を立てること、とほぼ等しいようで。自分はそれが全くできていないと俯く。
働いて身を立てる。ということが立つことだとするなら、問われた私もほぼできていないのではないかと私は思っている。せっかく問われているのにこんな返事で申し訳なくなるが、それが真実だから仕方がない。正直に応える他ない。
じゃあそもそも、立つということを私がどう考え捉えているのかといえば。私は働いて身を立てることとは違う気がしている。
確かに、社会的に、働いて身を立てる、ということはまさに立つことなのだろう。しかし、私はそれを為しても立っている気がしなかった時間を過ごしてきたことがある。いくら働いても働いても、自分が立っているという実感は、あの頃なかった。むしろ、会社にこき使われ自分がどんどんなくなっていく、すり減っていく感覚ばかり、だった。
今、自分が社会人として十分に働いているかと言えば否だ。しかし、私はようやくここに来て、自分も弱いながら立っている感覚を味わっている。
確かに私は社会人としては不十分なんだろう。でも、他に拠って立っているという気はあまり今しない。自分の領分は領分として、引き受けることができるようになってきた気がしている。
私にとって、そうした、自分の領分を自分なりに弁えて、責任を持って生きることが、立つということなのではないか、と。そう、思うのだ。
Kちゃんと話を続ける為に、まずそこから対話しなければならないということに、気づいた。彼女から届いた手紙は、だから、とても貴重だ。

彼女の立つことから、私はかつて自分が居場所を必死に探していたことがあったことを思い出した。居場所、そう、居場所。私は幼い頃から自分はここにいてはいけない気がしていた。父母から愛されていないのではないか、そんな自分はここに居てはいけないのではないか、では何処へいけばいいのか、何処でなら私は生きられるのか。十代はひたすら、居場所探しをしていた気がする。
そうして家を飛び出し、一人暮らしを始め、社会人として歩き出した私は程なく、性犯罪被害者になった。ようやく自分で自分の居場所を見つけたと思った途端、それが木端微塵に砕けるのを目の当たりにした。
そうして、ようやく気付いた。居場所というのは、探すものではないのだ、と。見つけられるものではないのだ、と。そう、居場所というのは自ら耕し作り出すものなのだ、と。そのことに、今更気づいた。
それからというもの、自分の足元を耕すことに費やしてきた。自分の足の下には幾千幾憶の屍が横たわっていることにもそこで気づいた。幾千幾憶ものひとたちの犠牲の上に自分が今ここに立っているのだという現実に気づいた。その圧倒的な現実に、倒れそうにもなった。
でもたぶん、私はしぶといのだろう。我ながら呆れるほどにしぶといんだろう。生への執着が半端なかったんだろう。私は、今もこうして生きている。居場所を今日も作るために足元を耕しながら。
Kちゃんの立つということと私の居場所作りは、どこかでつながっている気がするのは気のせいだろうか。私の錯覚だろうか。いや、きっとつながっている。私は、彼女への返事をしたため乍ら、そう思い始めていた。

居場所も立つことも。もしかしたら生きてる最中には完了しないのかもしれない。死んではじめてそこで、できあがるのではないだろうか。ああここが彼女の居場所だった、彼女が立っていた場所だった、と、残されたひとびとが思う。そのことによって、ようやく完了される。
そんな気が、今、している。


2023年01月06日(金) 
通院日。冬休み中の息子に昼食を作り置きしてから出掛ける朝。

昨晩思いついた、私は私の身体が嫌い、その身体から離れたかったのかもしれない、ということをカウンセラーに伝える。いくつか質問されたのだが、その中でも、何故そこまで自分の身体を嫌悪するのか、という至極単純明快な問いに、私はうまく応えられなかった。次回迄持ち越し、ということになった記憶が。
今もまだ、うまく言語化できない。何故どうして。辿って行った時、どうしても母の言葉が蘇る。一体あんたは誰に似たんだか、汚らわしい。母は、胸が必要以上に出っ張って尻も出っ張っている私の肉体に向かってそう言い放った。当時よく私は周りから肉感的という言われ方をしていた。肉感的。肉体が豊満だったりしぐさが妖艶だったり、あるいは肉体の描写がなまなましかったりして、性欲を刺激するさま。要するに母は私に、おまえは性的に汚らわしいと言った、と私には思えた。ショックだった。それが引き金になって私は拒食症に陥っていったのを今もまざまざと思い出すことができる。
でも、母は本当にそういう意味で言ったのだろうか。今となっては分からない。私はあの時ちゃんと意味を問わなければならなかった。でも私はショック過ぎて、問うことがまったくできなかった。だから、正確な母の言葉の意味を私は知らない。
私にそう思えてしまったことで、私は自分の肉体がこうであるから、自分の身体がこうであるから私は愛されないのだ、と自分を断じたところがある。父母に愛されたくて愛されたくて、愛されたくてたまらなかった幼い自分、何故愛されないのか、それは私がこの身体を持っているからだ、と、そう繋げてしまったに違いない。今思うと、だけれど。
父母の家から逃げ出して、ようやくひとりになり、レイプされるまでの短い一年弱という時間、私は唯一、その観念から自由だった。3月に飛び出して翌年の1月末レイプされるまでの短いその時間。
レイプされ、その後繰り返し性的搾取され続けながら私は、思っていた気がする。やっぱりな、と。自分なんてこんなもんさ、と。自分なんて所詮、この程度なんだ、と。何処かで。
いや、それも今思うと、なのかもしれないけれど。そう思えてしまうのだ。
そうやって考えてくると、私のこの身体嫌いは、十代のうちに種を蒔かれ、育まれ、そしてレイプという烙印によって決定的になった、ような気がする。
今もまだ拭えないこの肉体への嫌悪、憎悪。どうしたら折り合いつけられるようになるのだろう?
主治医からは、今年こそ減薬できるようにしていきましょう、今あなたが飲んでる量は尋常じゃあないもの、と、そう言われる。1月は記念日反応でとてもそんな余力はないから、せめて2月からでお願いします、と伝える。そうね、そうしましょうね、との返事。減らす、って、どう減らすのだろう。どう減らせるのだろう。私には分からないことばかり。正直、今は、この量を飲んで日常をやりくりするのが精いっぱい。まったくもって減薬する自信がない。
私の日常は、ふつうのひとから見たらかぎかっこつきの「日常」だろう。それでも、何とかやりくりできるようになってようやく落ち着いているというのが私の正直な実感。朝起きて家族の為に朝食を作り、掃除をし、洗濯をし。途中解離しながらも夕方ワンコと散歩に行き、夕飯を作る。短い眠りながらもとりあえずは眠れるし、何とかそうやってやりくりしている。これが崩れるのは、絶対に嫌なのだ。
もう、何もできない、自分には何もできない、何もない、という暗闇に戻るのは、もう、嫌なのだ。
灯りの無い長いトンネルの只中に在る時というのは、とてもじゃないが先を信じることなんてできない。微かでもいい、ほんのひとかけらでもいい、光が見えてはじめて、出口がちゃんとここにも在ることを実感できるというもの。そうでもなければ、もう私には出口さえないのか、と、絶望するばかり。
絶望というのは、たいてい、小さな希望を凌駕してしまう。これを反転させるには、途方もない気力が、精神力が要る。


2023年01月05日(木) 
気づけば正月が終わり、日常が戻って来た。私なりの日常。日々の営み。
地平線すれすれに引かれた線の様な雲を下から桃色がかった輝きで照らす太陽が、じきに昇って来る。私はじっとその変化する様を窓を開け見つめている。しんしんと冷えた大気が心地よい。心地よいと感じられるくらい私の身体はぬくいのだなと、そのことを思う。
少し前から紅茶が飲めない。紅茶が飲めないことに気づいた時手元にあったのが、妊婦の時ずいぶんお世話になったルイボスティー。久しく飲んでいなかったのだが、たまたまルイボスのハーブティーを頂いて、淹れてみた。
何だろう、落ち着く。余計な苦みも雑味もない、癖もない。それが今の私には丁度良い。私は自分の心持ち次第で飲めるものが変わる。つまり今は、ルイボスティーの時期なんだろう。まぁ珈琲は別格。
ジンジャー&チリのルイボスティーを見つけて、早速購入してみる。これにすっかりハマってしまった。ひっきりなしに飲んでいる。私は薬の副作用で唾液がほとんど自力で出ない。放っておくと口の中がからからになってしまう。あまりよくないらしいのだが、そのせいで私は四六時中お茶か水を飲む羽目になる。今は珈琲とそしてこのジンジャー&チリのルイボスティーをたんまり淹れておいてこくこく飲む。
ちょっと油断するとすぐ希死念慮が湧いてきてしまうんです、とCちゃん。ほんのり涙を堪えながら、それでも一生懸命笑おうとしているのだろう、歪んだ口もとが痛々しい。もちろんそんなこと、口に出したりはしないが、私は心の中、共感もしていた。
PTSDの症状が最も酷かった頃、私も、指先ひとつ動かすだけでも希死念慮が湧いてきてしまうというような状況があった。毎日遺書がわりに日記を書いていた。でも本当は、誰よりきっとここにいたくていたくて仕方がなかったんだとも、今は思う。死にたい、というより、そもそも、私の場合自分を消去したいという気持ちだった。存在そのものを消し去りたい、私がかかわったすべての人たちの記憶を消して、自分という存在自体を消去したい、と。ひたすらそう願っていた。何度も凌辱された自分の身体に留まっていることは、苦痛以外の何者でもなく、だから四六時中解離した。身体と共にあることが、耐えられなかった。
かといって、身体という器がなければ私はここに留まっていることは本来できなくて。これほどに嫌悪している身体にどこかで繋がっていなければこの世界に留まることはできなくて。それならいっそ、この身体そのものを消去してしまえれば。私の未練も掻き消すことができるんじゃないか、と。そんなことをひたすら、必死に考え続けていた。
あの、その想いだけに雁字搦めになっていた頃。私の周囲の人間はそんな私をどう見て感じていたのだろう。Mちゃんが何年か前に会った時、こんなことを言っていたのを思い出す。「あなたはもう今覚えていないみたいだけど。毎日電話かけてきて支離滅裂なこと言って、消えたいって繰り返してたんだよ。よくここまで歩いて来たね。もうさ、あの頃のことは思い出さなくていいよ。忘れたままでいい」。そんなにも酷いことを、私は周囲を巻き込んで為していたんだな、と、思い知らされた瞬間だった。悪夢にうなされ起きると確かに私はMちゃんによく電話していたような気がする。現実と夢との境目が曖昧だから、怖くて怖くて、Mちゃんの声を聞いて確かめなければいてもたってもいられなかった頃。
それ以上のことを思い出すことは今の私はできないのだけれど。でももう、本当に、Mちゃんには頭があがらない。足を向けて寝られない。そんな心境。
今Cちゃんと煙草を吸いながら、私は、私から言えることなんて何もないなぁと悔しくなっている。いやというほど分かり過ぎてしまう彼女の今の震え。それを抱くなといっても無理な話なのだ、今の彼女に。それが、分かってしまうから、彼女を励ましたりなんて到底できない。
悔しいなぁ、苛立たしいなあ、このちっぽけすぎる自分が、本当に心底悔しい。でもそれが、私の現実。今の私の限界。
共倒れする気がまったくない私は、ただ、こうして、一緒に煙草を吸って、一緒に珈琲を飲んで、一緒に時間を紡ぐくらいしか、できないのだ。
Cちゃんが帰りがけ、次会う時間で生きるよう頑張る、とぼそっと言った。私は、おう!生きててよ!と声をかけた。心の中、Cちゃん、次も次の次も、私はあなたに会いたいよ、そしてまた一緒に笑い合いたいよ、と呟いてみた。本当はそう声をかけてしまいたいのをぐっと堪えて。
今の彼女にはそんな言葉も、負担にしかならないと思うから。

明日は自分の通院日。


2023年01月02日(月) 
何となく曇っている空の下、息子と自転車で実家へ向かう。オットはオットで電車でこちらに向かっているはず。実家の手前の公園で待ち合わせしている。
今日は娘孫娘も実家に集う予定だ。ママが行くなら私達もその日に行こうかな、と、娘が言い出したのが最初。父母ももう年齢的に、別日にそれぞれ集うよりも一日で全員集ってくれた方が楽で助かると言う。それなら、ということで今日、みなが集うことになった。
そんなこと、はっきりいって我が家では初めてだ。母はともかく、父は大勢が集うことをあまり好まない。放っておくとさっさと帰ってしまったりするくらいだ。それが、高齢になり身体が疲れるからという理由があるとはいえ、全員が集うことを受け容れるとは。私にはまず、それ自体が実感が沸かない。というより、しばらく前から始まっている記念日反応のおかげで半ば解離している状態で実家に行くのはどうなんだろうと思ってもいた。でもまぁ予定を入れてしまったのだから仕方がない。息子にとっちゃ大事なお年玉をもらえる機会。行かねばならぬ。その程度の気持ちで実家に向かった。
でも何だろう。この、変な感じ。もはや私の目は天井に在り、みなを俯瞰している。みながわちゃわちゃと喋り笑い食べている。何なんだろうこの、おかしな感じ。私はこんな光景、これまで見たことが、ない。
そもそも実家を背に父母と娘と写真を撮るのは初めてだった。しかも今日は息子もオットも孫娘もいる。何なんだろうこの光景は。解離しながらもぼんやりその光景を俯瞰していた。こんな光景を目の当たりにするまで私は一体どれだけ生きてきたのだろう。長かった、そしてあっという間でもあった。
食卓を全員で囲むというのも初めてのことだった。父母、娘孫娘、そしてオットと息子と私。何なんだろうこの画は。不思議で仕方がない。この縁は一体何処からもたらされたものなんだろう。目の前に並んだ食べ物を口にする私の舌は味を感知しないくらい解離している。それでもこれは、現実なのだ。
父母から私へ、私から娘息子へ、娘から孫娘へ、脈々と受け継がれる血を、恨み断ち切りたくて仕方なかった頃があった。どうやっても受け容れられず、ずたずたにしてしまいたかった頃があった。それがどうだ、今こうして皆が集い笑い合っている。私はそれをこうして俯瞰している。まるで別世界のことのように。
でもそれは決して別世界でも何でもなく、現実なのだ。解離しながらも私はそのことを嫌という程知ってもいる。父が母が、娘が孫娘が、オットが息子が、他愛ない話に興じ笑っている。そんな現実が自分にあり得ることを、私はまだ、実感できない。でも。それが今日の光景であることは、分かってる。
長く生きていると不思議なことにたくさん出会う、と誰かが言っていた。本当にそうだなと思う。何度三途の川を渡りかけたことか知れない私が、それでも今日こうして今生きて在る皆の宴の端っこに並んで在る。皆の笑顔が眩しい。時間が眩しい。正直私には、こんな光景はまだ苦しい。でも。
同時にありがたいなと思う。だからいつか、心からちゃんと、ありがとうと感じられる、思えるような自分に、辿り着いたら、いい。


2023年01月01日(日) 
元旦。

遠慮がちにこっそり昇り来た太陽、息子を呼んでふたりで太陽を仰ぐ。「今年もよろしくねん!」と手を合わせる息子の横で、ぼんやり考えた。今年一年私はどんな年にしたいんだろう。考えてもよく分からない。どういう年にしたい、という欲がそもそも無い。なるようになるさ、と思っている自分がいる。
三人で初詣に出掛けおみくじを引く。吉なのに「他人からの誹謗中傷に晒され」云々と書いてある。おいおいこれが吉なのか?と三人で笑う。何とも凹む元旦である。
初詣から戻ってから、私は何故かばたっと床で寝てしまった。何時間も。途中息子が遊んでくれ遊んでくれとせがんできたその声だけは覚えているのだが、起きられなかった。気づけば午後2時。慌ててワンコの散歩へ出掛ける。
散歩しながら、ワンコにとっては元旦だろうと何だろうと関係ないよなとふと思う。そんな、特別なことのない淡々とした日々をこれまた淡々と生きているワンコに心の中敬礼しながらちょっと考える。
こころが疲れてる時は間違いなく身体もぼろぼろになってる。PTSD急性期、私は休むことができなかった。それがPTSDが酷い時の症状だったりもする。三十年近く経てようやく、身体が疲れを発信してくれるようになってきた。こんなに身体って疲れてるものだったのかと今更ながら思い知る毎日。新発見。
こころとからだは繋がってる、とよく言われる。なのに、こころが優先されてばかりいる。もしかしたら違うのかもしれないと最近よく思う。からだという器を元気にしてあげることを先に為す必要があるのかもしれない、と。大丈夫な器があってはじめて、こころも元気に泳げるのかも。たぶん、そうに違いない。身体が元気じゃないとどうやったって心も元気に笑うことはできない。まさにこれぞ、こころとからだは繋がってる、ということなのだな、とひとり納得する。
たとえば刑務所で、規則正しい生活を強いるのは、そういうことなのかもしれない。言葉にするとケッと思うけど、でも、要するに、健康な体に健康な心は宿る、という、それなのかも。
私は。健康、という言葉が正直好きじゃない。何を持ってして健康というのか、と思っている。健康、不健康。嘘くさい。それに、そもそもそれらは強いるものではない。強いられるものでも、ない。自らがこころとからだの関係に気づいて行為するものであって、他人から強いられたり強いるものではない。それはほぼ絶対に。他人から強いられたり強いたものは、身につきはしない。
気づき、って、そもそも、誰かに強いられて得られるものではない。

去年を思い出そうにも、もうほぼほぼ去年のことを思い出せない自分に気づく。振り返ろうにも振り返りようがない。去年もおととしも十年前も、もはやごちゃごちゃに入り混じって、遠くに霞んでいる。
それなのに。何故なんだろう。被害に遭った前後のことだけは、今ここ、に、ありありと蘇るのだ。セカンドレイプに晒された日々のことも。生々しく。
これこそがPTSDなのだろうな、と、言い方おかしいけれどもPTSDの醍醐味とはそこにあるんだろうな、と、納得する。
これでもずいぶん、いろんなものを過去にしてきたつもりなのだけれど。それでもこうやってフラッシュバックするものたちが幾つも。もうそれらを重いと感じることにさえ疲れたというか、重いと感じることにさえ麻痺してきた、というのが本音だ。ああそういうものなのね、と、そうやってスルーする。それが、やり過ごす術のひとつ。

明日は実家へ行く日。息子がずっと「じいじばあば、お年玉くれるかなー?!」とどきどきしている。子どもにとってお正月って、そういう心持ちなんだな、と、改めて気づかされる。


浅岡忍 HOMEMAIL

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