ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年12月31日(土) 
あっという間に12月も31日になっている。時間が飛ぶように過ぎてゆく。怖いくらいに早くて吃驚する。

ワンコと散歩している道筋にでーんと墓地がある。丘一帯がお墓で覆われている。こんな見晴らしのいい場所にこんなに墓碑が立っているのは壮観だなといつも思う。住宅街のど真ん中にある。だからいつも、その周囲のお家の窓を見てしまう。この窓から見る光景はどんなだろう、死者と生者とのあわいが見えるのだろうか。それはどんな光景だろうか。毎朝毎夕それを感じるのはどんなものなんだろう。考え出すと次々不思議が浮かんでくる。日常的に死の形が間近にあるのとないのとでは、きっと明らかな違いがあるに違いない。そう思うからだ。

年末になって友人の死とY先生の死と、その知らせが立て続けに舞い込んできて少し気持ちが沈んだ。でも、良くも悪くも私は死に、どちらかというと慣れてしまっていて、誰もが死にゆくことに抵抗がない。その一人が自分であることも含めて。
生まれ堕ちた瞬間から私たちは、死に向かって駆け出してゆく。それは誰にも等しく与えられていることのひとつ、だ。どう抵抗しようとどうにもならないことがある。それなら、抗うよりも、どれだけその流れに乗っかって思い切り泳げるかを考える方がいい。私にはそう、思える。
今泳ぐと書いて、いっとう先に思い出したのは清宮質文先生の泳ぐひとという作品と流れという作品。あの作品が生まれた時代の背景を考えると、私が今思い浮かべたそれとは微妙に異なっていることは分かっている。でも。
あのふたつの作品は、ひとの生き様を端的に表している気がする。

30日は娘と孫娘がおせち料理の手伝いにやってきた。といっても寝坊したのか来るのがかなり遅くて、彼女らが到着する前にお煮しめは作ってしまっていた。伊達巻を作りながらおしゃべりし、遅い昼食を食べる。もうそろそろ帰ろうかなと言い出した時に私がはっと思い出す。栗きんとん作ってなかったじゃない!
慌てて準備を始める。「栗きんとんは買わないでおいたんだよ。ママの栗きんとん食べたら他の食べる気しないから」。嬉しいことを言うじゃないかと心の中思う。せっせと準備。芋を茹でている間娘と息子はゲーム対戦に興じている。そこで私の隣にやってきたのが孫娘。「ばあば何やってるの?」。くちなしの実をちょうど割るところだったので、孫娘にこれがきれいな黄色になるんだよと伝える。一緒に割ってみる? うん!私上手に割るよ! 割った実の下に黄色い粉がはじけて飛んでいるのを見た孫娘が、「うわぁきれいな黄色だ!すごい!」と。ああそうだよなぁはじめて見るんだよなきっと、と思いながら、包んで鍋に入れる。
孫娘がひとつひとつに躓いて質問してくるので、私もひとつひとつ応える。これは何に使うの? これはどんな味がするの? これは何色になるの? 質問攻めだ。でも、嫌じゃない。私には当たり前の事柄でも、まだ五年しかこの世界で生きていない彼女には何もかもがどきどきなのだろうから。
裏ごしを一緒に始めるも、力が足りない孫娘はあちこちに芋を飛ばしてしまう。まぁそれもありかなと思ってとりあえず任すことにする。そうしているうちに気配を察したのか対戦が一区切りしたのかで娘と息子が台所に戻って来る。今年の栗きんとんはそんな訳で、全員で作った代物になった。
朝から台所に立ちっぱなしだったせいで、すっかり草臥れてしまった夕刻。ああこれが歳を取るということかな、とぼんやり思う。

明日は残り2本伊達巻を作って、お雑煮の準備をして、植木の手入れもせねば。息子の遊び相手にもならねばならぬし、やることは満載。たった一日でどれだけできるだろう。ちょっと不安。

新しい戦前、という言葉に出会った数日前。ああまさしく、と頷いた。恩師が同じ言葉を言っていたことをありありと思い出す。私は戦争を知らない。祖父母や恩師、関わりを持った老人たちが辛うじて私に伝えてくれた事柄しか知らない。でもそうやって伝えてもらったことたちから思い巡らしても、今ここはきっと、いずれ、新しい戦前となるに違いないと思えてしまうことが、恐ろしい。
人間はどうして、争わずに生きられないのか。力を誇示せずに生きられないのか。


2022年12月25日(日) 
今朝の空は朝焼けが実に美しかった。きーんと引き締まった濃紺から橙色へのグラデーション。橙色が地平線に沿って濃いめに立ち昇って、それはまるで冷たく燃えているかのようだった。
朝のワンコの散歩に出掛けた息子と家人は、霜柱と共に帰って来た。「母ちゃん見て見て!」玄関の外から呼ばれ出ていくと、3、4センチはありそうな霜柱の塊がそこにあった。息子が、母ちゃんに見せたいからと取って来てくれたらしい。すっかり凍えた手は赤くなっていて、急いでお湯で手を洗ってもらった。横浜でもこんな霜柱が見られるのかと、ちょっと嬉しくなった。「いっぱい霜柱踏んできた!」息子が嬉々として話してくれる。朝の一光景。
ビオラは紫ばかりが咲いている。他の色も種を蒔いたはずなのだけれども咲く気配がない。ネモフィラやクリサンセマム、東側のベランダのこの子らはまだ咲かない。南側のベランダの子らは今朝もくいっと首をもたげてめいいっぱい花びらを伸ばしている。病葉を抱えた薔薇の樹たちが蕾も抱えているのだけれど、これは枝を切り詰めるのが先か花を咲かすのが先かどっちなんだろうと少し悩んでいる。どうすべきか。せっかくついてくれた蕾をむざむざと切り捨ててしまうのは忍びなく、かといって病葉をこれ以上拡げたくないというのも本音で。悩ましい。

このところ私の周りの友人らの具合が悪い。そういう季節なのだなと思う。毎年冬になると誰かがオーバードーズしたり飛んだりする。そういう私も、すでに記念日反応が始まっている。離人感が酷くなっている。
でも、私はもうそうやって何年も何十年も過ごしてきたから、「ああまたそういう季節だな」で受け容れることもだいぶできるようになった、気がする。不思議だ。自分の状態を拒絶するのでなく、認めて受け容れるとそれだけでとても楽になる。自分を大嫌いにならなくても済む。
「こんな自分なんて!」と、どれほど拒絶したって抗ったって、自分を生きるしかないのが私たち人間。それをもうちょっと別の角度で言えば、自分を生きることができるのは自分しかいない、ということ。自分以外を生きることはできないとネガティブに捉えるのか、自分を生きることができるのはこの自分をおいて他にないとポジティブに捉えるのかで、まったく色が変わってくる。
人間の眼なんて、あてにならないなあとだから思う。色眼鏡、という言葉があるけれども、ひとの眼は常にそれだと思っておいた方がいいんじゃないかと思う。自分はきっと今色眼鏡で見ている、だからちょっと距離を置いて見直してみようと思えるかどうか、は、大きな違い。

PTSDが最もひどかった頃。一挙手一投足、一言一句、忘れることができなくて、苦しかった。他人から見たらどうでもいい些末事でも、同じ深度で刻み込まれるから、どれもこれもが際立ってしまって、つまり、どうでもいい事柄が何一つなくて、どれもこれもに目配りしていなければいけなくて。要するに、適当に流すということなんてとてもじゃないができない状態だった。何もかも、そう、今呼吸するその呼吸ひとつさえもが、重大事みたいな。そういう状態だった。
だから、そうじゃないひとたちの状態が分からなかった。許せなかった。許容できなかった。どうしてみんなこうなの?!どうしてみんな?!と、いつも震えていた。今思うとそういう自分こそが恐ろしいのだけれども、当時はそれが分からなかった。
解離性障害の、健忘が現れ出して、そうしてようやく、私は立ち止まることができた。忘れることは才能だと、忘れられるというのはとてつもない才能なのだと思っていた私は、忘れることしかできなくなってはじめて、覚えていられることがどういうことだったのかを知った。
みんなそういうものなんだろう、失ってみてはじめて、あ、と思うのだ。


2022年12月22日(木) 
新しい年がもうじきやってくる。一年の何と早いことか。きっと来年はもっと早く時が過ぎるように感じるんじゃなかろうか、歳の分だけ。でもまぁ、それもよし、というところ。

顧みると。
写真を始めて間もなく自分の写真の中に「ヒトガタ」が欲しいと思い始め、それは今も変わらずあるなぁ、と。私の言うヒトガタは、別の言葉で言うなら「お化け」のような、「気配」のようなもの。版画家の清宮質文先生がよく言ってらした、絵の中にお化けがほしい、と、その言葉そのまま、真似たいくらい。そのくらい、私は自分の画の中に「ヒトガタ」が欲しい。そう思い続けている。時々その兆しのようなものは写真の中に現れてくれたりするからなおさら諦められなくて今日に至る。きっと死ぬ迄、追い続けるのだろうなと、最近よく思う。

家人が冬至だから南瓜料理と煩いのでじゃあ南瓜を買ってきてと言ったら、その値段に吃驚して買わずに帰って来た。「なんでこんな高いの?」「冬至という時期だからでしょ」。それを知らないままこの歳まで来ている君は平和だなぁとつい思ってしまった。自分で買い出しをしないまま大人になったのだろう家人ゆえの出来事。そして、南瓜は買えなかったけど柚子湯用の柚子は安かったから買ってきた、と自慢げに見せる家人であった。
そうして無事柚子湯に浸かった息子と家人。今夜もワンコとみんなでぐーかー鼾をかいて寝ている。

佐賀のMさんが入院した。どんどんと誰かが窓を叩くんだ、だから家の周りを見回りしてきてほしいと繰り返し言っていたのを思い出す。私はもうその時点で、ああ幻聴だろうなあと思い巡らしていた。私にもかつて、PTSD症状の酷い時期、幻聴幻覚に苦しんだ時期があったからだ。
Mさんは酷く怖がっていた。呼び鈴が鳴るとカッターを隠し持って出るという具合だった。もし奴らだったらこれで怪我を負わせてやるんだ、と言っていた。
今日昼過ぎ、恐らく訪問看護の担当が来たのだろう、幻聴が見られるからということで緊急入院の処置がとられた。Kさんはそれを知って、病院で酷い目に遭わなければいいのだけれどと心配している。
私は。たぶん、その、入院中の出来事も彼女の被害妄想の部分がとても大きいんじゃないかと想像している。Kさんとはずいぶん違う見方といえばもうそれまでなのだが、でも、幻聴幻覚の酷い時期、というのは、全ての出来事に過敏に反応してしまうし、何もかもが敵のように思えてならないという経験を自分もしたから、だ。
そして思う。Mさんにとっては、あの日々あの体験は今もまだ、血が噴き出し続け、生のままなのだな、と。彼女が被害を被害として思い出してからもう一体何年が経ったか。少なくとも二十年は経っている。それでも生のままというのは、彼女の心をケアする医者もカウンセラーも彼女のそばにいなかったから、だ。私はたまたま医者とカウンセラーに恵まれた。それだけの違い。

ワンコと散歩している最中、すれ違いざまに「俺、犬嫌いなんだよね」と声に出して言う少年がいた。ランドセルを背負い、学期末ならではの大荷物で帰ってゆくところで。私はそうかぁと思いながら彼の背中を見送った。うちのワンコはラブラドール・レトリーバーで大きさもそれなりの大きさだから、子どもから見たら大きな犬イコール怖いになりがちだ。仕方がない。それにしても、「嫌い」と飼い主である私の隣でわざわざ声に出す少年に、一体過去何があったんだろうなあと、思わずあれこれ想像してしまった。いつか犬といい思い出が作れるといいね、少年よ。

宿根菫が次々咲き乱れているベランダ。クリサンセマムやビオラもまた、次々花開いている。薔薇の葉がちょっと具合が悪くて、何本かうどん粉病が。薬をできるだけ撒きたくないのでせっせと病葉を摘んでいるのだが、それでも次々病葉が現れる。まるで鬼ごっこ。
ラナンキュラスとチューリップ、ムスカリ、息子のトマトは順調だ。種から育った息子のミニトマト、冬を越せるのだろうかと心配していたのだが、今のところ実もしっかり育ってきていて頼もしい。こんなにトマトが強いものだとは知らなかった。
雨が降った今朝、そのおかげで空気が澄んでいる。夜闇がすっと透き通っている。静かな夜だ。そしてじき、朝がやって来る。


2022年12月20日(火) 
慌ただしく時間は飛び去って行く。私はその時間と共に走り続けている。でもまるっきり覚えていられない。時は飛び去る時きっと、私の記憶も持ち去っているに違いない、と、そんな馬鹿なことを考えてしまうくらいに、まるっきり記憶が残らない。私の脳味噌はきっと、皺を刻むことをやめてしまったんだ。そうに違いない。
記憶できていないということはそのまま、常時解離しているということを私に思い出させる。確かに常に自分の背後から、自分の背中を含めた像を見ている気がする。でもそれも、気がするだけで、次から次に消え去って行くからあてにならない。ただ、何処か自分が自分から切り離されていることだけは、常に感じる。
それが自分の当たり前、と思ってしまえばもうそれまでなのだが。他人と比べても仕方ないと思ってはいても、こういう時は比べてしまう、他の人は一体どんなふうに生きているのだろう、と不思議に思えてしまう。

性暴力のニュースが巷に溢れる。こんな日が来るなんて、被害に遭った当時の私は想像しただろうか。想像もしなかった。1995年から今日まで、たいして時は経っていないように感じられてしまうのは私の時計が狂っているからに違いない。それは承知している。それでも。
なかったことにはしたくない、と声を上げる被害者たち。ニュースでちらりとその言葉を聞くたび、私は自分を顧みずにはいられなくなる。
なかったことにだけはしたくない、という思い。私自身その思いが原動力だった。それがなければとうの昔に別の生き方を選んでいたに違いない。どうしてもそこだけは譲れなくて、そうして気づいたらここまで来た気がする。誰にでも、譲れないものはある。誰が何と言おうと。
譲れないもの。護るべきもの。他の誰に侵されようと、それだけは譲れないものがあっていい。他の誰に穢され、それがどれほどずたぼろになろうと、死ぬ迄手放さず護り通すものがあったっていい。それが他人から見たらこれっぽっちの代物だったとしても。私にとってそれは、大切な大切な、大切なものだということ。―――今ならこうやって言葉にも還元できるけれど、それまでに一体何年かかったことか。想像するだけでぼおっとしてきてしまう。
二十五年以上の歳月が、私と、被害に遭った時の私の間には横たわっているはずで。四半世紀を越えているにもかかわらず、私にはそうは感じられない。ちょっと油断すれば、たちどころに時が巻き戻ってしまう。
それはPTSDの症状のひとつだよ、と頭では分かってはいる。分かってはいるのだけれど、受け容れ難い。その一言に尽きる。
私にとっていつだって、ひとっとびで当時に舞い戻れてしまうこと。それが私の普通で、当たり前で。でもそれは他人とは共有できないこと。

今季初のジャム作り。何となく思い立って林檎ジャムを作り始めている。シナモンと檸檬をたっぷり入れて。砂糖はほぼ使わない。ことこと、ことこと、ゆっくりゆっくり、たっぷりたっぷり、火にかけて。
美味しくできあがりますように。


2022年12月14日(水) 
Kさんらと共に佐賀に行ってきた。Mさんに会いに。三年前会った時にはベリーショートだったMさんの髪の毛は肩まで伸びていた。パーマかけたの?と訊ねたくなるくらいいい具合にくるんくるん巻いていて、何だか女っぽい匂いがした。黒のダボッとしたワンピースを着て、赤いインド綿の布を肩に掛けて。くっきりした色が相変わらず似合う人だなぁと思いながら見つめる。苦労が多すぎたせいで皺が痛いくらい刻まれている。顔の半分が麻痺しているせいで笑顔が歪になるのだけれど、でも皺がくしゃっとなって可愛らしい。もしMさんが被害に遭わないで生きてこられたら。きっととてもとても、魅力的な女性であったに違いない。被害の二次被害三次被害が積もり積もって、これでもかというほど彼女の細い肩に圧し掛かっているのが分かる。見つめているだけで胸がぎゅうとなる。
KさんとMさんが手を繋いで歩く姿は、午後の柔らかい陽射しも相まってか、何だかとても切なくいとおしく見えた。このまま何もかもが天に昇華されてしまえばいいのにと思わず願ってしまうくらいに。
撮り始めたのが2016年だったか何だったか。私はもう忘れてしまった。書簡集で展示を為すのはこれが最後になります、とKさんに葉書を出したことがKさんの思いを動かしたんだと後になって私は知った。撮るなら今しかない、と、Kさんはそう思ったという。
それから何年も、途中コロナがあったりKさんの腎臓移植手術があったり、もうダメかなと思うこと多々、それでもここまで漕ぎつけた。この佐賀の撮影を最後にしよう、とKさんが言っていた。
だだっぴろい土地。どこもかしこも田畑。数年前火事で焼けたMさんのお家。今はだから借家住まい。人間誰しもそうなんだろうけれども、失ってみてはじめて、モノの価値、その重さに気づくものだ。Mさんは焼け出されてみてはじめて、この家こそが自分の帰る場所だと思ったに違いない。でももうそれは後の祭りで。すぐ建て直すつもりだった家は建たないまま今日に至る。
「ご飯を食べた途端蘇ったの。あの時口の中に突っ込まれたペニスのこと。何度も、切り落としてやるって思ってしまう」というMさんは、その日以来ご飯が食べられなくなった。炊きあがったお米の独特な匂いが、彼女を追いつめる。
Mさんがスケッチブックに描いた、いつか絵本にしたいという「ねむれないこのために」を見せていただいた。クレパスの青がどこまでも深く広がっていた。青。青。青。
描く絵の青は、彼女の涙の海みたいだ。やわらかく澄んで静かに佇む。彼女がしょっちゅう見せる激情とは正反対の、静かな青。きっとそれが本来のMさんの心のありようなんじゃないかなんて思うことがある。被害さえなければきっとそうだったに違いない、と、私は勝手に思っている。澄んだ涙の海の青。
別れ際、思い切りハグした。私にはまだ、たとえば三年後というものがあったとしても、MさんやKさんに三年後五年後というのはどうなんだろうか。少なくとも、当然あるもの、ではなくなっているに違いない。だからこそ、思い切りハグした。Mさんに私は、「またね!」と言った。たとえもう二度と会えなかったとしても。でも、それはそれでいいのかもしれない、と今なら思う。自然の摂理。


2022年12月06日(火) 
あっという間にカレンダーが最後の一枚になった。師走とはよく言ったものだ。まさに駆け足で日々が飛んで過ぎてゆく。

加害者プログラムで、時間の最後に円枠を使っての図をみんなに描いてもらった。顕著に表れたのは、誰も中心に自分を描かない、ということ。父母の像が自分の倍以上の大きさで描かれること。
人生の主人公は、当たり前だが、自分、だ。自分が舞台の主役。と書いたが、私も若い頃はそれがよく分かっていなかった。「父の為」「母の為」、要するに自分を生きていなかった。いつだって、誰かしらの目を意識し、誰かしらの思惑を意識し、それに沿うように行動していた。でも。
私の人生を生きることができるのは、私自身以外にいないのだ、ということがようやく腑に落ちてから、ずいぶん変わった気がする。ちなみに私は昔、円枠の内側に自分の像を描くことができなかった。自分はいつだってカヤの外、外れている人間、異端な人間、というふうに括っていた。
こういうものを、家族の会に出席してくれている方たちと共有した方がよいのでは、と、S先生に伝えはしたのだが。そもそもそれを共有してもいいかと描いたひとたちに許可を得てからということになるし、ちょっと難しいかも、という返事が。
この、父母の像が自分の倍以上の大きさで描かれている、そのことが象徴するものをちゃんと共有した方が私はいいと思う。ちゃんと考えた方がいいと思う。そのことだけは、伝えた。

そういえば先週、Kちゃんと会ったのだった。Kちゃんから連絡があって、二人展がしたい、という申し出を受けたのが先月中頃だったか。もちろんと応えて、ふたりであれこれ考えてとあることを思いついた。早速取り掛かっている。さて、それがどういうふうに進行するか。分からないけれど、「どきどきしますね!」というKちゃんの嬉しそうな表情が、私は嬉しい。

人生の残り時間を数える方が早くなった、と自覚してから、ちょっと、自分の内側の何かが変わって来た気がする。基準のその線の置き所、というか、そういうものが微妙に変化した、というか。
たとえば、昔だったら構わず関わっていた問題でも、今はもう距離を置こう、というような。もうこんなことに関わり合っている時間は自分にはないな、という気持ちがふとした時に生じるようになった。本当に関わりたいことなのかどうなのか、ということを自分に常に問いかけるようになった。

昨日はCちゃんがうちに遊びにやってきたのだけれども。楽し気に話しているけれど何か心がいっぱいいっぱいな顔をしているなぁと思っていたら、帰り際立ち寄った珈琲屋で、涙をぼろぼろ流すCちゃんと出会った。ああやっぱり、と思いながら、隣に座っていた。
白か黒、0か100、こっちが丸ならあっちは×。どちらかしか、ない。そういう感覚、私も若い頃は強くあって、よく自分を否定しにかかった。だから、Cちゃんがそこでじたばた足掻いている気持ちは、とてもよく分かる気がした。
「私、モノクロ写真を実際にやって、よかったな、と思っていることがひとつあって。それはね、白か黒か、しかなかったら、写真は成立しない、ってことに気づいたことなんだ。白か黒しかなかったら輪郭線しかない写真になってしまう。そう思わない? 白と黒の間に夥しい数のグレーが存在していて、それが存在しているからこそ写真が生まれるのだなぁって気づいて、なるほどなぁって思ったの。人生もそれと似てると思わない? 白か黒か、じゃなくて、白と黒の間にはグレーのグラデーションが、夥しい数のグレーが横たわっていて、そのグレーこそが人生を味わい深いものにしてるんだよね」。そんなことを確か、Cちゃんに話した。「だから、Cちゃんの中にあるこの両極を、矛盾、と捉えるのではなくて、どちらかがよくてどちらかが悪いって捉えるのではなくて、どっちもありだよね、じゃだめなのかな? どっちも丸。どっちもまずは抱きしめて受け止めてあげる、って、とてもとても大事なことだと思う。自分をまず受け止め認めてやるって、実は自分自身にしかできないことだと思わない?」。
偉そうにあれこれ話したけれども。私だって二十や三十の頃はそんなのできやしなかった。どっちかしかない、と極端から極端に走っていたし、自分をジャッジしてばかりいた。でも。
自分をジャッジして、自分を否定して、そうしていても何もいいことはないな、ということに気づくことができてから、少しずつ変化してきた。まぁそうは言ってもまだまだ発展途上なのだけれども。でも、人間そんな簡単に完成されるものじゃぁない。死んだその時、はじめて、そのひとの全体像ってちゃんと浮かび上がるものなんじゃないのかな。
「またお茶してくださーい」と大きく手を振って改札口を潜り抜けるCちゃんを見送り、雨の中バス停に向かう。冬の雨は冷たい。でも、こんな夕は冷たい雨さえほんのりあたたかく感じられる。ひとの心の不思議。


2022年12月01日(木) 
曇天から時折、ぽつぽつりと雨粒が零れ落ちてきていた今日。でも傘をさすほどではなく、私は結局わんこの散歩も帽子を被らず出掛けた。小さな雨粒に混じってたまに大きな大きな粒が落ちてきて、私のうなじで跳ねたりする。ワンコがぶるぶるぶるっと大きく身体を振ったり。でも今日は、いつもとルートを違え、新しい道を歩いたせいでワンコはふんがふんがと四六時中匂い嗅ぎに夢中だった。「いつでもあなたは下を向いてるのよね!」と、お友達ワンコのママさんがくすくす笑っていたことを改めて思い出す。確かにうちのワンコは、散歩中ほとんど顔を上げない。
「そんなに下向いてて、鼻、擦っちゃわない?」。試しに訊いてみたが、もちろんそんなこと一向にかまう様子はなく。私も笑いながら彼と共に歩く。

真夜中、家人の明日の弁当用のおかずを作りながら、とある歌い手さんの昔々のアルバムを聴いている。当時から正直言うと、私はこの歌い手さんの作る音楽についていききれていなくて、何となく置いてきぼり感を覚えていた。それは実は今もそう。
でも何だろう。当時から今日というこの日まで、歌い続け作り続けているって、やっぱりすごいことだよな、と。そんなことを改めて思うのだ。
どんなことであっても、し続けること。何年も何十年も続けること。そのことによって降り積もるものというのが、あるのだよなぁと。しみじみ感じ入る。
恩師が、ひょんな理由から教師になった、その日からずっと教師という仕事を続けた先生の歩いた後には、間違いなく先生でしか歩けなかった道があって。その道筋を頼りに歩く、生徒たちが間違いなくいて。そう、間違いなくいて、道はいつのまにか踏みしだかれて確かな道に変ってゆく。その道がもう、誰によって最初切り開かれたかなんて忘れ去られたとしても。道はそこに、在り続ける。
もちろん、誰も通らなくなった道はいつか雑草に覆い尽くされることもあろう。でも、細々とでも誰かがその道を使い続けること、或いは、誰かが或る日その道を草を分け歩き始めればまた、道は現れる。全く道でなかった場所よりずっと、歩きやすい道として立ち現われる。
不思議だ。続けるという行為によって生み出されるそれら。確かな痕跡。続けることでしか生まれ得ぬものたち。

First Love 初恋、というドラマを観た。最初観た時は演じ手さんたちに入り込みすぎて気づけなかったことたちに、二度目に気づく。これらの映像を貯め続けるのにどれくらいの時間が必要だったんだろうなぁ、なんて、そのことに驚嘆する。いったいいつから、これを作ろうと心構えていたのだろうこの監督さんは、と。
いや、もちろん、いろんな映像を探し出したのかもしれないけれども、その探し出す力、呼び寄せる力もまた、そのひとの力なんだと最近私はそう思う。

私は決して作り得ないものをたとえば家人が作るように。私は自分の写真以外を自分の写真集に入れる気がしない。まったくもってしない。アーカイブを探ろうなんてこれっぽっちもその気にならない。
でも、アーカイブをどう使うか、は、作り手次第なのだということを、家人の背中を見ていて思う。それがスパイスになり得ることを、だから、彼を通して私は知ってはいる。彼の作り出す写真集には夥しい数の、他者による写真や資料が添えられている。それによって彼の写真集は骨太になり、評価され、「彼の」写真集として世界的に受け入れられてもいるのだから。
私のやり方の方が、意固地なんだろう、とも思う。
そう言ってはみるが、私はそんな意固地さを変えるつもりはまったくなく。死ぬ迄こうしていくんだろう、とも思っている。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加