ささやかな日々

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2022年11月29日(火) 
轟々風の唸り狂う夜、明かりを消して耳を澄ましてみた。ベランダの薔薇の枝々が風に嬲られている。枝が窓に当たり音を立てる。如雨露が所定の場所からとうとう落ちたのだろう、その音が大きく響く。かといって窓を開けて片付けに行けるような雰囲気でもなくて、私はただじっと、体育座りして、窓の外にじっと耳を澄ましている。

私の被害は一体、どういう被害だったんでしょう。ほら、世間にはエントラップメント型性暴力とかグルーミングとかそれぞれ言葉がありますけれど、どうなんでしょう、私の被害は一体。
この間、カウンセラーにそう訊ねた。思い切って訊ねてみた。
カウンセラーは、しばらく間をおいて、こう応えた。
角度によって如何様にも解釈可能だと思うの、こういうことって。だから、一概にどう、とは言えないと思うのよ。ただ、間違いなくあなたは事件の間解離していたのだと、私と医者とはそう解釈しているわ。
いや、そうじゃなくて、ああ、いや、そう、なんというか、何々型とか、そういう、言い方で言うとどういうものになるのか、とそれが知りたいんです。

カウンセラーは結局、はっきりと応えてはくれなかった。ただ、解離という言葉をくっきりと言ったのみだった。
私は。少し宙づりにされたままになった気がした。

落ち着きたいだけなのだ、ということも、私は知っている。自分が落ち着きどころが欲しくて、カウンセラーにこう訊ねているのだろうことを、知っている。信頼している人間に、いいように嬲られ、その後何度も何度も凌辱された過去に、何とかケリをつけたくて、だから、何かこう、明確な名前が欲しいのだ、と。
多分カウンセラーはそれを見越して、私に応えないのだ、と、思った。

私は。
解離ばかりしている。私の眼はしょっちゅう天井に貼りついて私を他人のように見下ろす。おかげで、私は私なはずなのに、私ではない、そういうところばかり生きるほかに術がなくなる。私は私であり、同時に私ではない。何処までも私は私とは別のところに在って、私を置いてきぼりにする。
解離性健忘は、まるで寄せては引く波のように、突然私のところにやってきて呑み込んでは、またつっけんどんに突き放す。だから私は、他人と共有できる現実と共有できない空白とを行き来しなければならなくなる。
一体どうしたら、この両極に橋を架けられるんだろう。

久しぶりにつけたテレビという箱の中で滔々と流れる映像が、暗闇の中ちかちか光り続ける。私はその光をぼんやり眺めながら、つらつらと考えるでもなく考え続けている。
余計な夢なんて見ない。
余計な期待なんてしない。
裏切られても当たり前。
笑われても当たり前。
揶揄されても笑って流す。
すべては最初からあきらめてしまえば、痛みは最小限で済む。

なのに。
私はやっぱり何処かで、期待してしまうのだ、信じてしまうのだ、追いかけてしまうのだ。もしかしたら、もしかしたら今度こそ、と。そうしてまた、転ぶのだ。泥だらけになり、膝を擦りむき、泣きべそを呑み込んで、そうしてまた。

私は、そんなふうにしか、生きられない。


2022年11月24日(木) 
家人の個展の初日に私は私で服役経験を持つふたりと打ち合わせ。といっても、ほぼおしゃべりになってしまった感は否めないのだが、でも、それもまたよし、かと。
Jさんは相変わらず忙しそうにせかせかしていて、出てくるのはとある会の活動への愚痴ばかり。よほど溜まっているんだろう。次から次に出てくる。最近性犯罪での対話申し込みが増えたという。ご時勢だよなぁと思う。
そしてもうひとり、Sさんも同席。

Sさんはいつ会っても、ぴりっとしている。常に気をぴんと張っている感じ。それは過度な緊張というわけではないと思う。ただ、自分はかつて服役した経験をもつ人間だからこそ、しっかり生きねば、という気概というか何というか、そういうものに全身が貫かれている感じがする。
私は幸か不幸か服役経験はないから、彼女のその気を張らざるを得ないところがたぶん、いまひとつわかっていないに違いない。隙を見せないぞとぴしっと背筋を伸ばして常に姿勢を崩さない彼女を見ていて、時々ふっと、心配になる。
いや、私が心配したからとてどうにかなるものではないことは重々承知だ。だからもちろん、何も言わない。言えない。言ってもたぶん、「それは私が元受刑者だからですよ」と真っ向から言われるに違いない。

「被害者だから」
「加害者だから」
私は被害者だからこうだ、私は加害者だからこうだ、という言葉。本当によく聞く。被害者だろうと加害者だろうとどうでもいいんだよ、ひととしてどうなの、と時として詰問したくなることが、私には、ある。それは私自身に対しても、だ。
私被害者だから、に続く言葉はきっと、決まっている。私被害者だからしょうがないでしょ、だ。それは私加害者だからという言葉にも言えることだと私には思える。
被害者だからしょうがない、加害者だからしょうがない、と言ってしまったら、もう他人は何も言えない。口を挟む余地がないのだ、そこには。
そうなんだ、としか応えられない。

だからかもしれない。被害者だから/加害者だからという言葉に時々、どうしようもない傲慢さを感じてしまうのだ。被害者だから/加害者だからと言ってしまったら、そうじゃないひとが口を挟むことができなくなるわけで、それがわかっていてもなおその言葉を使うのは、どうしようもなく「逃げ」にならないか、と。
そう、思えてしまう。
私は被害者だ/私は加害者だと表明することによって、そのほかのことを受け付けない壁のようなものがそこに表出する気がしてならない。あなたが被害者だろうと加害者だろうとそれは私には関係はない、そうじゃなく、それ以前の、ひととしてどうなのかを問うているだけなのだよ君、と、敢えて突っ込みたくなることが、最近増えた。
私も意地が悪いな、と思う。
でも、そう、感じている。

JさんもSさんも、今はしっかり社会に関わって、それぞれに仕事をしながら、自分にできることを模索し、できることからひとつずつ実行していっている。そういうところ、すごいなと私は思っている。
だからこそ、加害者だからですよ、なんて言葉で片付けてほしくないと思ってしまうのだ。それは私の一方的な思いなのだけれども。

話は変わって。
父が、あの頑固親父が、86にしてスマホデビューしたらしい。数日前から何度も着信がある。何回かに一度かけ直すと「今練習中なんだ、申し訳ない」と。電話の出方にも四苦八苦しているらしい。隣にいたなら、手取り足取り教えてあげられるのだけれど。そう思いながら、「はいはい、わかった、じゃまたねー」と電話を切る。その繰り返し。スマホだけでなくLINEにもデビューしたらしい父の混乱ぶり、葛藤ぶりが目に見えるようだ。母が時々電話口で「しっかりしてよパパ」と言っているその声が聞こえてくるのが可笑しい。いやいや母よ、父はあなたよりずっと年上で、ここにきて新しいものにトライしているのだから、そう急かさなくてもいいのでは、と、私は思うのだが、まぁあのちゃきちゃきした母からしたら、頑固が売り物の父の様子はいらいらするに違いないとも納得する。
何はともあれ、ふたりが元気なら、それでよい。

カレンダーはいつの間にか残り一枚になっている。ついこの間今年が始まったと思ったのに。時が経つのは何てあっという間なんだろう。たまに呆然としてしまう。


2022年11月21日(月) 
10月の個展の時に約束したUさんとの約束の日。久しぶりにお会いしたUさんはマスクを決して外さず、お茶を啜る時だけちょこっと外すといった具合で、私には彼女の表情はあまり分からなかったのだけれど。でも、彼女が今企画している事柄を聴かせていただいた。実現にはいろんなハードルがあるのだろうけれど、でも、それが実現したらとても面白いし拡がっていきそうな気がした。応援したい。
きっともともとUさんはとても理知的な方なのだろうなといつも感じている。もし被害に遭わなければ、もっと、こう、第一線で活躍していたんじゃなかろうかと思う。被害に遭ってしまったことによって退かなければならなかったモノがいっぱいあったに違いない。でも彼女はあまりそのことについて口にしない。いつも、これから、の話をしてくれる。すごいなぁと思う。だからなおさら、彼女の企画を、彼女を、私は応援したくなるのだ。
彼女と被害の話を少ししていて、一次被害に終わりはあるけれど、二次被害に終わりはないね、という話になる。終わりがないから余計に辛いよね、と。しかもそれが、同じ「被害当事者」からのものだと、傷つきも深くなるよね、と。「どうして被害者にこんな、派閥みたいなものがあるんでしょう?」とUさんが言う。どうしてなんだろう、私も思う。私が被害に遭ってからもう三十年近くが経とうとしているけれど、その間この、派閥みたいなものって変わらずある気がする。足の引っ張り合い。傷つけ合い。果てしなくある。
でも、別に「被害者」に限ってそれらがあるわけじゃないという気もするのだ。ひとはいつでも、何かしらに拠っている気がする。そうしていないと怖いというか不安というか。だから、いつでも何かしらに拠って、それによって何とか自分を立てている、というような。つまり、こうしたものは、ひとがひとであるが故のものなのかもしれない、と。私にはそう、思える。
「できるだけ巻き込まれないように、線引きをしっかりしようと思っているんです、ふだんから」。Uさんが言うので、私も大きく頷く。それがいいと思う。それしかできないとも、言えるのだけれど。
本当はもっとゆっくり時間を過ごしたかったのだけれど、息子の帰宅時間が近づいてきて、仕方なく別れる。また会おうね、と手を振って。

書き忘れていたのだが、先日映画「宮松と山下」を観た。不思議な映画だった。幾重にもレイヤーが重なって重なり合って、一体何処までが宮松で何処までが山下で、いやそもそも宮松も山下も越えて彼は一体何者なんだ、とすっかり混乱してしまうような。でもそれが、いやな混乱ではないのだ。それはひとえに、香川照之の「静」の、徹底した静の演技によるものなんじゃないかと感じた。そのくらい、この映画で観られる香川照之の演技は徹底していた。ああこれが、演技なのか、と改めて思わせるくらいに。
もう一度観たい。

Uさんと別れて乗った電車に揺られながら、何度も何度もこれまで思ってきたことをまた思う。ひとはひとによって傷つき、同時にひとはひとによって癒されもする。絶望を味わうのもひとによってなら希望を抱くのも同じひとによってだったりする。そうした相反するものを同時に抱えているのがひとなのだと半世紀生きてつくづく納得する。傷つき傷つけ、癒し癒され。ひとはそうして関わり合ってる、と。


2022年11月17日(木) 
大の苦手な渋谷の街外れのギャラリーへ掛井五郎先生の展示を観にゆく。ヒトでごった返す街を必死の思いで潜り抜ければ、静かな住宅街。その隅っこにギャラリーはあって、二階と三階がギャラリースペースになっていた。吹き抜けの、気持ちの良い空間で、光が燦々と降り注いでいた。先生が最期に作られていた作品もあった。「これはまだ途中なんですけど、これを作られている最中に亡くなられたんです」とギャラリーの方が教えてくださった。先生らしいなぁと思いながらそれを眺めた。
三階のスペースに先生のスケッチブックが何冊も並び、そしてまた原稿用紙に綴られた奥様の文章も置かれていて、そこはまるで掛井先生と芙美さんの寝室のようだった。私が昔々取材させていただいた折、奥様はお団子ヘアで、長い長いワンピースを着ておられたことを思い出す。掛井先生の傍らでまっすぐに立つその立ち姿に、ああこうやって先生をずっと支えてらっしゃるのかと心震えたことが今もありありと蘇る。その部屋の端っこには、先生が出会いの際に奥様をスケッチしたというその素描が、ひっそりとでもくっきりと、飾ってあった。
アトリエを再現したのだろう部屋もギャラリーの入口のすぐ脇にあって、制作風景がありありとうかがえた。とても親密な空間がそこにあった。会期中にもう一度ここを訪れることができたらいいのだけど、と思うくらい、上質な展示だった。

これを書いていたら、また地震。この間ワンコの散歩をしていた時も地震があって、立ち止まって空を見上げた。もくもくと鼠色の雲が空を覆ってる日だった。地震の直前、一緒にいた他の犬たち(全員ラブラドール)もくるくる回って騒いでいた。かつて阪神淡路大震災の直前、当時一緒に暮らしていた猫が大騒ぎしたのを思い出した。彼らにはきっとアンテナがあるんだ。地震アンテナ。
地震があると私はどうしても、自分の被害のことを思い出してしまう。阪神淡路大震災の直後に被害に遭ったからなのか、どうしても地続きで、蘇ってしまう。何とも言えない嫌な感じ。

昨日はKO監督やKさん、Oさんらと暗室へ。まさか本当に暗室に入ることになるとは実は私は思っていず、ちょっとどぎまぎしながらこの日を迎えた。でも、暗室に入った途端、引き伸ばし機を見た途端、ああ、と時間がフラッシュバックした。
FくんやMさん、OO先生に手伝っていただきながらプリントするというのも新鮮で何とも照れ臭かった。私にとって暗室作業はいつだって孤独だったから、だ。
私にとって暗室作業は当時、夜を越える為に必要な作業だった。眠れない夜毎、風呂場暗室に籠って次から次に写真を焼いた。夜明けが来る頃にはベランダに濡れた印画紙が何十枚も揺れていた。ああ今夜も無事に夜を越えた、そう思いながらその光景を眺めてた。十階の部屋のベランダには空しかなかった。十階の部屋のベランダから身を乗り出せば簡単に死ねるよなといつも下を覗いた。下には何も知らぬひとたちが行き来しており、そのひとたちを巻き込んで死ぬのは違う気がしていつも飛べなかった。あの、北側の部屋から見上げる空はいつも灰色だった記憶がある。北の部屋にはだから、もう住めない。
暗室作業というものがあの頃私の傍らにあってくれて、本当によかった、と作業をしながら心の中で思っていた。もしこれがなかったら私は夜を越えられず、今頃ここに居なかったかもしれない。今こうしてみんなといっしょに暗室でわいわいするなんてあり得なかったかもしれない。
夜を越えることが本当に毎晩しんどくてつらかった。眠れればよいのに薬を飲んでも椅子に座ってしかうとうとできなかった私は一時間二時間もすれば目が覚める具合で。夜は長すぎた。暗室作業はそんな私にちょうどよかった。私に簡易暗室セットを買って与えてくれた友よ、いまさらだけど本当にありがとう。
何か違う何か違うと言いながら焼いていて、あ!と思い出したのは、フィルターを何枚も重ねていたこと。5のフィルターだけじゃ足りなくて4や3を重ねて焼いたりしていたのだ、当時。「5、もう一枚ありますよ!」とMさんが差し出してくれた時には、思わず笑ってしまった。そうかここは私の独りきりのお風呂場暗室ではなく、大学の、引き伸ばし機が幾つもある暗室だからフィルターも何セットもあるのか、と、感動してしまった。

生きていると本当にいろいろなことが起こる。思ってもみなかったことに出会う。あり得ないと思い込んでいることが覆ったりもする。それもこれも、生きて在るからであって、生きてなかったらあり得ない。
生きてるって、もうそれだけで、ギフトなんだな、と。そんなことを思った。


2022年11月14日(月) 
にょきにょき、にょきにょきと球根から芽が伸びて来る。そんなに急いで何処へ行く、と思わず歌い出したくなる様。私はにまにましながら芽をそっと撫でては水を遣る。薔薇は薔薇でここぞとばかりに次々花を咲かせてくれている。でもここ数日ずっと風が強い。そのお陰で葉がぼろぼろになってきてしまっている。互いに傷つけ合ったり、自らの棘で自分の葉を傷めたり。こればっかりは、この丘の上に住んでいるという環境ゆえどうしようもない。ごめんね、と呟きながら葉を指で撫でる。
感謝という名の白薔薇がこの春からベランダの片隅に居てくれているのだけれど、この子、パスカリともホワイトクリスマスとも全く違う白を見せてくれる。蕾の形も綻び方も異なる。この花に感謝という名をつけたのは何故なんだろう。花を眺めているとつい考え込んでしまう。そのくらい、違う。白と一言に言っても、ひとつひとつその白が異なる。クリームがかった白もあれば青味がかった白も。感謝の白はまさに真っ白に私には感じられる。まっさらな、という言葉が最も似合う。感謝という言葉をそこに位置付けたのは何故なんだろうって、ずっと考えている。そして、美しい。感謝が美しいと考えたことは私にはなかった。むしろあたたかくさりげなくやわらかいイメージだった。でもこの花はそのどれとも異なる。色もそうだし蕾の姿とその綻び方もまた独特で、私はつい見入ってしまう。そしてこの香。改めて、感謝という言葉について、私は考えこんでいる。

週末、S君の舞台を息子や友人らと観に行った。ひとり芝居。当たり前だがひとりで演じ切る90分。そのエネルギーは決して緩むことなく最後まで貫かれていて、だからこそ観る者すべてを魅了する。彼の熱量がそのままこちらに伝染してくる。だから、観終わった後、元気になれてしまう。
すごいなぁと思う。この熱量。それを三日間ぶっ通しで為す彼のパワー、心のパワーたるや。もう考えただけで呆然としてしまう。もう尊敬の念しかない。
もちろん細かいことを言い出したらキリがない。でも、そんな細かいことをすべて帳消しにする熱量なのだ。
息子が気に入ったシーンと私が気に入った場とがそれぞれ違っていて、それもまた面白かった。息子が絵を描いてくれたのだが、今度それをSくんとKくんに渡そうと思う。

今日は施設でアートセラピー講師の日。セルフポートレートを入れてのフォトコラージュ。私は写真を手でちぎっていいよ、と言うのだが、みんな律義に鋏できれいに切ってゆく。ちぎるひとは誰一人いないのが逆に面白い。彼らの真面目さ律義さが顕著に表れている。コラージュに慣れて来たひとたちの作品からは、どんどんそのひととなりが表れ出てくるようになってきている。そもそもセルフポートレートの撮り方が個性的だ。私は今回桜の葉を押し花にして持って行ったのだが、Dくんはそれを自分のポートレートの目の部分を隠すのに使った。「飲んでる時僕が見えている世界をモノクロ写真で現わして、だからダブってたり倒れてたりするんだけど、シラフの時はカラーで、くっきりきれいに見えてて、だからきれいな花の写真にした。飲んでる時の目は見られたもんじゃないから、これで隠してみた」と語っていた。
もちろん、頑なに作業を拒絶するひともいたりする。どうでもいい、早く時間過ぎてくれ、とばかりに座しているひともいる。でもそれもまたアリなのだと思う。

明日は明日で、S先生と次回プログラムの打ち合わせの日。もう準備万端、と言いたいのだけれどとんでもない、その逆。とりあえずの準備はしたけれど、ぜんぜん自分自身読み込めてないし自分の内に落し込めてない。これからしっかり向き合って読み込んで落し込んでから打ち合わせに向かいたいとは思っているのだけれど、はてさてどうなることやら。

家人がパリにでかけてもう一週間か。早い。


2022年11月11日(金) 
数日前植えた球根が植えて二日もしないうちに芽を出してきた。どれだけ気が早いんだとちょっと笑ってしまった。春はまだまだ先だというのに。これから風に晒され雨に晒され、そうして春がやってきたら、大きな花を咲かすのだよ、と芽を撫でながら話しかける。植物は根で対話しているのだそうだ。遠い樹と樹がそうやって、対話する、と想像しただけでどきどきするのは私だけだろうか。一度その地に根をおろしてしまったら二度と自ら動くことはできない者同士、そんな対話の方法があるなんて。彼らから見たら人間の言葉というのはどんなふうに聞こえるのだろう。響いているのだろう。伝わっているのだろう。こんなちっぽけなことで悩んだり苦しんだりする人間は、彼らから見ればそれこそ、短期な奴らに思えるに違いない。もっとのんびり構えろよ、と。
すこんと抜けるような青空が広がる今日は通院日だった。朝一番に診察。主治医とぽつぽつ話をしていたら、主治医がにっこり笑って、それは他人の領分だから、あなたが背負う必要はないのよ、放っていいのよ、と言う。分かっている、頭では分かっている。それがうまくできない。「他人の責任まで負う必要はないの。それは私には関係ない、と思っていいのよ」。重ねて主治医が言う。
カウンセリングでは、食べることについてつらつらと。あなたそれ、本当においしいって感じて食べてる?と問われ、はたと立ち止まる。とりあえず穴を埋める為に食べてる気がする。私は本当においしいとは感じていない気がする。おいしいって何だ?と思ったら、頭が混乱してきた。主治医の言葉もカウンセラーの言葉も、ぶすぶすと刺さってくる。ひとつひとつ引っかかって来る。ひっかかるということは私もどこかで気にしていたことなんだと思う。ただあまり考えたくなかっただけで。
必死にカウンセラーに応えていたら、すっかり疲労してしまった。いや、悪い疲労ではないのだからいいのだけれど、自分を自分の言葉で語るという作業は、本当に、いつやっても疲れるものだ。そしてふと、対話している加害者のひとたちが自分語りがあまりできないことを思い出す。
彼らは、与えられた言葉は使えるのだけれど、自分の状態を自らの言葉で語ることが本当に下手だ。そもそも語るということが下手だ。どれだけ自分の認知の歪みを秘めて秘めてきたのかが痛いほど分かる。だからその、秘めてきたものを日に晒してやる必要があるのだと私は思う。
次のプログラムは26日。打ち合わせは15日。さて。次のテーマはどうしよう。

家人がパリに出掛けていって数日。私と息子は「父ちゃんが居ない時にできることをいっぱいしよう」と結構留守を楽しんでいる。この間はバターたっぷりつけて焼き芋を食べた。「こんなバター使ったら怒られるよね父ちゃんに!」と言いながら息子がはふはふと焼き芋をおいしそうに食べる。実に美味しそうに。こういうのが「美味しい」ということなのだろう、と私はそれを眺めながらぼんやり思う。
明日は明日で、S君の舞台を息子と友人らと観にゆく。ひとりで90分もの舞台を務めあげるのかと思うとそれだけでこっちの方がどぎまぎしてきてしまう。息子がどんな反応を見せるかも楽しみだったりする。以前彼の舞台を一緒に観に行った時、ひとり声をあげてけらけら笑っていた。

自分を自分の言葉でもって語ること。語るには自分の内奥と向き合わなければならない。当たり前だ。それがしんどいから、みんな目を逸らす。もしくは外皮だけを取り繕ってしまう。でもそれじゃぁ、やっぱり足りないのだ。ひとがひとであることの意味を、改めて顧みる。


2022年11月05日(土) 
約束していた友達が遊べなくなっちゃった、と息子。がっくり肩を落としている。せっかくの週末、ごろごろ家の中で過ごすのはもったいなさ過ぎる。外に行っておいで、と言うのだが返ってきたのは別の返事。「ねぇばあばのところの檸檬、収穫しに行きたい」。え、先週も行ったじゃん、と返すと「だってばあば、今週には檸檬穫れるようになるって言ってたじゃん!」と。仕方なく母に電話すると、「いいわよぉ」と。まさか二週続けて実家に行くことになるとは。
自転車に乗って実家に向かう。陽射しはきらきら眩しいが、風がずいぶん涼しくなった。おかげで自転車を全力で漕いでいても漕いでいる最中は汗もかかない。「ねぇ母ちゃん、この前より速い気がしない?」「んー、どうかなぁ」「速いよ、ここ通ったのもっと時間かかった気がするもん」「そうなん? じゃぁそうなのかなぁ」。息子のペダルを漕ぐ足もずいぶん勢いづいてきていて、斜めに振り返ると真後ろにいたりする時があって内心驚く。いやいや息子よ、適度な距離保っておくれよ、と言うのだが、「うんわかった!」と返事は必ず来るのだが、彼はすぐそれを忘れるらしい。だから気づいた時には私がスピードを上げて距離を保つよう努力することにする。
最後の大きな交差点から右手にあがったら、そのあとはひたすら上りが続く。でもこの間もうこの坂はクリアしたから大丈夫だろう。私は彼の漕ぐ様子を見ながら思う。程なく丘の頂上に辿り着き、頂上にある公園で一息つく。「ブランコ乗って来るわ!」と息子。え、休むって言うから止まったのに、と思ったが、まぁ一分二分、いいだろう、私も付き合う。ここからは下り坂。数分で実家、という距離。
実家に着くと、早速カマキリの卵を確認しに行く息子。「寄生虫ついてないかなあ」心配そうだ。でも、いくら心配したってそういうものはどうしようもない。私は心の中思う。どうしようもないところで私達も虫達も生きてる。そういうもんだと思う。
「檸檬より柚子が穫れ頃なのよ」。母が植木鋏を用意している。「どちらも棘があるから気を付けてよ」「大丈夫だよぉ」と息子。ばぁばと並んで樹の前に立ち、どれにしようかなぁなんてやっている。私は少し離れたところで一服する。
母がバトミントンをやっているからだと思うのだが、実家に来ると息子は何かにつけバトミントンをやろうと言って来る。もちろんばぁばが相手をしてくれるのだが、途中から私も引っ張りこまれる。帰りの自転車もあるからあまり体力使い過ぎたくないんだけどなぁと心の中で思うが、まぁこういう時じゃなきゃやらないからいいか、と私も私でやってしまう。
「ばぁば、そこ!カマキリいる!二匹!」。ばぁばがサーブしようと構えたところで息子が叫ぶ。え?!と私と母が振り返ると、なるほど、足元に。こんなところになんでいるのかしらと母が言うと、「ばぁば、だってここ、なんでかしらないけどバッタがいっぱいいるんだ」と。息子の目は一体どれだけカマキリに反応するようにできあがっているのだろう。カマキリもバッタも私たちはまったく気づかなかったのだけれど。
二時間ほどそうして果物をとったりバトミントンをしたりして過ごす。「ねぇお父さん、足、ずいぶん悪くなったね」と母にそっと耳打ちすると「そうなのよ、でもね、絶対認めないの」「うん、さっき私もお父さんに言ったら、断固として受け付けない感じだった」「でしょ? 困っちゃうわよほんとに」。そう母は言うが、ちっとも困ってるふうじゃなく、まぁいつものことよという感じ。それが、父と母の距離感なんだろう。
帰り道、走っていると「母ちゃん、行きより帰りの方が絶対速いよね!」息子が言う。「帰りの方が景色に慣れてるからそう感じるんだよ」「そうなの?」「うん」。

来週には家人がパリに出掛ける。私達はしばらくふたりきりになる。


浅岡忍 HOMEMAIL

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