ささやかな日々

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2022年10月29日(土) 
息子と自転車で実家まで出掛ける。珈琲好きの父母にエスプレッソをご馳走することを思いつき、エスプレッソメーカーと珈琲豆をリュックに詰め込む。途中で濃厚なショコラケーキを買い足そう。あれはエスプレッソにとてもよく合う。
いい天気で風もちょうどいい感じ。気持ちよく走り続ける。その間中息子が後ろから私にあれやこれや話しかけて来る。かれはおしゃべりがとても好きだ。いや、黙っているのがきっと苦手なんだ。寂しん坊だから。私はひとつひとつ大きい声で相槌を打つ。畳みかけるようにさらに息子がおしゃべりする。そんな具合。
一番最初息子と自転車で実家へ行った時は一時間ゆうにかかった。でも二度目の今日は四十分程度で済んだ。大きな交差点からひたすら上り坂が続く。それを越えないと実家には辿り着けない。息子に「ガンバレ!」と声をかけながらふたりして坂を上がる。上りきると今度は下りになる。その上りきった丘から見る景色はいつ見ても美しい。今日は大気が澄んでいるせいで遠い遠い町の山の尾根がくっきり浮かび上がっている。「やー、上りきったところで見れる景色がこれって、最高だね!」なんて息子がいっちょまえに言うもんだから、私は笑ってしまう。
実家の庭では檸檬が鈴なりで、あと一週間か十日もすればちょうどいい具合に色づくところ。ゆずはちょうどよく実っていたので少し分けてもらう。そういえばここで夏にクロアゲハの幼虫を見つけたのだった。私が最初、蛾の幼虫かと思ってしまったそれが、クロアゲハの幼虫だった。あとで息子に「蛾の幼虫と間違えるなんて!」と酷く怒られた。
父の片耳はもう、ほとんど聞こえていないのかもしれない。母とそう話す。私達がそれなりの声でしゃべっていても、その最中に父に話しかけても返事がない。ここで無視するのはおかしいという場面がいっぱいあって、私たちは声のボリュームをフルにして再度父に話しかける。すると返事がある。呆気なく。やっぱり、聞こえていないのだ。
「もうね、ふたりでいて、普通に喋って聞こえないから、すごいストレスになる時があるのよねえ」母がしみじみ言う。毎日のことだから、そりゃそうだろうと思う。「ママのお小遣いで補聴器買ってプレゼントしたのに、頑としてつけないの」「ああ、そうだろうねえ、お父さんはきっとそうだろうなあ」「もうね、絶対つけない。認めたくないんでしょうね、自分が聞こえてないって」「うんうん」。そんな母は、この春肩の筋を断裂したにも関わらずいまも毎週末バトミントンを続けている。痛いんだけどねぇ、お医者さんとも話したんだけど、バトミントンは続けた方がいいわね、ってことでね、続けてるのよ。母がさらりそう言う。もう八十を越えた母には、好きにしてもらった方がいいと私も思うから、敢えて止めない。
息子が落ち着きなく四六時中動いていることにこめかみをちりちりさせている父に、私が苦笑すると、母が、「お父さんはね、子どもに慣れてないのよ。しょうがないわよ、子育てしてないんだから」。あっさりそう言う。まあ、第一級の企業戦士として生きて来た父を私も知っているから、私も心の内で深く頷く。「男の子なんてね、あんなものよ、時期がくれば落ち着くんだから、放っておいて大丈夫なのにね」「お母さんそう思う?」「思うわよ。何せ四人兄弟私以外全員男の中で育ってますからね私は。どうってことないわ」。確かに、そういえば母はそういう兄弟構成だった。もう母以外の兄弟はみな、死んでしまった。上から二番目の母が唯一、生きている。
ひとそれぞれ、みんな、いろんな親しいひとたちを見送ってきているのだな、と、改めて思う。見送り方はひとそれぞれなんだろう、きっと。母なら母の見送り方、父なら父の見送り方。私には私の、見送り方があって不思議じゃぁない。

じゃぁまたね、と手を振って私たちは実家を後にする。息子が大きな声で「またねぇ!」と言うと、母が「またねぇ!」と返してくれる。もちろん父は黙っている。
帰り道も息子はあれやこれやおしゃべりを続ける。「ねぇ母ちゃん!あのさ!」「なに」「あのセブンイレブン、最初の時にアイス食べたところだよね?」「ん?あ、そうだねえ」「ってことはもう半分過ぎたね、帰り道は速いね!」。
家に着いた頃にはもう、日が傾き始めており。西の空には雲ひとつない。そうして日が、堕ちてゆく。


2022年10月27日(木) 
南の町から手紙が届いたのが十日前。ようやっと返事を書き始めた今夕。その間にすとんと夕日が堕ちていった。音もなくただすとん、と地平線に沈む夕日を見、しばらくぼんやり。そして再び手紙書きに戻る。

荻上直子著「川っぺりムコリッタ」を読み終えた数日前。電車の中でぽろぽろっと涙が零れてしまった。何だろうこの涙は。零れ落ちた涙に気づいて改めて考える。うまく言葉になりきらないのだけれども、私はこの小説の中に、可能性を見たのかもしれない。ひとの持つ可能性。
やり直しを赦さない社会。ひととの繋がりが希薄な世界。そんなふうについ感じてしまいがちな今日この頃の私たちの住まいだけれど、でも、信じることをやめたらそこでおしまいだよな、と。そんなことを改めて思わせてくれる小説だった。
食べるということについては梨木香歩著「雪と珊瑚と」が私にとっては一番の小説なのだけれど、この「川っぺりムコリッタ」は、食べることを礎に、ひととひととが繋がってゆく、そんな風景をありありと見せてくれた。映画もよかったけれど、映画の脚本のト書きになっていただろう部分が伝わり切らなかったところがあって、だから小説で読むとすとんと堕ちて来る、そんな感じだった。
そういえば、「川っぺりムコリッタ」の後続けて「マイ・ブロークン・マリコ」も観たのだった。こちらの方がストレートに心に来た。どちらも、演者たちの演技がとてもよくて、しみじみ感じ入った。自分がかつて演劇部にいたことも今更だけれど思い出した。いっとき夢中になったんだったっけな、舞台に、と、思い出すとこっぱずかしさもあるのだけれど、でも、思い出せてよかった。
そうして今、葉真中顕著「ロスト・ケア」を読み始めたところ。
読める時は徹底的に読んでおく。どうせまた全く読めない時期が来るのだから。読める時はだから、我武者羅にがっつくように読む。Tさんから「一体あなたはいつ寝てるの?」と笑われる。いや、でも、最近前より寝てるのだ、私。

ワンコが数日前体調を崩した。家人は大丈夫というのだけれど、私にはどうにも大丈夫に思えず。その夕、ワンコが猛烈に嘔吐し始めたので急いで動物病院へ。いつもの院長先生に診てもらう。「腸閉塞かもしれないなあ」と言われる。注射2本打たれて消化の良い病院食を分けていただいていったん帰宅。様子見。いつもみたいに寝返りを一度も打つことなく、丸まってしょぼんと寝ているワンコを見ていたら、もう寝るどころの話じゃなくて、だから、ワンコの隣で私も丸まっていた。
そうして翌日再診。昨日より様子がよくなっていたこと、嘔吐が止まったことから、最悪の状態は脱したようで。五日間薬で様子を見よう、ということになった。そうして今、三日目。
少しずつだけれど、いつもの調子に戻り始めている。嘔吐はあれ以来していない。うんちがゆるゆるだけれど水浸しのような状態は脱した。
ワンコが具合悪くなって、改めて、この子は間違いなく家族の一員なのだ、太い太い楔のような存在なのだ、と痛感する。

ひとは言葉を操る。でも、その言葉でひとを傷つけたり失敗したり、を繰り返す。
ワンコは言葉を喋らない。でも、全身でこちらに寄り添って来る。言葉を喋らない分以上に、こちらの様子に敏感だ。
だのに、ひとは。どうしてこうも鈍感なのだろう。言葉を操れる分だけ鈍感になっていっている気がする。
言葉って、何だ。


2022年10月25日(火) 
「「犯罪者は表舞台から排除して日陰者にする」これが社会のルール。」
という書き込みを、SNSで見つけてからというもの、どんより悶々としている。

強制わいせつ未遂容疑でとある有名作曲家が逮捕された、というニュースに対して書かれたその言葉。私が感じたことよりもずっと多くの思いや考えがそこに込められているのかもしれないが、私には酷く排他的な代物にしか見えなくて、正直戸惑った。
犯罪者は表舞台から排除して日陰者にする。日陰者?排除?

私は常々思っていることだが、誰もが被害者にも加害者にもなり得るのがこの今の社会だ、と、そう思っている。一歩間違えば誰しもが被害者に、そして加害者になり得る。生涯被害者にも加害者にもまったくならずに済む人間など何処にもいない、と。
そんな私からこの言葉を読むと、「自分は決して犯罪者にはならない」としか読めない。それはあまりに傲慢じゃあないのか?
もしあなたが、大切な大切な愛するひとを誰かに殺されたり犯されたりしたら、あなたはその誰かを決して傷つけたり殺したりしないでいられるのか?一度もそんなこと思わず乗り越えられるのか? たとえば車を運転していて突然子供が飛び出して来たら?あなたは事故を起こさず誰も傷つけず回避できるのか?
あまりの出来事、突然の出来事によって、或る日唐突に被害者に、或いは加害者になってしまうかもしれない。それが、私たちの生きている世界なのだ。
なのに「やり直しを赦さない」という、どこまでも「排除」しようとするひとびと。
こんな怖ろしいことは、ない。

一度失敗したら、一度道から外れたら、排除されなければならないのか? この言葉にあるような「日陰者」であり続けねばならないのか?

私は、そんな窮屈で寂しい偏った社会を、自分の子どもたちに手渡したくはない。もっと寛容で、そう、誰にでも何度でもやり直しのきく社会をこそ、繋いでゆきたい。
だから、抗ってしまう。どうあってもこういう考えには抗ってしまう。

もちろん、罪を犯したら、その罪を償う。それは為されるべきことだ。自分の犯した罪を背負うことは、当然のこと、だ。
そのうえで、やり直しがきちんときく世界、社会であってほしい。

加害者にも被害者にも、やり直しが厳しいのが今の社会なんじゃないかと私は思っている。どうしてこんな社会になってしまったんだろうなぁと途方に暮れることもある。少なくとも、どうして被害者がこんなにも追いやられる社会なのだろうなぁ。自分が被害者にならなければ、恐らく私はそういう現実を知らなかったに違いない。そのくらい、実際被害者になってみると社会がどれほど厳しくて冷たくて、排他的だかを痛感させられるのだ。
被害者のやり直しを阻むような社会、足を引っ張るような社会。それは、おかしい。

そして、やり直そうとしている加害者を追いやる社会はつまり、その者を孤立させ再び罪を犯さなければいられなくなるように追いつめてしまうような社会は、あってはならない、と私は思う。

もし自分がそこに立ったら。もし自分がその場所で生きなければならなくなったら。そのことを今一度想像してみてほしい。
私たちのこの隔たりに橋を架け得るのは唯一、私たちがもつ想像力のみ、なのだから。


2022年10月22日(土) 
見事に多くのことを忘れ去ってゆく。

医者から、あなたは四六時中解離しているからそうなって仕方がないのよ、と云われている。それでも、あまりの記憶の欠落度合いに、呆然とすることはある。覚悟していても、そうなる。
昨日すでにやっていたことを、再び今日為す、なんてことは日常茶飯事。覚えていないから平然とそれを為す。或る程度為してしまってから、何故か同じものが手元に二つあることに気づかされ、愕然とする。買い物でも、昨日買ったものを今日再び買ってしまって、冷蔵庫に同じものがいくつも、なんてのは普通にある。
日常的に解離していると、しかも私のように解離と健忘とがいっしょくたになっていると、要するにそういうことに、なる。
家人は敢えて何も云わない。もう慣れてしまったのかもしれない。息子は時々気づいて、母ちゃんこれ同じものあるよ、と突っ込んでくる。突っ込まれて、穴があったら入りたい気持ちにさせられること多々。
「そういうものなんだ、と受け容れなさい」と医者には言われている。でもこの、受け容れるというのが時に、一番難しかったりする。

切った髪は、鎖骨の辺りでふわふわしている。まだ慣れなくて、ちょっと居心地が悪い。いや、悪いともちょっと違う、何と言うか、この歳になっておかしなものだけれども、微妙に恥ずかしい。慣れていないというのはそういうことなのか、と改めて知る。

大船という場所には、振り返ればいろんな思い出があるな、と今日、帰り道に思った。小学生の頃通った唯一の塾がこの街にあった。私が母に気づいてほしさに万引きをしたのもこの街だった。高校の頃、学校にいられなくて電車に乗っては江の島に行き、その帰り道ここで乗り換えたものだった。あの頃は駅前すぐに本屋があって、そこによく立ち寄った。
そして今、プログラムに出席するために折々にここに来る。今日もその日だった。

池袋でのプログラムと違ってここはまだ参加者が少人数だから、ひとりひとり、顔と名前が分かる。どんな問題行動をもっているのかもメモしている。だから打ち合わせ時、S先生に、今日はみなさんどんな具合ですか?と訊ねる。最近誰それさんが落ちてますねぇ、とか、停滞モードですねぇとか。今日久しぶりに誰それさんが出席するんですよ、とか。今日は誰それがこんな具合ですねぇ、とか。そういった先生の言葉、気になることは全部メモしておく。
私ひとりに対して彼らは大勢。少人数といえど大勢。だから、事前にこういった些細な情報でも分かっておくのとそうでないのとは違って来る。
今日はプログラム中に、おもむろに薬を飲み始めるひとがいたり、決して目を合わせようとしないひとがいたり。かと思えばプログラム終了後に声をかけてきてあの時はすみませんと言い出すひとがいたり。

依存症って何なんだろうと最近よく思う。

誰もに或る程度の依存がある。関係依存、行為依存。私にだってある。それが病的になった時はじめて依存症と呼ばれるけれど、その時被害者がいるのといないのとでは、その後に天と地の差ができてしまう、気がする。私にはそう思える。
私が向き合うのはその、被害者を多数産んできてしまった彼らなわけだけれども。
彼らと向き合いながら、私は確かに今ここに被害者として居るけれども、でも、といつも思う。一歩間違えば私だってあちら側に座っていたかもしれないわけで、それは私に限らず誰もがそうなり得ていたかもしれないわけで、そういう切実さでもって、この、線のこちら側とあちら側を意識し生きてる生活してるひとたちがどれだけいるんだろう、と、そのことを思うのだ。
決して自分は被害者や加害者になどならない、と、たいていのひとは思っている。それがふつうだ。でも、実際は、誰もが被害者にも加害者にもなり得てしまう。いつだって誰だってどちらにもなり得てしまう。それが、私たちの世界。私たちのありよう。


2022年10月20日(木) 
今朝の朝焼けの様子を見、ああ季節は確実に冬に向かっているのだなと実感する。でもまだ大気はぬるく、少し気怠げ。ひとつ深呼吸をしシャッターを切る。定点観測。
この大気が、やがて凛と張り詰めて、もし爪で弾いたら音がしそうなほど張り詰めてきたら、私が待っていた真冬だ。しばらくベランダに立っているとつま先がじんとしてくる、あの真冬だ。私は今からその時が待ち遠しくてたまらない。

真冬が好きだ。冬、じゃない、真冬が。あの肌に沁みる冷たさが好きだ。大気が張り詰めた感じが好きだ。何もかもがぎゅっと、縮こまっている。でもその奥底に、マグマのように生気が息づいてる。それが最も感じられる季節が真冬だから。私は真冬が好きだ。

二か月ぶりに美容院に行く。こんなふうに「二か月に一度」美容院に行けるようになるまで、一体何年かかったろう。誰かが背後に立つ、それだけで戦慄した日々。そこから一歩一歩、少しずつだけれど歩き出してここまで来た。
腰まであった髪をざっくりおかっぱにしたい、と言ったら美容師さんが慌てる。私の髪の毛の質と量と、それから私がどれだけ手入れできないかを昏々と説かれ、私も苦笑する。結局、ぎりぎり結べる長さを残し、ざっくり切った。
なんて頭が軽いんだろう!そう思いながら自転車を漕ぐ帰り道、髪の毛の先がひょんひょんと風に飛ぶ。こんな感覚、どのくらいぶりだろう?と思ってちょっと笑う。こんなことに感動してる私は一体何者なんだと我ながら思う。
帰宅すると、家人に「何そのベリーショートは」とからかわれる。「いえ、これはミディアムロングだそうです」と言い返して私も笑ってしまう。残念ながら息子は私が髪を切ったことにさえ気づいてもらえず。まぁそんなもんか。
被害に遭ってから、化粧ができなくなって、香水だけでもとつけていたそれも徐々に徐々につけられなくなって、せめて髪の毛だけはと或る程度の長さを保ってきた。私にとって自分の性を主張できるのは、髪の毛、と、勝手に決めてかかっていた。髪を結うのも洗うのも乾かすのも、だから、あまり面倒じゃぁなかった。
だのになんで今更ここまで切ったのだろう。不思議だ。いや、他人から見たら大した違いはないのかもしれない。息子がまったく気づかない程だもの。きっと大したことじゃぁない。他人から見たら。

「二十代の群像」から「Sの肖像」を展示させてもらって、改めて、今三十になったばかりの彼らともう五十を越えた自分の、時間に対する感覚の差異を感じた。ああ、私はこんなにも長く生きてきてしまっているのだな、と、実感した。私は二十代三十代の自分の記憶をほぼ失っているけれども、でも、間違いなくそこを生き、ここまで歩いてきているのだ、とずっしり感じた。それはそのまま「私の残り時間」を私に意識させるものだった。
なるほど、私は今年五十二になり、じきに五十五にもなる。私が全力で撮影したり展示したりできるのも残り少ないに違いない。実際、四十後半から更年期障害のあれこれをたんまり味わっている自分だ。
そうか、もう私はそういうところを生きているのか。納得した。

私は家人と九つも歳が違う。九つといえばもう十違うに等しく、それは世代が違うとも言い換えることができる時間だ。私が更年期障害に苦しみ始めても、彼にはそれがよく分からない。私が老眼に悩み始め眼鏡を作りたいと言った時も、彼にはそれがあまり実感できない。当たり前だ、彼はそこを生きていない。

そういった、ここ何年かの体験を経て、私はようやく、納得できた。ああもう、私が自力で生きられる時間は、いわゆる「残り時間」と呼ばれるものに突入しているのだな、と。生まれてから何年生きた、よりも、死ぬ迄あと何年、と数える方が早い、というところまで私は生き延びているのだ、と。
ひとつ、またひとつ、自分の拘りを捨て去る時期なのだ、と。思った。

まだまだ、拘りを簡単には捨てられなくて、悩み込むことが多いのだけれど、でも、悩むだけ悩んだら、否、考えるだけ考えたら、もうそれも手放してしまおう。延々考え込んでしゃがみこんでいる時間はもう、あまり、ない。行動できるうちに、自分の生き方を全うできるうちにしっかり行為しておこう。
そんなことを、思ったら、髪の毛に対する拘りも、ちょっくら手放していいかな、と。いやまた伸ばすのだろうけれど、とりあえず今、切っておいていいかな、と。

そして今、珈琲が美味しい。夜が更けゆく。


2022年10月17日(月) 
展示が無事終わった。終えることができた。そのことにただ、感謝する。
その間にあまりにいろいろなことがあって、ずいぶんと私は混乱した。どうしてこんなことに?と思うこともあった。でも、起こってしまったことを変えることなど私にはできない。ただ受け容れるだけ。受け容れたうえで、じゃあ今私はどうしたいのか、どうするのか、と、問い続けること。行動し続けること。それが、今私にできる、こと。

どれほど唇を噛んでも、どれほど歯軋りしても、どうしようもないことがある。他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と今(未来)のみ、と、こういう時特に自分に言い聞かす。繰り返し繰り返し繰り返し、言い聞かす。そうして、ひとつ呼吸する。
私は留まってはいられない。

家人が言う。記憶は上塗りされているんだろうよ、と。
実際あったこと、とはどんどん違っていくだろうよ、時を重ねるほどに、と。
本当にそうだなと思う。なるほどなぁと思う。

私の記憶はそもそもが欠けている。でも、本当はそこにあったはずのことたちがたくさんあるに違いない。月、みたいだな、と思った。実際の月のカタチと、私たちに見える月のカタチとは異なる。記憶も、そういうものなのかもしれない。

そのひとたちの記憶のカタチを問い詰めても、どうしようもない。だってもう、そのひとたちにとってはそうしかあり得ないのだろうから。それを私が変えることはできない。

できるのは。
私が留まらず、行動し続けることのみ。行動し続けて、歩み続けること、のみ。そう、思う。

―――そう心に刻むまでに、何度も揺り戻しがあったし、もう消えてしまいたいと思う時間もあった。ああもうすべてを放棄してしまいたい、消えてなくなってしまいたい、と。
でも、私が消えてなくなったからって、何も変わらない。私がここにいたことを憶えていてくれる友人たちがいてしまう。その友人たちから、私に関するすべての記憶を消去できないかぎり、私はここから消えてなくなることはできないのだ。本当の意味で。

とにかく。
生きよう。生きて在ろう。そこからしか、はじまらない。


2022年10月04日(火) 
日の出は実に穏やかで。細い雲が少しだけつつつっと引かれ、その雲が明るい黄金色に輝き始めると、じきに太陽がぽてっと昇ってきた。しんと静まり返った時間。この、しんと静まり返った瞬間が私は好きだ。何もかもが澄んで凛と張り詰めている。

身体があまりに痛くてせっせとテニスボールでケアしている。とある箇所を押した途端すべて痛みが繋がった。ここかぁ!みたいな。ここも腰と繋がっているのだなと改めて納得。身体って不思議すぎる。こんな不可思議な代物よく作ったなと思う。誰が作ったんだ、ほんとに。

昨日から展示が始まった。昨日は終日在廊したが、濃ゆいひとばかりが訪れるので濃密な時間になった。閉店時間になる頃にはもう、正直くたくただった。
どうしてこんな、普通っぽいひとを被写体にしたのですか、と訊いてくるAさんに、思わず笑ってしまった。いや、普通って、普通でいるって、実はとても大変なことなんじゃないかと私は思っています、と返事をしたけれど、ちゃんと伝わっただろうか。
何でも突出しているのがいい、と言われる時代。そんな中で普通であろうとするには、とてつもない労力を要するんじゃないかと。私はそう思っている。普通っぽい、という言葉はだから、誉め言葉として使われるべきだ。

一度始まってしまうと、あっという間に過ぎてしまうのが展示。きっと今回もそうに違いない。だから、在廊できる日はもうそのこと以外考えるのはやめよう。そのことだけ考えて過ごそう。空間を深呼吸しよう、と決めている。

義父が、危篤状態を脱して、リハビリ専門の病院へと転院になった。義母は大喜びらしいが、家人は複雑そうな顔をしていた。延命治療はとりあえず必要なくなったけれど、いつまたそうなるか分からない状況ではある。そもそもコロナになって肺炎になって、そうして危篤になるまでの間に義父はもうくたくたになってしまっていた。自力では水さえ飲めない状況になっていたのだからそりゃそうだ。全身管だらけ、と家人は言い表していたが、本当に、そういう状況だった。
私は、彼の家の人間ではないから。いや、結婚したのだからといわれるかもしれないが、私はあの家から除外された人間なのだ。あの時一筆書かされた過去をありありと思い出す。そういう状況だから、私は絶対にこれについて何も触れない何も云わないと決めている。彼の家のひとたちが決めればいい。私は沈黙を守るのみ。
そして、自分がそういう状況になった時、延命治療は決して為さぬよう遺言しておくこと。それはきっちり書いて残しておくことを心に決めている。

ぬめっとした空気が横たわる夜。じっとりと汗をかいてしまう。昼間びゅうびゅうと吹いていた豪風が嘘のようにぴたっと止まった。そのせいだ。この汗は。
そして明日から、天気が崩れると天気予報が繰り返す。一気に気温が下がるそうで、雨もまた、降るそうで。季節が飛んで行く。秋は何処に行った?


2022年10月02日(日) 
弟と久しぶりに会う。
話しながら、何となく、学生時代の頃を思い出す。私が大学、彼が高校あたりから、私たちは夜中過ぎになると私の部屋で延々おしゃべりをしていた。何か話したいことがあったとか話すべきことがあったとか、そういう訳じゃない。でも私たちは何となく顔をあわせ互いを確認した。ちょうどふたりとも、機能不全家族というものについて悶々としていた頃だった。
自分たちの「家」がふつうじゃないこと、周囲からこうと見做されているモノと私たちの現実との相違、ただここで生きているそれだけでも何故自分たちはこうも必死にならなければいられないのか。
私と弟の置かれた環境もまた、それぞれあって、それぞれがそれぞれでしか経験できない体験を重ねてきていた。それが重くて苦しくて、もう私たちは共に喘いでいた。だからこそ、のあの時間だったんだと思う。
弟がぼそり、苦笑いしながら言う。落ちこぼれだよな、姉貴も俺も。あの家にあって共に落ちこぼれ。
その言葉がすべてを表している気がした。私達は、あの「家」に圧し潰されてしまった。あの重圧を跳ね返せなかった。それが今この時を形作っている。

異様な「家」だった。
外と内とがこんなにもかけ離れているものなのか、と愕然とするほど、異なる「家」だった。
そのあまりの違いによって生まれる深淵に、私も弟も、呆然とし、そして圧倒されるほどだった。最初は戸惑い、やがて私は諦め、弟は怒り、家の中は荒れた。荒涼とする食卓ほど、心を荒すものは、ない。食べ物は栄養として身体に取り込まれるのではなく、ただ空洞を埋める為に取り込まれるだけの代物だった。

あの時期、もし話もできなかったら。私達はきっと、生きることに迷子になっていたに違いない。

私は娘を「戦友」と呼ぶ。でも、最初の私の戦友は、弟だ。あの「家」を共に生き延びるのに必要不可欠な、戦友・伴侶だった。

今日、久しぶりに会った弟はぼろぼろで、疲れ切っていた。こんな穏やかな午後に会ってしまうのは申し訳なくなるくらいに疲弊していた。私が事前に作っておいたおにぎりも果物も、彼は受け取らなかった。今喰ったら吐くだけだから、と。そして私が淹れた珈琲だけ、おかわりして帰って行った。

夜、LINEに「今日はありがとう」と入れると、弟からすぐ「たまに会って話すの、いいな」と返って来た。「俺がいつまで生きてられるかわからんからな」とも。「私より三年後に生まれているのだからその分ちゃんと私より長生きしてちょうだい」と返す。
今は生きる目標がないと弟が言う。それが痛いほど分かってしまうから私は何も返せない。

月が。きれいだ。


浅岡忍 HOMEMAIL

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