ささやかな日々

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2022年09月30日(金) 
夜明け。地平線に横たわっていた厚い雲たちが気づけば散り散りになっていた。日の出もずいぶん遅くなったな、と思いながらベランダに立つ。静かに静かに太陽は地平線を割って顔を出した。沈黙が世界を覆う。その一瞬に、ぶるり、身が引き締まる。

日記帳をごっそり捨てた。十代の頃から三十になるまでずっとつけ続けていた日記。丁寧に書かれた文字もあれば書き殴られた文字も。すべて手書きの日記帳山ほど。大きな紙袋五つに何とか収まったけれど、それらすべて、ゴミに出した。
幼い頃の賞状やらピアノの発表会のプログラムが日記帳に挟まっていた。それらのほとんども含めて、とにかく紙袋に詰め込んでいった。ずっしり重たい紙袋は、はちきれんばかりだった。

ずっと捨てられなかった。
PTSDと解離性障害と共に生きるようになって、特に解離性健忘が酷くなってからというもの、覚えていられることなんてこれっぽっちもないんだと痛感する日々。それがどれだけ過去のものであろうと、そこに自分がいたことの証を捨て去るのは、耐えられなかった。怖かった。それらを捨ててしまったらもう、自分は戻れる場所がなくなってしまうんじゃないかとさえ思えて。
でも。
これを持っていたからとて、じゃあ私の立つべき場所は何処なのかと問い直してみれば、応えられない自分が、いた。
ああもう、捨て去る時期なのだ、と悟った。これらを引きずってずっとこの先も歩き続けることはできそうになかった。
日記帳の中には当たり前だが、被害に遭った前後も、その直後の日記も含まれていた。それらを捨てるのはさらに怖かった。自分の証を自ら捨て去るのは。
それでも。今ここで捨てなければもう手放すことはできそうになかった。

写真もいっそすべて捨ててしまおうか、一緒に、とも思ったのだが。そこまではさすがに思い切れなかった。写真の幾つかは、本棚にそっとしまった。もうちょっとここに置いておいて、その時期がきたらまとめて捨てよう、と自分に言い聞かせた。
その中には、TTが撮ってくれた写真たちもあった。それを見て改めて、自分が何を為したかったのかを悟った。あの当時無意識に行為していたことも、今改めて見れば、おのずと答えがそこにあったりする。不思議なものだ。

LAにいた頃の写真も出て来た。KY氏のカメラを借りて撮ったものたち。私はLAの日々をほぼ覚えていないけれど、こんな時間もあったのだな、と、ぱらぱら眺めながら思った。
写真は、そうやって、私が覚えていないことも記録し証す。

明日、搬入設営だ。何か忘れ物があるんじゃないか、と思うのだが、もう分からない。分からないから、もう開き直ることにする。


2022年09月29日(木) 
早朝空を見やる。どんよりと重たい鼠色の雲に全面覆われている。何処にも隙間がない。みっしり、というのはこういうことを言うのだろうな、なんて思う。
咲いたミントティーという名の薔薇、実に私好みで、一輪挿しに飾っている。これはもうちょっと樹が太く丈夫になったら、挿し木で増やしたい。今からすでにそんなことを思いわくわくしている。
こんな曇天にも関わらず朝顔が幾つも咲く。青い朝顔。この子らは昼過ぎには萎んでしまう。そんな彼らに、この曇天は一体どんなふうに映っているんだろう。せっかく咲いてくれたのに、と思うと少し寂しい。

金木犀の香りが街のあちこちで漂い始める。この香りに会うと、私はやっぱりいつも、実家の金木犀の樹のことを思い出す。
二階の私の部屋の出窓から、あの金木犀の樹はすぐ手が届くようなところにあった。大きく大きく育った金木犀の樹はだから、季節になると溢れかえるほどの香りを漂わせた。夜、出窓に掛布団を引っ張り上げ、ぺたんと座って空を見上げる。秋の夜にはいつも、金木犀の香りがあった。
今、実家に私の部屋も弟の部屋ももう、ない。十年程前に二階をすっかりリフォームしてしまって、私と弟にとっては知らぬ家になってしまった。あの時は弟とふたり話したものだ、自分の部屋がなくなるってさ、寂しいね、と。でも。今なら分かる気がするのだ、私達が出て行った後、父と母、ふたりきりで暮らすにはこの家は大きすぎた。リフォームして、私たちの部屋を潰し自分たちの空間に塗り変えなければならないくらい、私たちの不在による穴ぼこはきっと、大きかったに違いない。当時私たちはそんなこと、想像もしなかったけれど。でも、今なら。分かる気が、するのだ。
父母と再び交流するようになって、最近では息子を連れてふたりで実家を訪問するけれど、二階には決して行かない。そこはもう、私の入り込む空間ではないからだ。あの家は父母の家であって、二階は父母の空間であって、それ以外の何者でも、ない。少し寂しくないわけじゃぁないけれど。それでいい、と、思っている。

ふと気づくと。搬入設営の日はもう明後日。え、本当に明後日?!と今更だけれど吃驚している。大丈夫か、当日晴れるのか、もし雨嵐になんてなったら、この大量の大型荷物、ひとりで運ぶなんて荒業絶対無理だ。
とりあえず。念のためにテルテル坊主を作っておこう。頼むから明後日は、明後日だけは、晴れてくれ。いや、搬入の時間だけでいい、晴れておくれ。

S先生の対談本を、某県の美術館に寄贈することに決めたのだけれど。郵送料もこちら持ち、とは思わなかった。そういうものなんだろうか、美術館って。ちょっと首を傾げてしまう。正直、気持ちがすっきりしない。


2022年09月26日(月) 
夜になるとぐんと風の温度が下がるのが分かる。涼やかな風が虫の根と共に窓から滑り込んでくる。ほっとする時間。

昔こんなタイトルの詩を書いた。「きんぴらと墜落機と沈没船と 君と私と」。こんな長いタイトルの詩を書いたのはこの時きりだ。でも、書かずにはいられなかった。
何故か今夜は、その詩のことを繰り返し思い出す。

あまり報道されない静岡の有様。どうしてこんなに報道が少ないのだろう? 不思議でならない。それをよしとしているひとたちが多くいるということなのか? 本当にそうなのか? そんな世界なのか、そんな社会なのか、今私の住む国は。場所は。
頭が痛くなる。

後期高齢者である父母が、医療費の負担が大きくなって悩んでいる。ふたりとも病気持ちだ。かといって私に今、彼彼女を援助できるような余力もなく。
近くの大事なひとさえ助けられない自分に、ぎりぎりと唇を噛む夜。



「きんぴらと墜落機と沈没船と 君と私と」


 海の向こう 何処かの街で
 飛行機が落ちたらしい
 テーブル越し テレビが映し出す
 無残な墜落機残骸の映像が
 作りたての食卓に 映り込む

 この同じ空の下 何処かの海で
 客船が沈んだらしい
 先ほどの飛行機事故に続いて滑らかに
 アナウンサーがニュースを読み上げる
 もはや船体の名残さえ
 とどめていない海原を背景に
 中継リポーターが繰り返す、
 乗客名簿に日本人の名前はありません

 日本人の名前はありません
 墜落した飛行機にも 沈没した客船にも
 日本人の名前はありません
 繰り返し繰り返し電波に乗って
 伝えられる音声 テレビという箱の中

 今

 君が きんぴらに箸を伸ばした
 テーブルの中央に置いた小皿の 中

 日本人の名前がなければそれは
 もう遠い知らない国の話で
 日本人の名前がなければそれでもう
 どれほど大勢が死んでゆこうと
 一日に何千も何百も起きる事故の
 所詮は一つにしか過ぎず

 明日になれば忘れてる

 ってか?
 いや、

 聴いている傍から
 鼓膜にひっかかることもなく
 通り抜けてゆくってか?

 君の耳を
 君の鼓膜を

 本当に

 そこに
 君の知る名前はなかったか
 君の愛する誰かの名前はなかったか
 君が憎んで止まない誰かの名前は
 なかったか
 墜落機の乗客の中に
 沈没船の乗客の中に

 本当に
 君の知る誰かの名前が
 君の愛する誰かの名前がなかったか
 いずれ君が
 愛するはずだったろう誰かの名前が
 いずれ君が
 憎むはずだったろう誰かの名前が
 いずれ君が
 出会うはずだったろう誰かの
 名前がそこになかったと
 今誰が 言える

 テレビニュースはもう、とある政治家の
 陳腐な発言を巡る話題へと移行し、
 君はといえばまさに
 テレビの中のアナウンサーよろしく
 私の作ったきんぴらを
 かりかりと 食んでいる
 墜落したという飛行機の残骸も
 船が沈没したという海原も映り込んだ
 きんぴらを
 食む君の唇は今 無言だ

 私は飛べない
 だからもし
 乗っている飛行機が空中で爆発なんかしたら
 飛行機と一緒に空中で分解し
 まっさかさまに海へ墜落するだろう、そして
 何処にでも在る
 海の藻屑と 化すんだろう

 その時

 私の名前は
 君のリストの中にあるだろうか
 こうしてきんぴらを食んでいる最中でも
 せめて顔を上げるくらいの
 位置に私は いるんだろうか
 それとも

 私の作ったきんぴらを食む
 君の唇は今 無言だ


2022年09月24日(土) 
紫陽花の挿枝。何本やったのかもう忘れてしまっているのだけれど、無事育っているのは4本。うち1本はすでにかなり大きい。また、1本はすでに花をつけている。この花が何故か青ではなくピンク色で。あれ?あれれ?となっている。
私が頂戴して挿した枝はすべて青系の花を咲かせていた。白も1本あった。間違いなくピンクの花の枝は選んでいない。徐々にピンク色に花弁を染め始めている子を見つめながら、じっと考える。
要するに土が、我が家の土が、ピンク色を咲かせるのだな、と。そうしてちょっと調べてみたら、イマドキは「青い紫陽花の土」なるものが販売されていることを知る。吃驚した。そんなお手軽にできてしまうものなのか。
そういえば昔々、私が子供の頃、ピンク色の紫陽花の株の下には死体が埋まってる、なんて、まことしやかに云われていた。学校の帰り道に友人と紫陽花の花を見つけては、あそこ怪しくない?なんてふざけて言い合っていたことを思い出す。
残念ながら我家のプランターは死体を埋めるには小さすぎて、要するに埋まっていないのだけれど、それにしてもきれいにピンクになるものだな、と感心している。これはこれで悪くないかも、なんて思うくらい、鮮やかにピンクになり始めている。
しかし、だ。やっぱり私は青系白系が好きなのだ。そしてこの子を私がここに挿したのも、この子が深い青だったからで。
結局、私は通販サイトで「青い紫陽花の土」を購入した。本当なら、あれやこれや試行錯誤して、つまり苦労して、土を作り上げてやるのがいいんじゃないかななんて最初思ったのだが、要らぬ苦労をする必要はないよな、と、ようやっと思えるようになったらしい。ポチって、ちょっとの罪悪感を噛みしめながら、土が届くのを待っている。

それにしても、寝込んで以来、骨盤周りが痛む。身体をどちらかに傾けると途端に激痛が走るという具合。左肩も半端なく凝ってしまって、要するに、痛む。テニスボールでケアは欠かせない。その他、整骨院の先生から習ったストレッチも、せっせと為している。が、全然追いついていかない。痛みが止まらない。
今日ようやく整骨院の日で。「先生ごめんなさいー!」とのっけから頭を下げる。先生がにやりと笑って、どうしたんですかと訊いてくるので、かくかくしかじか、と説明する。そうして始まった今日の施術は、とにかく痛かった。次回はちょっと早めに来てね、それからもし途中で痛みが強くなったら電話ちょうだいね、と約束させられる。軸をいじったから、こちら側が筋肉痛になるかもしれないからね、とも。
この先生でよかった、とつくづく思う。

身体のことなんて。ずっと、どうでもよかった。むしろ、邪魔だった。こんな身体じゃなければ私はずっと生きるのが楽なんじゃないかと思ってるところさえあった。そのくらい、自分の身体が嫌いだった。
十代の中頃、母に「あんたは一体誰に似たんだか」と云われたことがある。母はスレンダーな美人だった。その母から私は産まれた筈なのに、私は骨太で筋肉もしっかりしていて、ようするにガタイがよかった。華奢で女性らしい母とはまったくの正反対のところにいた。正反対という自覚はちゃんとあった。でも、母に身体のことを揶揄されるのは、いつだって辛かった。母の言葉は、どんな時も容赦がなく、まるでアイスピックのように私に突き刺さって来る代物だった。好きでこんなふうになったわけじゃない。母の言葉をぐさぐさと受け止めながらいつも、そう思っていた。こんな身体、嫌いだ、とも。
二十代、被害に遭い、自分の身体は一層汚らわしい代物になった。私の解離が酷いのは、もともと自分の身体に執着がなさすぎるというのも影響してるんじゃないかと思えるくらい、私は自分の肉体という容れ物に嫌悪感以外ない。
でも、この、嫌悪感いっぱいの身体で私は妊娠出産した。切迫流産から始まり前置胎盤、早期陣痛などなど、異常続きの妊娠だったから、四六時中絶対安静で、妊婦を楽しむ隙間なんてこれっぽっちもなかった。こんな身体で新しい命を産んで、本当にいいのだろうか、と何度も思ったことを思い出す。怖かった。とにかく、怖かった。
我武者羅に子育てしてたから、三十代は身体のことなんて振り返る間もなかった。四十代、再婚し妊娠した、そこでようやく、自分の身体の頑丈さに足を止めた。そしてこの頃ようやっと、常に常にあった身体の痛みに、「痛い」とはっきり意思表示できるようになった。ここでSS先生と出会ったことも大きい。私の身体痛を見かねたSS先生が、毎週のように身体背面を中心に何十か所もブロック注射を打ってくれた。ああ、手当してくれるひとがいるのだ、と、その時ようやっと気づいた。テニスボールのケアを教えてくれたのもこのSS先生だ。
身体なんて。
私が自分の身体を好きになれる日は、来ないのかもしれない。でも、最近思うのだ。この頑丈な身体のおかげで、私はここまで生き延びて来れたのかもしれないな、と。好き、にはなれないけれど、この身体をちゃんとケアしてやらねばな、と思うことは、できるようになってきた。この頑丈な身体がなければ、ここまで生き延びて来れなかったかもということは、出会えないままで終わっていたかもしれないひとたちがいっぱいいるのだ、ともいえるわけで。ああ、ありがたいな、と思うのだ。

私たちはつい、心にばかり比重を置きがちだ。でも。その心の叫び痛みは、必ず身体の痛みに繋がっている。身体の異常にまず気づくこと。でも、これに気づくには、気づけるだけの余力がなければならないわけで。要するに、心と身体のバランス、というものが大事なのだ、と。どちらかだけ、じゃだめなのだな、と、知る。


2022年09月21日(水) 
ミントティーという名前の薔薇が大きな蕾をつけた。台風の強風ですでに片面傷だらけになってしまっているけれど、実に美しい色合いの花弁。開くのが楽しみでならない。息子が蒔いたビオラもようやっと芽を出してきた。息子が種を蒔いたら全滅だった去年が懐かしく思い出される。あれは一体何故だったんだろう。いまだに謎のまま。アメリカンブルーも徐々に徐々に花数が多くなっている。灰かび病にやられた今年の春先の有様を思い出しては、もう二度とあんな目に合わせないぞと思う。

昨日観た映画「百花」は、私がついていききれなかったのだろうか、阪神淡路大震災の場面以外、何処か他人事のように見続けてしまった。阪神淡路大震災なのだろうシーンだけ、生々しくあの当日のことがフラッシュバックし、少し心臓が波打った。私の周りに、認知症の存在は義父くらいしかいないせいかもしれない。いや、他にも、原作を読んだだけだったら見ていられたものが、映像になってしまうと何処か遠いというか。たとえば母百合子が子を置いて男と暮らし始める場面、母子家庭であるにも関わらず彼女が飛び出せた、飛び出さずにはいられなかった動機が描ききれていなくて、まったくしっくりこなかった。息子が母の日記を開いた途端嘔吐する場面も、わからなくはないが説得力に欠けた。期待してしまっていた分、残念な映画になってしまったのかもしれない。

真夜中、シャワーを浴びに浴室へ。何となく足元を見、タイルの目地の汚れが目立って見えてしまって、早速掃除を始める。使い終えて貯めておいた歯ブラシで細かく細かく磨いてゆく。それでも落ちないところはバスタブクレンジングを吹き付けて1分放置、その後もう一度磨く。あっという間に汗だくになってゆく。私は一体何をしにここに来たんだっけか、との思いが頭を一瞬過ぎったが、一度始めると或る程度やり終えるまで続けてしまうのが私の性分。せっせと磨く。
そういえば今日は電話が幾つもあった日だった。学校からと麦の会からとそれから父からも電話があった。娘からも。学校の副校長から電話があった時にはぎょっとしたが、話を聞いていてだんだん不愉快になってきたので早々に記憶から抹消することにしてしまった。そういう芸当ができるようになっただけ私も成長したかなあなんて思ってみたり。
風呂場のタイルの目地は、そうして何とか綺麗に磨き終えた。まだやろうと思ったらもっとやれそうな気がするのだが、これ以上やっているときっと朝までコースになりそうな気がするのでやめた。またの機会に。

小松原織香さんの著書「当事者は嘘をつく」で、自助グループについての記述がたくさんある。小松原氏には自助グループが性に合っていたのだろう。それを読んで、自助グループに興味を持った自分だったが、先月末実際に参加してみて、ああ私には無理だ、と悟った。性分ってあるのだな、と痛感した。私には、ああいう「場」は、無理だ、合わない。あれが回復の一助を為したという小松原氏が、少し羨ましくなるくらい、そのくらいに私には合わなかった。恐らくもう二度と参加することはないだろう。

カウンセリングを受け始める頃、私はずいぶん抵抗した。何が分かる、と、ほぼ拒絶、だった。おまえなんかに何が分かるんだ、と。今思い返すとずいぶん身勝手な患者だったと思う。でも。どうして私がこんなもの受けなくちゃならないんだ、という気持ちがあったのだ。
そう、私はこんなもの受けなくたっていい、受ける必要ない、放っておいてくれ!と思っていた。自分の領域に、赤の他人に入り込まれるなんて冗談じゃない、と思っていた。そして心の奥底で、恨んだ。加害者を。加害者たちを。私に一次加害した張本人の加害者だけでなく、セカンドレイプしてきた間接的加害者たちすべてを、恨んだ。あんたたちがいなければ私はこんな、カウンセリングなんて受けなくたって済んだかもしれないのに。どうして私がこんなもの受けなくちゃいけないの、どうして赤の他人に心の領域を明け渡さなきゃならないの、どうして私がこんな目に?!と。半ばそんな、恨みの気持ちがふつふつと湧いた。いまだから、そうだった、といえるけれど、当時はそうだと言う言葉さえ、見つけられなかった。
ようやっとカウンセリングを受け容れられるようになったのは、二人目のあの、O先生のお陰、だ。もしO先生がいなかったら、私はもしかしたら、カウンセリングをいずれ拒絶、拒否、していたかもしれない。
何を書いていたんだか分からなくなってしまった。そう、自助グループの話からカウンセリングの話に繋がったんだった。だから、つまり、私にとって自助グループは、縁がない代物だったということ。ようやっとカウンセリングを受けることを受け容れられるようになってきた私に、自助グループはちょっと、受け容れ難い代物だったということ。そういうこと、だ。


2022年09月19日(月) 
息子とサイクリングがてら娘宅へ。孫娘が出迎えてくれる。長かった髪の毛をぱつんと肩上で切り揃えた様は、とっても似合っていて可愛かった。でも息子にはそれが不思議に映ったらしい。「Rちゃん変だよ、変だよ!」と言い過ぎて孫娘を怒らせてしまう。女心がまったくわかっていない我が息子に苦笑しか出てこない。
孫娘が居る、と言うと「可愛くてしょうがないでしょう!」と必ず言われる。いや、可愛いけれども、もしかしたら君たちの言うそれとは違うかもしれない、といつも思う。
確かに孫娘は可愛い。でも、私は今、現在進行形でまだ子育て中だったりする。だから娘とは今やママ友みたいな間柄だ。仲の良いママ友の子ども、みたいな、そういう位置に、私の孫娘は今居る。
まだうまい言葉が見つからないのだが、だから、何をしても可愛いとか何をしても許せちゃうとか、何を優先しても孫、みたいな、そういう具合にはならない。これがもし私がもう子育てをすっかり終えて、一段落していたならば。また違うのだろうなと思ってみたりもするのだが、現実違うのだからしょうがない。息子のすぐ下の可愛い妹、みたいな。私にとって孫娘は、そういう可愛さ。あくまで娘の子ども、であって、それ以上でも以下でもない。不思議な存在。
たしかに。私は、孫娘の中に娘の面影を見つけては、一瞬ドキドキしたりほっくりしたりしている。もう記憶の彼方に埋もれていた微かな欠片が、そんな時突然見つかったりして、あ、こんな場面あった、こんなシーンがあった、と、懐かしくなる。
しかし、だ。目の前で息子と孫娘が喧嘩をおっぱじめたりすれば、そっちにかまけなければならない現実があり。感傷に浸っている暇も、現実、ない。
なかなか微妙な間柄、である。

台風が来ているという今日は、土砂降りの雨がたびたび襲ってきて、その合間を縫って娘宅を往復した。ゆえに路面がぐしょ濡れで、「マンホール滑るから気を付けて!」「ここ滑るから気を付けて!」と後方の息子に怒鳴りながら走り続けた。でも最後の最後、コンビニに寄ろうという時。その入口にあった網々のところで息子が横滑り。慌てて飛んで行くも膝っ小僧を擦りむいた後で。やっちまったぜ、と思ってももはや後の祭り。
自転車もチェーンが外れてしまっており。慌てて修理。こういう作業に慣れてる自分がちょっと笑えるのだけれども、さささっと直して再出発。その間にも一度スコールの様な雨が通り過ぎていった。日本の雨は一体どうしちゃったんだろう、と最近思う。いや、今日は台風だけれども、そうじゃない、ふだんの雨がおかしい。日本語には雨を形容する言葉がたくさんあるけれども、そのどの雨も当てはまらないような、そう、まさしくスコールのような雨が増えて来た。もう日本の雨らしさ、なんて、どこかに消えていってしまったみたいだ。

最近ふとした時に思う。母は祖母似だと思っていたのだが、違う、祖父似なのかな、と。この間古いアルバムから見つけた母と祖父が並んで写っている写真を見つけて、つくづく思った。じゃあ私も祖父似か? 性格は皆が言うように祖母似なのだろうけれども、顔は母、そして元をたどれば祖父なのか?と。
血のつながりとは不思議だな、と思う。その血のつながりにずいぶん苦しんできたけれど、今もそれがないわけではないけれども。遺伝子の連なりの図を頭に思い浮かべながら、うん、実に不思議だ、としみじみ思う夜。


2022年09月16日(金) 
今日の通院は最悪だった。
カウンセリング中解離しまくってしまい、カウンセラーに「大丈夫? この二回ほどどうもおかしいわよ」と言われる始末。何とか意識を繋ごうと何度も試みたものの、無駄な努力に終わった。せっかくの40分が、ただ流れてしまった。もったいないと思っても後の祭り。どうしようも、ない。
診察時にも、先生から、目が虚ろだわよ、と苦笑され、続いて何か言われたのだが覚えていない。言われた、ということしか思い出せない。もうどうしようも、ない。

帰り道、電車に揺られながら、これ以上ぼんやりしたら私は何処かに消えてしまいそうな気がした。だから必死に本を読んでみた。「本を守ろうとする猫の話」の続き。飛ばし飛ばしにしか読めていないことは分かっていたのだが、ほんのちょっとでも活字から目を離したら、意識もぶっ飛びそうだったので、必死に喰らいつく。
そのお陰か、無事帰宅駅に到着。這いずるように電車から降りる。
太陽の光が眩しくて、一瞬眩暈を覚える。でも、気持ちの良い風が吹いていた。海からの風はちょっとしっとりしていて、でも、軽やかだった。
クリサンセマムとネモフィラたちがもうすでに芽を出している。ビオラはまだだ。ビオラはそういえば息子が蒔いたのだった。トマト以外彼が蒔いたものは何故か芽が出ない。でもトマトは今鬱蒼と茂っている。こんなふうにビオラも茂ってくれるといいのだけれど。まずは芽を出してほしい。
そして夕方、冊子が届く。展示期間中に販売する予定の冊子だ。ちょっと印刷が濃く出過ぎている気がしないでもない。その点は失敗かもしれない。でも、何とか形にすることはできた。それだけでもよしとする。

家人の父、つまり義父の、延命治療を為すかどうかの判断を迫られている。家人と義母が今日話し合った。しない、という判断。
もう水さえも自力で飲めないのだという。身体中に管を通されて、義父は今どんな思いでいるだろう。まだ意識は微かにあるのだという。
あのプライドの高い義父の、心の中を慮ると、何とも言えない気持ちにさせられる。
余命は一か月、長くて二か月、と言い渡されたそうで。
私はぼんやり、その時間を心の中、計ってみる。

義父は。
家人が私と結婚すると言い出した時、探偵を使って私と娘と、そして私の実家等を調査した張本人だ。いや、実際どうだったんだろう、義父が言い出したのか、それとも義母が言い出したのか、今となっては真実は分からない。
どちらにしても。それによって我家と義父義母は決裂した。家人は私との結婚に迷い、私がどちらにしても私は子を産む、認知をしてくれ、と迫ったことも影響したのか何なのか、入籍することに同意し、しばらく実家と疎遠になった。もしあれで息子が無事に産まれなければ、そのままになったかもしれない。
息子が五体満足で産まれたことを知った義母の、掌を返したような態度には、唖然とさせられた。ご苦労様、無事に産んでくれてありがとうねえ! 彼女のその言葉を聞いた時、全身戦慄したのを思い出す。私はあなたのために産んだのではない、と全身が拒絶した。そもそもあなたたちのところに跡取りがいないなんてこと、私には関係がない。
でも。一度こじれた糸は、そう簡単には解けない。義母の、折々に見せる悪意に、私はいつも辟易していた。そうして今や、もう取り繕えない間柄になってしまっている。
できるなら。
義父とはちゃんと話がしたかった。いつかちゃんと。叶わないで終わるのか、と思うと少し物寂しさを覚える。でも、これがひととの縁というものなかもしれない。


2022年09月14日(水) 
朝焼け。鮮やかなピンク色の光が地平線から伸びてきて、ふわあっと雲を照らす。ピンク色に染まった雲たちが一斉に喋り出す。朝だよ、朝だよ、朝だよ。でもそれは本当に一瞬のことで。あっという間にピンク色は雲の薄灰色に呑み込まれてゆく。
その一瞬を確かめて、そうして私の一日が始まる。

昨夜頭が痛い痛いと半泣きになっていた息子は、たっぷり眠ったおかげなのかけろっとしており。そういえば季節になると彼はこうやって、体調を一度崩すんだよなと思い出す。夏の終わり、冬の初め。でも、しっかりたっぷり眠ると彼はたいてい蘇る。彼の身体にとって睡眠がどれほど大事なものなのかを、そのたび思う。私とは異なる身体なのだよなぁと痛感する。いや、私の身体がちょっとおかしいのかもしれないけれども。
毎日、10月初めから始まる個展の準備を為す。汗だくな状態ではパネルは貼れないからその作業は必ず夜中になるのだけれども、それ以外の、たとえば展示順を考えることだったり、細々した文言の修正だったり、あれやこれや結構あるものなのだ。
11月から家人も別の場所で展示を為すのだけれど。展示時期が重なっているせいなのだろうけれど、私は正直集中できない。彼が同じ作業部屋にいるだけでぴりぴりする。だから彼が部屋にいない時を狙って作業を進めようとするのだけれど、彼はそれに気づいているのかいないのか。少なくとも私の展示はもう目前なのだから頼むよ、と心の中文句を言ってみたりして、何とか気持ちのバランスを保ってはいるけれど。ストレス過多。

日曜日だったか。息子とあれこれ種を植えた。息子はビオラ、私はクリサンセマムとネモフィラ。もうすでに今朝、クリサンセマムが芽を出し始めていた。早い。
それにしても雲はもうすっかり秋だ。季節は駆け足。

クロアゲハの幼虫二匹は、すぐ緑色に脱皮してしまった。その一匹が欲しいというMちゃんとその息子さんにプレゼント。だから今うちにいるのは一匹。ちょっとのんびり屋さんのようで、思ったより成長がゆっくりだ。ふぅんと思いながら眺めているのだが、前の子たちみたいにがしがし葉を喰らうところは一度たりとも見られない。ゆっくりゆっくり、休んでは首を廻して、休んでは葉を食んで、といった感じ。虫にもこんなふうに個別に特徴があるのだよなぁと不思議な気持ちで眺める。

駅前の小さな書店で見つけた文庫本。少しずつ読んでいるのだけれど、これは息子に読ませたいなぁと思ってしまう。夏川草介著「本を守ろうとする猫の話」。梨木香歩さんの「裏庭」に通じるものがあるなぁと思いながら、猫と少年のやりとりを眺めている。この本、息子が読めるような、ふりがな付きの本はないのかしらん。
でも。私が彼の年頃、もう、分からない読み仮名は自分で辞書で調べて読書をしていた。今息子は全然辞書を振り向かない。これは何だろう、もう年代の差なのだろうか? 辞書を調べるより先に学校から配られたipadだったりでささっと調べて終わり、だ。いいのか悪いのか、私にはちっとも分からない。
私の本棚には辞書がずらっと並んでいる。広辞苑から辞林、類語辞典、人名辞典、その他諸々。眠れない夜に適当に辞書を開いて、出窓で丸くなって読むのが私は結構好きだった。辞書のそばにはいつも、だから夜があった。息子にとって辞書は、どんな代物なのだろう。面倒臭い、縁遠い代物、なのだろうか。それをもったいないなぁと思うのは、私がもうオバサンだからなのだろうか。ううむ。

冷たい水が飲みたくて、コップに氷を二つ入れてみる。入れた瞬間、氷の溶け出す音があたりに響く。じゅわっ、しゅわわわわ、ぷすっ、つつつつつ。氷が水に馴染むと、その溶け出す音は消えてゆく。一瞬だけの、音。


2022年09月11日(日) 
息子と肉じゃがを作った。息子は台所に立ちたがる。男の子なのにどうしてこんなに立ちたがるのだろうと不思議に思った瞬間、自分の中にそういう差別的な意識が根付いているのだということにぶつかり、げんなり。男の子も女の子も別に関係ないだろうに、と思うのに、かえりみれば自分が付き合ってきた男たちはみな、台所に立ちたがらないひとたちだったということにも気づきさらにげんなり。唯一台所に立つことができた男性は、母子家庭に育った大学時代につきあったひとだったなぁとぼんやり思い出す。
まぁそんなことは置いておいて、息子がせっかく台所に立ってお手伝いに励もうとしているというのに、私はなぜかいらいら。何でもやりっぱなしで平気な彼に、キレかける始末。何やってんだ自分。
でも。息子よ。じゃがいもの皮をピーラーで剥きながら、カウンターの向こうにまで皮を飛ばしても平気、というのはどうかと思う。ワンコがカウンターの向こうで興奮してしまっている。いや、それはいいとしても、すべて剥き終えた後で片付けるということを覚えようよ、君。やったらやりっぱなし、というのは美しくない。
それから、すぐいじけるのもやめようよ。「どうせ僕なんか」という台詞を聞いていると私はさらにいらいらしてくる。昔私もしょっちゅうそう思ったから気持ちが分かってしまう。気持ちが痛いほど分かるのに、いらっとする自分がいる。それは何故か。どうせ僕なんかどうせ私なんかという台詞が産み出すプラスは何もないからだ。いいことがなにもないどころか、悪い「気」を生んでしまう。それは自分自身にもよくない。もちろん周りにもよろしくない。
もし台所にそんなに嬉しそうに立とうとするのなら、すべてを楽しめ。そして美しくやりとげなさい。それが、台所に立つ時のコツです。母は言い切ります。楽しめないなら台所になんて立つな。あと何度も言うけど片付けができないのは言語道断。片付けることができてはじめて、ようやっと料理は完了するのだから。
息子を寝かしつけしばらくしてから、私もちょっと、いやかなり、きつかったよな、と反省する夜更け。手紙でも書こうかしらんとも思う。ちっとも褒めてあげられなかった今日の自分を、ちゃんと謝らないといけない、と思う。そうだ、手紙を書こう。息子へ。

息子を寝かしつけてからは、ひたすら来月初めの個展の準備に明け暮れる。今夜はプリントをひたすら貼りパネにセットする作業。延々とそれを続けていると、時折気持ちがくじけそうになる時がある。私は一体何をしているのか、この作業に終わりはあるのか、等々。思い始めると途方に暮れる。ひとり作業は楽だけれど、時々こういう行き詰まりがある。
思いついてNに電話をする。体調どお?と。6月末に手術をして、夏を越えようとしている。いろいろバランスが崩れ、そして落ち着いてくる頃合い。彼女がこの数か月でぐんと心を成長させたのが手に取るように伝わって来る。受話器越しの彼女の声に、逞しさが加わってきたなと感じ、何だかとても嬉しくなる。「姐さんに一歩また近づいたのかなって思うとすごく元気出るんだよね」と照れ臭そうに笑うN。その声を聴きながら、いやいや励まされるのはこちらの方だよ、と思う。姐さんの28年目にはとてもじゃないが追いつかないけど、だてに私も17年過ごしてないんだなって時々思ったりするんだ、へへへ、とさらに笑いながら言う彼女に、うんうん、と私も頷く。時薬というのは本当に、あるのだと思う。

そういえば、今夕ワンコの散歩に息子と出掛けた時、クロアゲハの幼虫を二匹見つけた。こんな季節に幼虫が、と思って思わず葉っぱをそっと摘む。ビニール袋に入れて持ち帰り、虫籠を用意する。「母ちゃん、もうこの子たちウンチしてる!」と息子が笑っている。クロアゲハ、今度は二匹ともちゃんと、羽化を成功させてやりたい。


2022年09月08日(木) 
お友達が送ってくれたお庭で実った無花果。今回は乾燥プルーンと一緒にワイン煮にすることにしてみる。無花果10個くらいと、乾燥プルーン1袋。砂糖はできれば120gくらい、甘めがよければ150ぐらい、赤ワイン200㏄、水100㏄、それからシナモン2本とクローブ5個くらい。無花果は皮を剥いて、お鍋に入れて、残りの材料も全部一気にお鍋に。そして中火でことこと20分くらい。一度火を止めて味を馴染ませる。10分くらいそのまま置く。そして再び火をつけて、中火で10分くらい。灰汁をこまめにとるのを忘れずに。
これで、スパイシーな無花果とプルーンのワイン煮ができあがる。我家の新しいレシピとしてメモしておく。
しっかり冷やして食べると、たまらなく美味。お友達が育てた無花果と思うとなおさら美味。ありがたや。

Aちゃんに気持ちを打ち明けて以来、ずっと頭の中、ぐるぐる考えている。今後対話についてどう進めたらいいのか。どうするのがベストなのか。ベターなのか。考え続けている。まだうまい答えは出ないけれど。
考えながら、私はどうしたいのかな、と自問自答し続けている。
Aちゃんが指摘してきた点はもう御尤もで、ぐうの音も出ないほどだった。私の弱いところ。ありがたい指摘。そこをクリアにできなければ、どうにもこうにもならないところまで来ているんだな、と。気づかされた。
昨夜、事情をよく知るTさんNさんとも少し話をし、気持ちはその方向に固まった。あとはどう切り出すのか、というところ。

それにしても。一気に夜風が涼しくなった。まだ夕方ワンコと散歩すれば汗だくになってしまうのだけれども、それでも夜は。ぐんと気温が下がるというか、風が冷たくなる。ホットフラッシュに頻繁に襲われる私にとって、このくらいの冷たい風は本当に助かる。

日記を書きながら、一生懸命自分の今日という一日を辿ろうと努めるのだけれど。
ほとんど辿れない。一瞬呆然とし、そして私は淡々とそれを受け止めるのだ。四六時中解離しているという主治医やカウンセラーの指摘は、本当にそうなのだなと思わずにはおれない。そうでしかまだ、私は世界の中にいられないのだな、と。
24時間365日、警報が鳴り響いている、そんな私の心の中。それを抱えてこの世界の中に立っている。私の裡側では常に常に、サイレンが鳴り響く。もはやそのサイレンがない状態が考えられないほど。
世界はそこまで危険じゃないよ、と、ふと我に返った時思うのだが、あの時書き換えられてしまった私の脳味噌は、いまだ納得してくれない。
辛抱強く、付き合ってゆくほか、ないんだろう。PTSDの怖いところは、トラウマ云々だけじゃぁない。こうやってそれまで生きて来た地盤が崩壊するところもだと、つくづく思う。


2022年09月07日(水) 
私はまだこの世界に未練があるのだろうか。
ない、といえばない。もう十分に生きた気がする。すでにもう余生に入っている気さえする最近、とみにこのことを思う。
そして、「私は生かされているのだな」ということを思う。

 「生きている間によく生きろ」(アパッチ族の格言)

※扶桑社文庫「アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉」より引用

この言葉をあるひとたちに伝えたら、何人かの方から「格言的なアレですか、歴史に名を刻め的な」と言われた。あらまぁずいぶんひねくれた受け止め方をする人たちなのだなと思った。そんなこと誰も何も何処にも書いてないし言ってないのに。よほど卑屈になっているのだろうかと思わずにはおれなかった。
私には、そうは聴こえない。存分に生きろ、生きている間に十分に生きろ、とただまっすぐにそう言われているように聴こえるだけだ。
あなたがたは一瞬でも、存分に十分に生きたことがあるか? 私は心の中、そう問いかけたかった。

存分に十分に今この瞬間を生き切ることは、簡単ではない。今この一瞬を生き切る。それはとても難しい。悔いなく「今ここ」を呼吸すること。あなたは本当にそういう生き方を一瞬一瞬できているのか?

顧みると、自分はいつも生に関して綱渡りだった。生きるか死ぬか、そういうところで生きて来た。そういうところでしか生きてこれなかった。いつだって。今ここを生き切ったらもう死んでもいい、そういうぎりぎりのところで、いろんなものやひとと向き合ってきた。
ここを抜けたら私はもう死んでもいい、だからあと一歩踏ん張れ、頑張れ、あともうちょっと、ここを生き切るまで。と、いつも自分を鼓舞していた。
そういうのが薄れてきたのはいつ頃からだったろう。
再婚して息子を産んで、娘が巣立って…。気づいたら、ああもう十分生きたなあと思うことが増えた。そういう瞬間が増えた。もし眠って、そして明日死んでいても、私は笑えるかな、後悔しないかな、何だかしなさそうだな、と思うことが増えた。
そうしたら、ああ私は今、おまけを生きているのかもしれないと思えたりした。神様に「おまけあげるから、この世界もうちょっと眺めてみたら?」と、おまけを与えられたような。そう、だからさっき、「余生」なんて言葉を使った。だって、まさにそうじゃないか。余生を与えられて、そして、いろんなひとやものに生かされて今、ここにいる。
余生がどこまで連なっているのか私には今のところ分からないのだけれど、欲がなくなるといつ死んでもよいということになってしまうので、あれこれ欲を掻き立ててみる。たとえばこの種を秋に蒔いたら花が咲くのは春。その春を楽しみにもうちょっと生きてみようかな、とか。たとえば編み物。このレース編みを編み上げるまで、もうちょっと生きてみようかな、とか。たとえば本。この本を読み終えるまでは、とりあえず生きてみようかな、とか。そういう欲を幾つも連ねて、今、生きて在る。

生きるか死ぬか、の闘いの日々が少しずつ遠くになってゆく、生かされている余生の日々。
だからこそ、どうその時間を使うのか、を考える。
ぐるぐる、ぐるぐる。考える。


2022年09月06日(火) 
今朝の日の出は実に劇的だった。思わず息子を呼んでしまうくらいに、美しく劇的だった。
重たい雨雲が天空をずっしりと覆っていた。でも地平線は雲が割れていて、だから朝焼けがくっきりと見て取れた。今朝も写真を撮ろうとベランダに出てシャッターを切って、そうして部屋に戻った途端。
雨がざあっと降って来たのだ。
太陽が地平線の雲の割れ目からくっきりと見てとれている。その太陽が雨筋をきらきらと照らす。黄金色の雨がそこにあった。
ああこんな美しい光景が世界にはまだあるのだなぁと思った。私がまだまだ知らない、出会っていない世界の姿。

K先生に手紙を書いたり、友人にブレスを編んだり。同時に、搬入迄一か月を切った個展の準備に追われたり。正直あまり余裕がなかった。一度立ち止まったらばたんといきそうな気配も微妙にあって、だから、ただただ目の前に現れる事たちを片っ端から片づけていた、そんな日々だった。
当然日記を書く余力もなく。次から次に私は忘れていった。だから、書けること、今ぱっと思い出せることといったら、先に書いたことたちくらいの程度だ。

昔。まだ解離がそこまで酷くなかった頃。
私は「忘れる」ことができなくて、苦しんでいた。こんな些細なことと他人が思うことたちにまで、片っ端から過敏に反応し、足掻いていた。「忘れる」ことができたらいいのに、と真剣に思い悩むくらい、私は何もかもに反応し、記憶し、もう背負いきれなくなっていた。
その時思ったものだ。「忘れる」というのは人間に与えられた、生き延びるために必要な才能のひとつに違いない、と。
解離が徐々に徐々に酷くなり、気づけば解離性健忘が顕著になり。そうして私は今度、正反対の、「覚えている」ことができない状態になってしまった。次から次に忘れてしまう、失ってしまう。足元が不安定極まりない、ふわふわしたような状態。
私にはもう、「今ここ」しかなくなってしまった。

この両極をそれぞれに味わってみて、思う。何事も「適度」って大事なんだな、と。適度に忘れ、適度に覚えている。この絶妙なバランスが、生きてゆくうえでとても大事なのだな、と。
そういえば珈琲も紅茶も。ミルクを入れ過ぎれば珈琲の味が台無しになるし、砂糖を入れ過ぎればそれはそれで別の飲み物のようになってしまうし。ここでも、「適度」が、美味しくいただくポイントだったりして。
「適度」って、生きていくうえでとても大切なポイント。


浅岡忍 HOMEMAIL

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