2024年04月27日(土) |
sunday walk |
父が生きてきたら53歳になっていた日。
朝起きて、お風呂に入り、ゴンチチのラジオを聴く。土曜日の朝に聞くこのラジオを浴室で聞く時間の幸せなことよ。 世間はゴールデンウィークに突入しているなか、昼間に出社して、そのまま夜までパソコンに向かっていた。焦らなくてもいいのに焦って力んで、そして結局あんまり何も進まず疲労だけがたまり、目はしょぼくれて、何のために何をしているのだかがわからなくなってくる。
8時になって仕事場をあとにして、へとへとになっても行きたい場所にいった。つかれているからこそ行きたい場所だから、わたしにとっては癒しとリラックスの場所で、なくなったら生きていかれないのではないかと思う。またもや歌舞伎町だが、このなかにぽつりと、その喧騒から遮断された場所がある。
そのお店に行く前に、あまりにもつかれていて甘いものを食べたくなり、丈の短いスカートを履いて看板を持つ少女たちの中に紛れてバナナチョコクレープを食らって、カオスな歌舞伎町でなにがおかしいのかゲラゲラ笑う若者たちをひとりながめていた。30秒もしないうちにクレープを平らて、Nへと向かう。カウンターにすわって、ふたたびカフェソーダを注文。ここでしか飲めないアイスコーヒーの炭酸を無性に飲みたかった。
だいぶエネルギーチャージが完了して、タバコを吸って、目を瞑ってレコードの音に耳を傾けていると、もう疲れはどこかに消えていて、ここで音楽を聴いている事実だけが全てになっていく。背負っていたものがいったいなんだったのかを一瞬にして忘れることができる。
隣に座っていたフランス人の男性がいろいろなジャズの店を教えてくれて、どうやらわたしの暮らす街にもいい店があるらしかった。でもなんでだか、もうほかの店に行くぐらいならば、この店に通い続けたい。
この間ここで寺山修司の話をしたばかりだったが、その男性もまた寺山修司の話を出してきて、さらにはフランスで彼の本を出版していたらしい。 この間教えてもらったばかりの薔薇門の話を出すと、やはりもちろん知っていた。 なぜこんなに日本の文化に詳しいのか、趣味になると人は貪欲になるのだろうか。
ビリーホリデイが流れる。
閉店の時間が近づいて、お客さんが全員帰った後で、YさんがイーグルスのHotel Californiaをおもむろに流してくれたので、耳を傾ける。何度もきいたことがあるけれど、このスピーカーのもとで聴くと体全体に音が浸透して、皮膚を通過して心がゆれる。 ライブバージョンだったこともあって、余計に感動してしまった。 最後に流れたのはDesperado。
二曲とも歌詞が微妙なのよ。 言葉を読むだけだとそのニュアンスは伝わらないから話そうと思ったけど、もう終わりの時間だからまた今度。
とのことで、この二曲の歌詞を調べて、改めて曲を聴き、なにがどう微妙なのかを調べる宿題をしなくちゃいけない。
今日も一日を生き切れて、ほんとうによかった。
卑屈になったり、窮屈に物事を考えたりしないこと。どうして気を抜くといつも、事を深刻に捉えてしまうんだろう? 帰り道にこんなに幸せで軽い気分なのに。 常にこの気分でいようよ、と自分に言いたい。
2024年04月24日(水) |
2024年4月25日 |
朝6時に起きて、洗濯機の上においたパソコンに向かう。 9時ぐらいまで仕事をして、10時ぐらいに風呂に入り、 12時ごろからまた仕事を再開し、6時には目が真っ赤に充血していた。
歌舞伎町のNへと向かう。 雨が降っていたし、体も疲れきっていたけれど、だからこそ安息な場所が必要。 カウンター席に座るとひさしぶりにNさんが座って、顔を真っ赤にしてタバコを吸っていた。 お久しぶりです、とあいさつをかわす。
それからNさんに 川崎長太郎の話から、果てはおかまのカリスマの話まで たくさんの話を聞いて、わたしは今日もまた勉強をさせてもらった。
NさんとYさんの歌う可愛いすーちゃん。 その歌詞の哀しさ。
「車が通るための道」 Nさんはその言葉の意味をよく考えたほうがいいと言った。 道は、車が通るためだけの道だろうか。 道はだれのための道でもないのに規制がある。 規制があるからこそ、道を通る者に意味が生まれる。
Yさんにトーストを焼いてもらって、 ファミチキを半分分けてもらいながらレコードに耳を傾けて、 坂本九の話で盛り上がる。
見上げてごらん夜の星を この曲をふと聞いて涙が出た。 坂本九が歌うから涙が出たのだろう。
長い1日が終わる。 それにしてもわたしは、ずいぶんとじぶんに酔った日記を書いていたのね。 なんだかぜんぶが他人の作り話にも見えるし、ものすごく自分が見つめたくない部分の自我を受け入れざるを得ない。 歳を重ねて軽くなっていくと、いろいろなことを忘れていく。 積極的に忘れて、もう未来だけしか見たくないな。
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