昼食に誰かを待つ日は

2020年08月27日(木) 銭湯



今日は思い切り何もしなかった。それで呼吸を整えられたと思う。夜ようやく涼しくなった頃を見計らって銭湯に出向いた。熱い湯に10分も浸かっていられなかったけれども心身ともに健康になった気がする。

何もしないでいると、自分の中に余白、幅のようなものが生まれる。それがないと自分にいっぱいいっぱいになって呼吸困難に陥るだろう。幅がある人でいたいと思うのだけど。できるかな。



2020年08月24日(月) 小さい頃は神様がいて



子どもっぽいまま大人になるのはいけないことでしょうか?
無垢な童心を忘れてしまったら、無邪気に全力で楽しむことができなくなってしまうじゃない。
それは、色あせてものが見えてしまうから嫌。

私が子どもっぽいことで、恋人にそっぽを向かれたようだ。それはそれまで。私はこのままでいます。
私は彼を通して社会の疲弊、あらゆる疲弊を受けるのが嫌。まっさらな人と一緒に楽しみたいし、自分はそうでいたい。

それだけ、ああすっきり。ユーミンの、優しさに包まれたならを歌う。



2020年08月22日(土) 幸福な映画

土曜日。恋人は今日ひとりで金沢に行ってしまった。どうして誘ってくれなかったのだろう、と泣いた昨晩。トイレで、台所で、マットレスの上で、椅子の上で、場所を変えてはさめざめ泣いた。この二週間は彼の様子はおかしくて、黄泉の国へ行きかけたとか、BADに入って戻ってこれなくなりそうだとか、そんな報告ばかりが来ていた。そこから這い出るための手段として、ひとりでどこかへ出かけたかったのだろう。ここはぐっと堪えるところだと、さっさと眠って、そして今日を迎えた。気持ちは落ち着いていた。ウエルベックの「プラットフォーム」を読み終えてしまったので、買ったまま放置していたジュルジュ・バタイユの「青空」を読み始める。アル中、放蕩、孤独、死。舞台はイギリス。テムズ河の黒々とした奔流に沿うように、酒、女、男の苦悩がつらつらと描かれる。男って、なんだか生きにくそう。と最近よく思う。女よりうんと、厄介だ。女は落ち込むことは落ち込むけれど、切り替えが早い。私もそうだ。でもなんだか男の人は、病んでいる自分から逃れるための手段として酒や女やセックスを選んだとしても、結局それが己を苦しめ、己に閉じ込められ、ますますひどくなっていく。女でよかった、と思う一方で、そのような人間らしさを抱えた男のことも愛おしくてたまらないという気持ちも、ある。そんなこんなで本を読んで、夕方ごろ有楽町に出向いて映画館に行き、「海の上のピアニスト」と「真夏の夜のジャズ」の2本を立て続けに見て、どちらも音楽が素晴らしく、胸いっぱいお腹いっぱいの状態。映画館で観るべき映画というのがあるけれど、紛れもなく、この2本は映画館で観るべき映画だった。これだけでいいんだよ……という目一杯の気持ちが広がり、あらゆる悩みや不安が彼方に消えていった。そんな単純な自分に度々救われる。

あの町には、終わりがあるのかい? 終わりが見えない場所で、どうやって生きていったらいいんだ。

船の中でしか暮らしたことのない1900が、初めて船から降りることを決意し、船と地上を結ぶ階段を降りている途中、ピタッと足が止まる。広大な街が1900の前に映る。彼は長いこと立ち止まって、それから何かを決意したかのようにかぶっていた帽子を海に投げ捨て、階段を上って船に戻る。
彼には「見えないもの」がみえてしまった。
見えないもの、とは果てしなく広がる街の、終わり。終わりが見えないということが、はっきり見えてしまった。

限られた場所でしか生きられない彼は「船の上のピアニスト」としての宿命を背負っていたのだろうが、それは非常にシンプルなことのようにも思える。この世には選択肢があまりにも多く、選ぶ行為にほとほと疲れることがある。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるが、同じ場所でずっと根を生やし続けること、花を咲かせることさえ難しい世の中だ。でも私は改めて「選択肢の多さ」が自分にとってストレスである事を再確認できた。ということで、当面はシンプルに生きていこうと決意し、そのことでだいぶ心が軽くなった。

真夏の夜のジャズでは、観客たちがダンスをしながら、キスをしながら、お酒を飲みながら、タバコを吸いながら、各々幸福に満ちた表情で演奏に聴き入っていた。あの場にいられたら、翌日死んでも何も後悔などないだろう。今日は本来ならフジロックにいたのかもしれない。体で音楽を感じるというのは、生きるための原動力になる。だから、絶対に必要なのだ。翌日死んでもいいと思えるのだから。こもった生活に慣れることに抵抗したい。慣れたら楽で、慣れることが進化につながるのかもしれないが、それはロボットに任せて、私たちはもっと楽しむ必要がある。快楽が必要だ。ウエルベックの小説にもあるが、いろんな理由をつけて自分たちを閉じ込めようとしているうちに、快楽までのシンプルな道筋さえ複雑に考え始める。もっと動物的になる必要がある。
頭でっかちになっていた。そうだ、ぼんやりとただ生きている人間、そこに音があれば踊るし、うまいものがあれば美味しいと言って食べ、眠くなったらとことん眠る単純な人間になろう。健全の意味を間違えてはいけない。



2020年08月20日(木) 衝突と無為



非常に残念でした、というメールの文面。良かれと思ってしたことは、相手にとってそうではない。1つのものを作って大勢の前に差し出さなければならないものだからむずかしい。私はあくまで俯瞰的に、客観的にそれを見て意見を言う立場だ。けれど相手を残念がらせてしまうのは、とても悲しい。言い訳じみたことを言っても無駄で、申し訳ありませんと謝ることしかできない。この仕事をして、何度ひとに謝ったろう。傷つける気があって行ったことなど1度もないが、相手にそう解釈されてしまう場面がこれまでに何度もあった。そういうものなのかもしれないが、メールの文面にて相手の感情が浮き出ているとき、喉や胸の奥になにかがつかえたようになる。


午前中は一度胸がつかえて、同僚の人らが入れてくれた美味しいお茶をひとり別の部屋で飲んだ。あまり落ち着かなかった。しょうがないし、仕方がないと、続けて仕事をする。進むたびに衝突が起こる。進まないと何も起こらず平穏でいられるけれど、時間がただ無為に過ぎていくだけで、むしろ不安になってくる。衝突が起きたということは、どんなに小さくであれ物事が前に向かって進行している証拠。仕事となると、いやでもポジティブな思考に切り替わる。そうでなきゃ、とてもやっていられないからだ。


部屋に帰ってきて、現実から逃げ出す手段の読書タイムに入る。1日の唯一の楽しみだ。ここではない場所に行くことができる。カーメンマクレエのレコードがずっとまわり続けている。桃の缶詰を皿に移してつつく。誰もいない。Iからまた音沙汰がなくなった。元気でいてくれればそれでいい。私があって元気づけてあげる、などと傲慢なことはもう言えない。誘い出した先で疲れさせてしまいそうだから。ひとりで立ち上がれる人だろう。私もそうだ。では互いを支え合うとはどういうことなのだろう。衝突がないまま進むこと、毎日が無為に過ぎていくこと。それらを一緒に認め合いながら、時間だけが進行していくことを無為と呼ぶんではないだろうか。人を通して虚無を知ることもあるのだと、おもう。そんなことは望んでいないのに。






2020年08月18日(火) ループ

帰宅後速攻冷房をつけて、アイスコーヒーを飲み、シャワーを浴びて、缶詰の桃を突っついて、狭い部屋の片隅によって本を読む時間のために8時間も労働をしている。そしてこれだけでいい。いま読んでいる本のページを開けばタイに行くことができる。現実は阿佐ヶ谷の木造アパート(隣人の声すらまる聞こえの)だが、ページを開けば私はもうひとつの世界に入り込んでいる。「読書のない人生は危険だ。人生だけで満足しなくてはならなくなる。」という心情を本の主人公も抱えている。主人公も本のなかに身を委ねていて、その主人公の読んでいるアガサクリスティの文章にも入り込ませてもらった。彼自身の話が物語であるのに、この本の主人公は「人生の大半の場面において、僕はほとんど真空掃除機なみに空っぽ」であるらしい。あなたの物語を読んでいるわたしもまたそんな風な境地ですが、少なくともいまはこの本のおかげでアバンチュールできている。

さいきんはレコードをかけっぱなしにしているが、違うものに取り替えるのが面倒なので、曲が終わるたびにA面をB面にし、B面をA面にするという作業を繰り返している。本を読んでいるときのためのBGMだから、邪魔にならないように無難なジャズ。レコード屋で500円くらいで買ったもので、セクシーなお姉さん(こんがり焼けた肌に白いTシャツ1枚だけをサラリと着こなし腿や胸がいい具合に露出し、伏し目がちな目で口元に微笑という姿でソファに腰掛けている姿)がジャケットに写ってついつい買っちゃったもの。2時間くらい流し続けたところで、本の1章が終わった。ということはもうタイにいることはできなくなった。そこで本を閉じ、レコードをユーミンのヒコーキ雲に変えて、この日記を書き始めたところ。でももう眠い。ひこうき雲は、夜に聴くものではないな。


明日はきっと忙しい日になるのだろうが、忙しくなりそうだからこそぼうっとしなければ。今詰めすぎるとミスをする。ミスをするといろんなことが厄介になってますます面倒なことになる。そういう風な力の抜き方というものが、この数年で身についてきたような気がする。力の抜きどころと入れどころ、その加減を自分で調整できるようになれるとだいぶ楽だ。
真空掃除機なみに空っぽ、になるとよく眠れるだろうか。よく眠りたい。



2020年08月14日(金) ネックレス

暑い。何もやる気がせず仕事を休み、本を読んで昼寝をしていたら、あっという間に日が暮れてしまった。
水のなかに飛び込みたい、プールに行きたい。泳げないけど。先週は海に足を浸し、海を見ながら露店風呂に浸かり、身体が水と一体になっているようで気持ちが良かった。一番気持ちがいいのは、自分が薄れかけているときだ。自我が果てしなく小さくなるとき。意識から解放されて気持ちがいい。自分を下ろしに行きたいから水にたどり着きたい。

知らない間に気がついたら10年後になっているんだろう。どうせ10年後は訪れるのだから、今バタバタしても何も仕方がないじゃないかという気がし、またすべては思い出になるのだとしたら、目の前の課題すらも愛おしく思えてきたのだった。回想する時が必ず訪れるのだから。そしてほとんどは、忘れてしまっているのだから。ぼうっと生きていても、自我を持たなくても、結局は線の先の先にいる。そう考えると楽になる。

今朝、注文していた華奢なネックレスが届いた。とても細いけれど、光の加減でキラキラ光る。ほとんどアクセサリーを付けないけれど、つけると気分が上がる。リングもしたい。でも、欲張りすぎると疲れるからこれくらいでちょうどいい。明日も暑いんだろう。プールに行きたい。コロナのことはあまりに気にしていない。



2020年08月07日(金) はしゃぎたい、

猛暑。朝4時すぎに目覚めて空を見ると、ちょうどぼんやりとした月が見えた。それはホットケーキに似ていて、お腹が空いた。はっきりしない頭で、月がホットケーキに見えて、お腹がすく。いつでもこんな風で入られたらとても楽なのに、と思う。

海辺の喫茶店に行きたくて、そして海辺に建つホテルにも行きたくて、こんな時期だけれどもいろいろ調べていたら、いい場所があった。私は先のスケジュールを決めたり、埋めたりすることが苦手だから、思い立ってその翌日に出発するくらいの勢いがちょうどいい。(そんなことは滅多にないが)いけたらいいな。

今日は部屋のなかで仕事をしている。多分。外が暑くて出かける気にならない。ちょっと部屋を掃除した。それからシャワーを浴びて、今現在抱えている仕事の諸々を思い出し、どうにかこうにかなんとかなりますようにと祈って、そのあとでは「はしゃぎたい」と思った。だって夏なんだもの。はしゃぎたいときに制限があるのは残念だ。悲しくなってくる。

けれど、シャワーから上がって、冷房が冷えた部屋で、氷を入れたアイスコーヒーを飲んで、キリンジを聞いていたら、ああもうこれだけでいいかもしれない、という気にもなった。みんな、この夏をどう過ごすのだろう。


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左岸 [MAIL]