昼食に誰かを待つ日は

2020年05月21日(木) 出されない手紙

仕事でひさしぶりに心の野獣を引っ張り出されてしまった。朝は仏陀の愉快に生きるための本を読んで煩悩とおさらばしようと試みていたにもかかわらず。
ポルトガルのギャラリーとやっかいなことになっているが、どうにか無事年内に本を刊行できればそれに越したことはない。折れるところでは折れて、それ以外のところで妥協する必要はない。脅しにも思える英語でのメール。どうにかこうにか無事に終えられますようにと今願う。

返事のまったくないIに向けて手紙を書いた。A4の味気ない真っ白な紙3枚分に灰色のインクで文字を書き込む。そして、この手紙は出さない。出さない手紙だけがこうして溜まっていく。出されない手紙はなんのために存在しているんだろう。話したいことがある分手紙にそれを書く。けれども渡す、届けるということは為されない。わたしの弱さ。わたしがここで手紙を書いたところで、それは一種の自己治癒で相手にはなんの影響も及ぼさなければ伝わることもない。そんな勝手な人間であるから、今見放されているんだろう。昨晩も夢の中に彼が現れた。そうして街が焼ける夢も見た。

今がなんの時間なのかがわからない。待たされているのか、待っているのか、終わっているのか、それともまったくなんの意味もない空白の時間なのか。部屋の中の時計がずっと止まっているからだろうか。着実に1秒1秒が過ぎていくという感覚が持てない。生きているんだろうか。自分を影のように感じる。時計を買い替えないといけないです。



2020年05月17日(日)

昨晩、とある真理に至ったことでよく眠ることができた。信じられないくらいによく眠れた。その前から襲われていた異常な眠気は、この日のために蓄えられていたのかという程よく眠り、なぜかいるかの大群と一緒に泳ぐ夢まで見る始末だった。私は本来金槌で泳げないのだが、夢の中では悠々と、無数のイルカと共に泳いでいた。気持ちの良い夢ではあったが、夢の中の私は怯えていた。その大群は確かにイルカではあったが、姿が黒いものも混ざり、飲み込まれてしまったら最後戻れないという気がしていたらしい。それなのに泳ぎを止めることはできず、自分の意思に反してただ放り込まれた海の中を駆け巡るようにして泳いでいたのだった。

あの真理にたどり着いたとき、自分を内省することをやめようと思えた。それよりもまず考えなければならないのは外側の関係性についてだった。私が何を思い、何を発したところで、今は意味が何もない。意味がないことに時間を費やしすぎていたことに気がついて、私は自分自身のことを考えることを放棄した。それでいくらか気が楽になった。その答え(というのが正しいのかはわからない)を、今恋人と呼べるのかも曖昧な、Iに深夜メッセージで報告をした。案の定、何の返信もなかったわけだが、彼にはきっと通じる話だと思った。というより、彼以外にこんなことを話せる人はいなかった。あの人は今、何を考えているのだろう、と今ここでまた答えにならないことを考えることをやめようと思ったのに、それでもやはり気になってしまう。どうして彼は沈黙し続けているのだろうか。でももう私は、何の期待もしない。動かない。考えない。私たちの間にある「糸」がどれだけの強度を持っているのか、もろくもそれが途切れてしまうのかは、今はわからない。もしかすると、もうとっくにその糸は切れてしまっているのかもしれない。でもそれを繋ぎ止めようとすることは私にはできない。だから、もう考えないのです。存在しているその糸の行方を、遠い眼差しで見守ること。それは相手がIだけにはとどまらず、私が出会い、また近くにいる人すべてに通じている話。

今日はカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読み終えた。記憶を曖昧にさせる霧の存在。良いことも悪いことも含めて記憶が薄れていくこと。取り戻したい記憶というのはどれほどあるだろう。良い記憶以上に、悪い記憶のほうが多いこともある。私はなるべく忘れていきたい。忘れられないと、蓄積された記憶に押しつぶされて現実が見えなくなりそうだから。そして現に、驚くほどたくさんのことを忘れている。思い出したいのにおぼろげなことがたくさんあって、時々そのことについて虚しさを覚える。どうして覚えていられなかったのか。だからこうして日記を書いているのかもしれない。


私が覚えていなかったら、あの人のことをを、誰が今後思い出せるというのだろう?
私が死ぬと同時に、あの人を知る人もこの世から葬り去られる。
記憶を抱くというのは重大なんです。

忘れたい、忘れたくない、忘れてほしい、忘れてほしくない。思い出は甘いものだけではない。酸いも甘いも含む思い出とやらに飲み込まれていたくはない。

忘れたい、忘れたくない、という話を、いつかの秋にIと電話で話したことがある。私はすべてを忘れたいと言って、彼はすべてを覚えていたいと確か言っていた。けれども、私たちはちゃんと、あらゆることを忘れていますよ。だって、あの時のあの空気も、あの時のあの感触も、覚えていればこんなことにはなっていない。過去と現在は別個。あなたは確かにあなただけれど、それは過去のあなた。あなたが好きだった私も、今では別の私になっているのかもしれない。そういう微妙な変化のなかでも、一緒に手を取り合っていけたらどれだけよかったろう。そんなことができたのかしら。

またこうして答えのないことを考え始める。もうやめたんです。放棄したいのです。
今日もよく眠れますように。



2020年05月15日(金) 眠気


今週は風のように速かった。ジジの火葬がうんと遠いようにも思われるし、その前に電話で亡くなっことを告げられたのが昨日のようにも思われるし、合間に仕事をしていたけれど記憶は薄い。そんなこんなで、あっという間に週末を迎えた。Iからはもう何の連絡も来なくなって、昨日は嫌な夢を見た。結婚式に呼ばれて出向くと、彼が違う女性と結ばれていたのがわかって、何も知らされなかった私は発狂して泣き叫び、友人に抱えられて退場。こんな夢を見るくらいには、精神的にやられているらしかった。もう、なんでもいい。私の中ではもう、関係は終わったのだ、ということでようやく腑に落ちた。これから着々と平気になってしまうだろう。

さっき、数年ぶりに友人から連絡が来た。この数日、片手に収まるくらいの人としか連絡を取り合っていなくて友達の少なさが露骨にあらわれていたけれど、オンラインで大多数の人間とテレビ越しで話をするよりは、久しぶりの友人とポツリポツリと近況を報告し合うことのほうが性にあっている。

ところでこの数日間は異常な眠気に襲われている。どうしてこんなに眠いのだろう。それなのに、眠りにつくと眠った気はまるでしない。おまけに嫌な夢も見る。今日こそは安らかな夢を見たい。髪の毛がとても伸びた。



2020年05月10日(日) ジジの部屋


ジジが亡くなった。昨日死に顔を眺める。眠っているように見えたけれど息はしていなかった。ひとりぼっちで部屋のなかで亡くなっていたそうだ。その前にはコンビニでお金を払わずジュースを飲んでしまって、警察にお世話になったらしい。今日部屋に入ると、台所や寝床が荒れていて、物が散乱していた。こんな中でひとり息を引き取ったと考えると切なくて仕方がない。でも、みんなでジジの部屋を整理することができてよかった。ジジの記憶は少ししかないけれど、車でよくアクアラインに連れて行ってくれた。部屋のなかからは私の写真も出てきた。ジジ、安らかに、ゆっくりと眠ってね。

実家から帰ってきて部屋のなかにひとりになると、急に悲しみが襲ってくる。人がいるって、やっぱり心強いことなんだなあ。



2020年05月06日(水)

何もしないでいられた日々が終わってしまう。こんなにもひとりで何もせずにいられた贅沢な時間はなかなかない。そうしてこのうちの大半は寂しさで出来上がっている。昼過ぎに恋人に電話をかけた。彼はパスタを作っているようで、電話越しに麺を茹でる音や食器が擦れ合う音がした。肝心の彼の声はまったく聞こえなかった。しゃべっていなかったから。二言三言の会話の後、「疲れた」と彼が言った。「私にだよね」というと、「うん」と。そうして沈黙ののち、「わかった。ごめんね」と言って電話を切った。きっともう終わりなのだろう。しばらくはぼんやりしていた。誰かを疲れさせてしまうことが一番嫌だった。どういう方法で、私は彼を疲れさせていたのだろう。それがあまりわからなかった。となると、私という存在がもはや疲れの対象なのだろうと思い、ますます落ち込んだ。開き直ってみようと、本を読んだり、音楽を聴いたりして気を紛らわせていたけれど、そんなことをしても何にもならかなかった。彼が年末私に書いてくれた手紙の中に書かれていたことは、何一つ達成させられないのだと悟った。当時手紙を書いてくれた彼と、今の彼は、もう変わってしまったのだろう。この手紙にはもう何の力もない。書かれていることは幻想でしかない。震える文字で書かれていたというのに。

部屋のなかでぼうっと過ごしているうちに、大雨が降り出した。ピカッと白く外が光ったかと思うと、ものすごい轟音が響いて体が縮こまった。すこしだけ開けていた窓から、容赦なく白い光が入ってきたほどで、部屋の中に流していた音も消えた。すぐ近くに雷が落ちたらしかった。昨日は深夜に突然携帯で地震のアラームが鳴り、今日は雷の音で震え上がり、どうしてこんなにも脅かされなくてはならないんだろう。怖いね、大丈夫?と言えるような人もいなかった。雷がこの部屋に落ちて焼けてしまっても、人に気がつかれないだろう。


ジメジメとしている。明日はからりと晴れるそうだ。仕事があるというのはまだ恵まれているのかもしれないが、もうとうに何かが遠のいている。このところは現実の世界に身を置いていなかったから。想像のなかだけが救いだった。そこでは私は私としていられたし、たくさんの人がいた。現実に戻ると、話し相手は本当に誰もいないのだった。でもこうしてひとりでいるのが、実はいちばん自分にしっくりきているのだということ。本と音楽、書くものさえあればいい。それから小さな部屋。日記であれ何であれ、何かを書き付けていなければ保てなくなってきた。人といると、満たされていると、書く必要などない。だから満ち足りるのは怖い。何かが欠けていないと、自分を見失う。これまでもそうだった。満ち足りることなど、人生の中ではほとんどない。大半が欠けている。その欠けた部分をうんと見つめていきたい。

彼は私から離れていくだろうか。彼がいなくなったら、楽しいことが減る。それは素直に悲しい。



2020年05月05日(火) 10時49分

何もする必要がなかったゴールデンウィークの夜。いくら寝付けなくてもうなされても寒がっても、翌日何の支障もなかった夜も今日で終わり。だから今日もきっと朝方4時ごろまで目を覚ましているのだろう。眠らないわけではなくて眠れなかった。そして必ず体は冷え、同時に空の色が群青色に変わる。不安と安らぎが同時に訪れる朝4時の冷たい空気は、何の匂いもない。無駄なものが何もない。ただ日が始まる前の、静けさだけがある。
部屋の時計が壊れて動かなくなっていた。時計は10時50分の手前で停止したままだった。それなのに、さっき時計を見ると0時近くにまで針が動いている。どうしたんだろう、直ったんだろうかと針の時計を現在(その時は9時過ぎだった)に戻して、そしてさっき再び時計を見ると10時50分の手前で止まっていた。どうしてこの時刻にわざわざ止まるのか。そしてなぜ動いたのか。いろいろ不気味で、チャイティーを飲みながらとりあえずベランダで月でも眺めていたけれど、やはり背後にある時計が気になってチラチラと目をやった。10時50分の手前、つまり10時49分。この時刻は何かの意味を含んでいるのだろうか。私はこの時間に死ぬんだろうか。単なる偶然かなんなのか。時計を新調しようとするも、どこの店も閉まっていて探しに行けなかった。通販で時計は買う気がしない。この目で見て、買いたい。それまで、この部屋はずっと10時49分のままだ。(動く可能性もある)

昨晩恋人に「なぜ私たちは会ってもスキンシップも取らなければ話もしないのに、こうしてライン上では会話をしているのか」という、答えに窮するようなメッセージを送ってしまった。今思えば、話はしているし、話したくない時には話していないだけだ。以前にもこういう内容のメッセージを送ってしまったことがある。そもそも私には、ラインをする相手もこの人くらいしかいないというのに。それに意味のないことを私のほうが送って、些細なことを報告するのも私だというのに。朝方、「散歩しようか それとももうライン上で会話することもやめようか とどちらを送るか悩んでいる間に数時間が過ぎていた おやすみ」という返事が届き、そして私は反省して彼にメッセージを送ったが、案の定何も返ってこなかった。彼と話がしたい。私には話し相手がいない。でも自分で言ってしまったことだ。仕方がない。しょうがないから、誰とも話さない代わりに、本を読んで物語の中で私は会話を楽しんだ。そしてその世界を楽しんだ。でも所詮他人が書いた物語に過ぎず、それは私の言葉ではない。彼と話がしたい。私には話し相手がいない。とても寂しい。

今日はフェリーニの『カビリアの夜』を見た。とてもいい映画だった。
「群衆の中には必ず理解者がいます。あなたの真価を知る人が」と、きらびやかな眼差しでいう人間が実は嘘つきだったということに、なぜだかとても絶望してしまった。なぜなら、その言葉を私は信じたからだ。映画のジュリエット・マシーナのように。だから彼女が崖から突き落とされそうになったとき、私もまた崖から突き落とされそうになったのだった。お願いだから殺して、と叫ぶ彼女と一緒に、私もそう叫んでいたのだった。人を信じるということはとてつもなく恐ろしい。でも、人を信じられない人間になるのはもっと虚しい。

もうすぐで日が変わる。明日になってしまうのが惜しい。時が止まり続けている部屋で時を刻むのは、時に追い越されていくみたいだ。いろんなものに追い越されてしまっている。それを月が、あそこから、いつも覗いている。



2020年05月01日(金) 深刻ぶらないこと

5月1日になったばかりの深夜1時。寝れなくて起きあがり、チャイティーを淹れてルヴァンの味がしないクラッカーをカリカリ食べている。

会社は本来休みだというのに、私以外全員が仕事をしていたらしい。私は、ひとりだけ休みの規則に従って本当に何もしていなかった。皆真面目にいそいそ働いているよりも、こういうやつがひとりくらい存在しているほうが健全だと思う。

今日はバスに乗った。バスに乗りながら辺りを見回していたけれど、人はたくさん歩いていた。駅について本屋に行き、本を買った。その足でパン屋に行って、くるみパンとシナモンロールを買う。家に戻ると虫が出た。ダスキンのG駆除業者に電話をし、来週の朝一で来てもらうことに。除湿機を引っ張り出し、ヒーターを片付けた。除湿機を回して数時間後に、花が枯れてしまった…

この部屋、虫さえ出なければ一生住めるのだけど。6畳しかない狭い部屋。この狭い部屋でひとりで過ごしている時間が好き。他人と一緒に長いこといると、知らない間につかれている。昨日までIと一緒にいたけれど、せいぜい3日か4日一緒にいるのが限界だ。何よりも、隣で寝ている時間が嫌いになってきた。何というか、夜中に時々目覚めて寝顔を見ると、苦悶に満ちた表情を浮かべているし、朝起きたときも何だか顔が疲れているので、私がそんな風にさせているとしか思えずに、一刻も早く立ち去らなきゃいけない、この布団から。と思い、そして今朝早々そこから抜け出て部屋も後にした。
ひとりでこの部屋に帰ってきて思う。やっぱりひとりでいる時間がいちばん心地良いと。


1時21分。何時頃に眠れるだろう。明日も私以外は全員仕事をするらしい。
私は好きなだけぼーっとして自分についてのあれこれを180個くらい反省してみよう。
でも、深刻ぶらないこと。物事は軽快に、足取りは軽やかに。


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左岸 [MAIL]