昼食に誰かを待つ日は

2020年02月27日(木) おおきなマスカット


おおきなマスカットが白いお皿に盛り付けられている光景を想像する。色合いがいいし、マスカットは張りがあって、とてもきれいな形だ。白いお皿は平凡なようで実は上質なお皿で、縁には同色の模様が気づかれない程度に施されている。どうしてこんな想像をしているかというと、先日図書館で借りたとある1冊の料理本(資料のために何冊か借りた)をひどく気に入って、著者の名前を検索するとインスタグラムが出てきたので辿っていると、目もくらむような彩りのサラダ、サンドイッチ、そしてフルーツがたくさん載っていて、そのなかで最も惹かれたのがマスカットだったからである。サラダの上にちょこんと盛られたマスカットがいちばん輝いて見えた。画面越しに見てこんな風に思うのだから、実際に目の前に差し出されたらとてもうれしい気持ちになるのだろう。その本を書いている人は、週末は山奥の別荘に行き、朝昼晩とたくさんのサラダやサンドイッチやスープを作り、家族や友人たちに振舞っているそうだった。素直に憧れの気持ちを抱く。こんな風に大勢に、おいしいもの、見ていてドキドキするようなものを差し出せるのはいいなあと思う。


それでさっき、部屋について、自分の食べるものの味気なさを再確認して、気持ちがやや落ち込んだ。一人で食べるもののためにあれこれ頑張る労力は、とても生まれない。最近彼の部屋で料理を作ったりもしているけれど、先日作り置きしておいたスープが一週間経ってもそのままの状態で放置してあって、さらにはサラダまでもが冷蔵庫のなかに入れっぱなしになっていて、それはそれは悲しい気持ちになったのだった。必ず食べてねとまでは言わないけれど、自分で作ったものが人の家で腐っているのを見るのは辛かった。


話は変わって、さっき「小さな夢リスト」を10書いた。夢や希望を持つことに悲観的ではあるけれど、こんな状況だからこそ小さな夢を抱かなければ、枯れてしまうような気がしたので。
私の夢は、ほぼ理想の家と化していた。おおきなお風呂、おおきな窓、おおきなベッド、おおきな台所‥(不思議と、家の外装や大きさはどうでも良い。あくまでも自分が使う場所が大事)書いていて、ちょっと滑稽だった。「おおきなベッドに大の字で横たわって、気持ちの良い風に吹かれながらひたすら眠る」というささやかな夢はいつか叶えられたらうれしい。

こんな風に書いては、ますます虚しさが募るだけ。救われないからこそ、なんでもやってしまえるような気も、するけれど。

おわり。



2020年02月22日(土) 異常に黒い麻婆豆腐

今日は神保町にてイベント。人生初めての司会だったけれど、最初から何かを言い忘れているような気がしていて、途中で肝心の自己紹介をしていないことに気がついた。こいつは何者なのだろうと思われながら、お客さんは途中まで誰だかわからない人の話を聞いていたのか。
私以外のほとんどがおそらく占い師の方々で、司会をつとめる私が完全にアウェイではあった。ほとんど事前に決めていた内容には触れずに全てアドリブで約2時間を乗り切る。それでも、多分無事に終わったと思う。
いろんな人に「司会慣れてますね!」と言われたけれど、人生で初の司会である。ただ、「無理はしない」という心情を掲げていたら、焦ったりテンパったりすることはなかった。次の質問どうしようかな、とぐるぐる考えて見つからず、それでもマイクを持てば何かを話さなければならず、そのときは頭が真っ白になったけれども、なんとかなってしまったのが本当に奇跡だと思う。私はこれを話そう!と決めるのがきっと性に合わないのだろう。即興タイプの人間らしいということを知った。

その後中華料理屋で打ち上げ。ここでもほとんど占いの話が出ていたが、何もわからない私は黙々と目の前の皿の上に盛られた料理をひたすら口に運び、そして今、お腹を壊している。今回の本でお世話になった先生がご馳走してくれた。麻婆豆腐が異常に黒く豆腐がプリンのように面積を占めていて、蓋が開いた瞬間に「わあ!」と歓声が上がるほどだった。麻婆、美味。

0時前に帰宅。明日は朝から渋谷に出向かなければいけない。何もしないでぐっすり眠る休日が欲しい。
昨晩城氏に教えてもらった岩田教授の告発動画を見たけれど、この国のトップはウイルス以前に精神含め倫理観も病理に侵されているのではないだろうか。ウイルスよりもっとタチの悪いウイルスを、彼らからどっぷり撒かれている気さえする。
ウイルス以前に精神がすでに病理に侵されているあのお方たちに、もう何の薬も効かないのだろうか。



2020年02月21日(金) 毒を薄める特効薬

今日はできる日だったと思う。そのため全然ゆっくり動いていない。脳が回転してしまうと、仕事の効率は良くなるけれどもジッとしていられなくって、カレンダーに何かを書き込んだり、常にメモをとったりして、目の前にある仕事に集中できない。そんな日だったので、この一週間のスケジュールは頭のなかで立てられたものの、目先の仕事はあまり進まなかった。明日はイベントがある。コロナウイルスが蔓延しているなか決行することは心苦しい。勝手な判断で安易に中止にすることができないけれど、個人で全てを決断できる立場であるなら、私はイベントを100パーセント中止にする。

隣の席に座るMさんから嬉しい報告。子どもができたとのことだった。穏やかなMさんだが責任感はあるので、きっと良い父親になるんだろう。

コインランドリーでビリーアイリッシュの動画を見ていた。彼女のPVをこれまで見たことがなかったので、アップされているものを一通り見ていたら、口の中から蜘蛛が出る、目から黒い涙が出る、顔にタバコを押し付けられる、といったショッキングな演出で驚いた。でも何より、すべてのPVにおいて彼女自身がぶれていなくて、一貫していた。あの特徴的な三白眼もアンニュイな表情も危うさも毒々しさも含めて。表現者という言葉が本当にぴったりしっくりくる。一歩間違えると趣味を疑われてもおかしくないはずなのに、全世界のトップに君臨し、あらゆる人たちから支持されている彼女の存在は、ちょっと想像にも及ばないくらいにとてつもない力を持っているんだろう。ライブ映像を見ると、その歌声の美しさ、独特の声質(隙間にぴったり入り込んでくるような)は完璧で、ところどころ映し出される観客は神を崇めるかのような眼差しで彼女を見つめ、そして涙を流していた。ビートルズファンを見る観客のそれと似たようなものがあると思う。(失神して倒れる人はさすがにいないと思うが)生で彼女のライブを見たい。あんなに若い女の子が、身を削って私たちに差し出してくれているものをこの目で見てみたい。でも、ビリーアイリッシュの顔にタバコが押し付けられている、黒い涙を流している映像を見ると、彼女自身が苦しく、辛いのだろうと勝手に察してしまう。見るという行為、聞くという行為、探るという行為それだけで、私たちは彼女を消費し、ムシャムシャと無意識に食べてしまっているのだから。彼女自身がコントロールできないことがきっとたくさんあるはずで、それでも外部の大きな力によっていやでも彼女は体と精神をあちらこちらに向けなければいけない。その状態で、繊細な感性をずっと保ち続けているのはさぞかし辛いだろうけれど、それがあっての彼女の歌声、それがあっての魅力だともいえる。

コインランドリーを回し終わって、この世に何も残せないという人生は悲しいと思った。
世にでることと表現することはイコールではないけれど、考える力と生み出す力は常日頃持ち続けていたい。生み出す力などなく、もうこの歳で生み出すといえば子どもになってしまうのだろうか。それすらもできなかったらば。何も残さないまま、何も生み出せないまま、灰になってしまうのが虚しいと思うのはなぜなのだろう。



2020年02月18日(火) 夢を思い描かなくても許されたい

この間、従兄弟に金を貸すため高円寺に出向いた。それまで私はダラダラと井上の家にいてゆっくり寝ていたのだが。私もついに金を貸す・貸せる立場になってしまったのかと妙な感慨に耽る。従兄弟のしんげん君は21歳で、神戸から上京し、今は彼女と高円寺に住んでいるという。神戸の親戚なら誰もがお金を貸してくれると思うのだが、それでも私に言ってきたということはよほど切羽詰まっていたのだろう。彼はウーバーイーツでのバイトを終えてそのままやってきた。タイ料理を食べて、コーヒー屋に移動し、財布から諭吉を3枚取り出して、渡す。「ありがとう、ねえさん!こっちに来て頼れる人がほんまにいなかった」とのこと。清々しいほど気持ち良くそれを受け取った従兄弟。終始彼女の惚気話を聞かされたが、弟のようで可愛げがある。困った時は助け合いの精神で(金はないけど)、頑張ろうと伝える。

その後は井上の家に再び出向く。スーパーで食材を買って帰ったが、井上は一人でたらこスパゲッティを作っていた。ということで一旦料理は保留にして、大島弓子のマンガを読んでいたらば、読み終えた直後に涙がダラダラダラダラと出てきて、気がつくと嗚咽をし、隣で井上が肩をさすったり、鼻水をかませてくれたりしてくれていた。「自分に嘘をついてる気がする」というような言葉を何度もいい、ウッウッと泣く。何をしていても泣けてくる。チョコレートを口に入れてもらって、ようやく少しおさまったけれど、とてもかき回されたのだった。私は繕っているけれど、本来強くもなければタフでもなく、少々のことで泣く人間なのである。でもそれを封印してる。お気に入りの傘を盗まれただけで泣き、自分と全然関係ない人の悲しみを想像しては泣き、道端で寂しそうに咲いている花を見ては泣き、一人でラーメンを食べているおじいちゃんの後姿を見ては泣く。でも、そんなことでは社会で生きていかれないから、いろんなことをぐっとこらえて見過ごして、強くたくましくあろうと心掛けているのだけれど、そうすることで誰かを傷つけているかもしれず、そもそもその自分が本当なのだから今の自分は一体なんなのだろうと繰り返し思い、そんなこんなで、今まで泣いていなかった分の涙が出てきたのだった。大島弓子を読むと、嘘が剥がされていくから、だから大事。まるで子どものようになってしまう。


ようやく落ち着きを取り戻してからご飯を作った。そぼろは失敗してしまった。
Netflixで「パンデミック」特集を見ていたけど、これはコロナウイルスが発生する1ヶ月前に作られた番組で、まるでそれを予知しているかのような内容でますます怖くなった。というか、コロナウイルスってもうパンデミックではないのですか?
あまりに恐ろしいことが起きているけれど、おそらく本当のことは知らされていないんだろう。こんな状況で未来に希望など持てるわけがない。それでもうっすらと、将来を思い描きたくなるのは、そうでもしなければ未来を生きていくことができないからだろうか。
子どもの頃、学校で将来の夢について、つたない字で書かされることがあった。何も知らないからこそ単純に夢を思い描けることができたのは、なんて幸福なことだったんだろう!
それでも、夢などない私でも、日常の些細な事柄に対する喜びを発見するセンサーだけはきっちりある。その積み重ねでたどり着いた先で、ゆっくりお茶でも飲んでいれたらいい。必要以上にジタバタしないこと。



2020年02月07日(金) 話すことがない

昨晩はうまく寝付けなかった。隣で眠る彼の隣で安眠ができず、むしろ思考がクリアになってしまうこの状態を冷静に見つめてみたのだが、自分の殻を作って緊張感を発してしまっていたのかもしれない。人といる時、緊張している時と緩和している時の差が、私にはものすごくある気がする。こんなにも身近な人に対して身を固めてしまうというのは物悲しい。早く眠りたくて、ヒーターの明かりをじっと見つめていたけれど、やっぱりうまく寝付くことができなかった。誰に対してもオープンで、どこにいてもニュートラルで、緊張ではなく共鳴するような人を心底羨ましく思う。

仕事は眠くて眠くて仕方がなかった。特にお腹は空いていないけれど、近くの定食屋に行って、いつものおっちゃんとおしゃべりをする。テレビではコロナウイルスについてのニュースが流れていた。
昨晩、レベッカブラウンの『私たちがやったこと』に収録された短編「よき友」を読んだ。この話は偶然にもまさに肺炎に患って苦しむゲイの男性が描かれている。私には全然フィクションには思えなかったせいか、あまりにその描写がリアルに想像できて、涙が止まらなくなってしまった。トムというその男性は、乾いた咳が止まないし、汗も出て、車椅子を強いられるそんな状況でも(そんな状況だからこそ)、心許せる友人を招いてパーティーを開く。でも、彼以外の人間はマスクを装着し、薄手の透明なゴム手袋をはめて、心なしか彼と接触するのを拒む。楽しげにしているのだけれど、もうすでに彼と彼らとでは生きている世界が違うとでも言う風に。それでも、友人たちとの時間を、限られた時間をなんとか楽しく過ごそうと振る舞うその彼の、底知れない寂しさを想像し、ちょっと引くほどに涙が出た。病人を前にした友人の、葛藤、彼と一緒にいたいのに一刻も早く離れたい、彼には逝ってほしくないけれど、彼と同じ空気を吸うことの恐怖、そのような葛藤は、肌で相手に伝わってしまうのだろう。失えるものがあるうちは、まだ幸せなほうなのかもしれない。失うものがあるというのは、まだ尊いことなのかもしれない。こういうことが今もどこかで起きていることと、明日はわが身だということ。
話はそれて、そしてコロナウイルスのニュースを見ながら食べる鯵の南蛮漬け。先日自殺してしまった日本人の男性について、店の主人と話す。
「そんな、死ななくても。死ぬ前にここに来てくれたらなあ。鯵の南蛮漬けでも、なんでも食べさせてやったのに」

仕事を終える。この間、事務所を出たのはいいが、何も持たずに帰っていることに気づいて戻ったので、それがあったせいか(毎日何かしらを忘れているのだが、鞄は初めて)「甲斐さんが何も持っていないと、そのまま帰っちゃうんじゃないかと不安になるよ」と周囲を不安にさせていたようだった。今日は、ちゃんと鞄を持ち、そして帰宅。今日は本当に寒い日だった。適当に胃袋にご飯を詰めた後で、ハン・ガン『少年が来る』の最後の章を読み終えた。なぜか途中から、書かれている言葉を口に出して読んだ。この小説家を私は尊敬しています。苦しみ抜いて書いたことが伝わるから、少しでも、その魂を感じたくて、近づきたくて、かな。声に出して読んだ。韓国文学だと、フェミニストの何かがもてはやされているけれど、そのような場所とは違うところに身を置いている気がするし、そうであってほしい。小さく、けれど誰よりも熱を持って書かれている言葉が、話があるということ、それを読めるということに感謝。大事なことは小さな声で囁かれている。
その後は李承雨の『真昼の視線』を読了。これはまだ、消化しきれていない。
「話したくないのではなく、話すことがない」(『真昼の視線』)

今朝、井上に『植物たちの私生活』を貸す。というより、私が寝ている間に持って行ってくれたようだった。



2020年02月06日(木) 火を囲って、

歯が抜け落ちる夢を見て、焦って目覚める。夢でよかった、と思う夢のひとつが「歯が抜ける夢」だ。
お昼前、新宿3丁目に向かう。著者、ライターさんで打ち合わせ。著者の女性には初めてお会いした。血の繋がっていない引きこもりの息子を育てているのだという。どうにか心を通じ合わせるために、外に連れ出したりするのだが、いずれにせよ閉ざしたままなのだという。山奥に連れ出してくれるなど、私にとっては夢のような話なのだけど。その方は教育者であるのだが、日本の、型にはめたような教育について、とても危機感を抱いているようだった。「こうじゃなきゃいけない」といった型があるせいで、子どもが本来持つ個性を殺してしまっているという。比較的自由に育てられた私は、これまで自分のやることなすことに息苦しさを覚えたことはなかったけれど、親の型にはめて育てられた子どもは、もはや感情表現すらもうまくできなくなってしまうらしい。喜び、怒り、悲しみ、基本的な感情を外に出すことができないと、素直に物事を受け取れなくなってしまう。何より、「自分」という主体がないので、自分の言葉で話すことができない。結果、引きこもって、外界と線を引いて、ゲームやバーチャルな世界に身を投じ、ますます外に出ることがなくなってしまうということだった。その子のいいところを見つけてあげないで、どうするんだろう。と言っていた。私は子どもがいないから、教育や子育てのことはわからないけれど、もし自分に子どもができたときには、とにかく子どもを所有しないように、そして手をかけすぎないように(自分でなんとかなっていくものだから)、そして良いところを世界中の誰よりも見つけてあげよう、と心に決めた。本の方針も見えてきて、このメンバーだったら楽しく仕事ができそうだ、と思って嬉しくなる。嫌なことを嫌々したくはない。


打ち合わせが終わって、会社に戻る。確定申告をしなければいけないので、同僚に片っ端からやり方を聞いていった。こういうものからなるべく逃げていたい人生だったけれど、今回は初めて挑戦してみようと思う。検索で「確定申告 とにかく出す」と検索した自分の能天気さ。(とにかく出していればなんとかなるだろう、と思う人間はたくさんいるはずだ)
終わって外に出ると、びっくりするくらい寒かった。バス停まで歩いている間に足先が、手先が、体の内部が冷えて、あまりに寒すぎたのか足の感覚がなくなって、そしてバスは全く来る気配がなく、知らないうちに涙が出ていた。
帰宅。すぐにヒーターをつけて、お湯で手を洗い、鍋の残りに卵とご飯を投入しておじやにし、それを食べる。寒いと何もかもの思考が凍って、それはそれは楽な状態でもあるのだけれど、なぜ寂しさが増幅するんだろう。著者の人が、来週息子を連れて北海道へ行き、焚き火を囲うの、くる?と言ってくれたことを思い出す。そこに行けばきっと思考も柔らかくなって、寂しくないのだろうな、と思う。火は危ない、というけれど、火は根源的に人にエネルギーを与える存在なのではないか。以前お世話になったとあるバーテンダーの男性が、一番心が落ち着くのは火を見ている時だよ、と言っていたのを思い出した。なんかね、落ち着くの。と言っていたが、それはあながち間違いではないだろう。
焚き火は囲えないけど、もし囲えたとしたら、これを聞いていたい、静かに。
U-zhaan & Ryuichi Sakamoto 「energy flow - rework」



2020年02月04日(火) 夜の夢ではない夢

mei eharaさんの曲を聴いている。『私をしも』というアルバムの、名前からして良いこと。『ある喫茶』というタイトルの曲名があって、なにもかもが静かにしっくり、くる。

火曜日。仕事。なだいなださんのブログを読んでいた。午後、西国分寺でライターのKさんと打ち合わせ。去年の暮れ、エコノミー症候群にかかって入院生活を送っていたKさんは、この症状の馬鹿にできなさを力説してくれた。なんとまあ、一歩間違えたら死に至っていたのだという。甲斐さんも気をつけたほうがいいですよ、と忠告をされる。
打ち合わせ以外の話が大半で、やっぱりなんの話をしたのか今全然思い出せない。こういうことが最近本当に増えてきている。
夢はあるの?と尋ねられて、特にありませんと答えると、「今の20代の人ってそういうものなの?」というので、「諦念感はあると思います。何かに熱心になること、あんまりないかな」と答えると、ほほうと納得しながらも驚いていた。小さな夢でもいいから、ないの?ともう一度聞かれたので、「窓が大きくて、お風呂が大きなところで暮らしてみたいです」と答える。そんなこと、叶えられるに決まっているじゃない、という。
そう言われるとそういう気がしてきて、万歳をした。でもこれ、私の中では大きな夢かもしれない。大きな植物も、置きたいし。ただし、生活は本当に小さくていいんだけれど。下手しても私生活をラッピングしてわざわざ外側に差し出す、という愚かなことはしたくない。
Kさんはよく笑う快活な女性で、元気が出た。帰りにシュークリームをいただく。

終え、帰宅。つかれて、何も考えたくなく、mei eharaさんを聞き、昨日の鍋のあまりを煮て、煮てもやはりひとり。そしてシュークリームを食べて今に至る。鍋のスープを思い切りこぼし、自分でも聞き取れないような独り言をぶつくさ言っていた。知らない間に独り言が増えているような気がしている。話し相手がいないとこうなってくるのだろうか。

昨日の夜は、レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』を読んだ。この本が昨日手元にあったことはとても大きなことだった。この本の中に自分がいたから、客観的に事を捉えることができて、拠り所がなかった精神を鎮めることができた。今日も続きを読もう。そして、よく眠りましょう。


恵方巻きを食べ損ねたよ。



2020年02月03日(月) 具を煮ても一人



日曜日。意気揚々とベリーショートにしようと美容室に行ったが、ずっと私の髪の毛を切り続けてくれているOさんに切ることを止められた。(前回も、そうだった)「このくせ毛がいい感じだから、切るのはもったいない。もうすこし伸ばしてみよう」ということになり、前髪だけすこし切ってもらい、とくにどこにも行く用事はないがスタイリングをしてもらい、20分もしないうちに美容室をあとにした。言われると、確かにこのくせ毛も悪くないなあと思ってきて、切らなくてよかったと思った。髪の毛が長い自分を知らないので、あと数ヶ月は伸ばしてみよう。吉田美奈子みたいにならないかな。


そのあとで、城くん、マツタケと東中野の喫茶店「ルーブル」にて落ち合う。この間泣きながら電話をかけてきたマツタケがすっかり元気になっていて安心。一生懸命にいろいろを話してくれるマツタケの話に、耳を傾けていた。三月にまた舞台があるというので、見に行く約束をする。その後城くんは自転車でどこかへ消えていった。最近の交通手段はもっぱら自転車だそう。腹筋が鍛えられるよ、と言っていたが顔色が悪かった。
その後で、ルーブルのすぐ近くにある珈琲館に入る。彼女はオムライスを注文し、私はアイスコーヒー。ベラベラと、煙草を吸いながら話をする。「何があってもさ、笑ってたいよね。だってさ、落ち込んでたらダメになっちゃうもんね」という。そうそう。じめじめしてたらナメクジが湧くから、たいていのことはなんとかなるんだから笑ってたほうがいいや、と返す。そうだよねえ、と、笑わずにため息をつくマツタケがおかしかった。何を話したのか、今ではもうあんまり覚えていないけれど、彼女に会うと凝り固まったものが柔らかくなってくる。店を出たあとに、「そういえば、Apple Musicに入った!」という話をするので、実は私も入ったよ!と伝える。Apple Musicは、人とプレイリストを共有できるという。でも初心者の私たちはそのやり方がわからず、道端でずっと設定をしていたけれど、最後の最後までちっともうまくいかなかった。何十分もなんやかんや言いながらやっていたけれど、何もできないで終わった。道端にいたために寒くなって、今日はもう諦めようと解散。彼女は歩いて帰って行きました。


月曜日。仕事。金曜日に頂いた菓子類で、机が埋まる。あまり楽しくない一日だったから、帰って鍋をグツグツ煮た。長ネギが甘くて「甘い」とつぶやいてみたけれど、つぶやいてもひとり。それでも別に楽しいとは言えなくて、だから掃除やら何やらもしてみた。それでも楽しくはなくて、でも身体がつかれたから、よく眠れそう。おやすみなさい。



2020年02月02日(日) 机の上に積み上げられた本

Tennis - Need Your Love

この二人が曲作りを始めた動機があまりにも素敵なため、もう何を聞いても満ち足りる。


日曜日の朝!晴れていて、部屋に日差しが入り込む。ああ気持ちいい。気持ちいい!起きて、卵のサンドイッチを作って食べ、そうしてもうやることがない。やることがないということは好きなだけ自由時間が与えられているということですから、今日は山田詠美の本をむさぼり読んで、溜まりに溜まった机の上の本をとりあえず片付けたいと思う。外に出る気力は、今のところあまりない。髪の毛をベリーベリーショートにしようかしまいか悩んだ挙句、もうすこし待つことにした。とはいえ、髪の毛が長いのは別に楽しくもなんともない。ただ髪の毛を短くすると、その後中途半端に伸びてきたときのストレスが発生するので、結んでしまえば何とかなるこの髪の長さを今のところは堪能することにする。全力のくせ毛がパーマに見えてくれることが救いである。井上は朝まで麻雀をしていたそうで、「ちょっとだけ勝った」ということ。この人は本当に人生を謳歌している。誰も井上のことを休ませてくれないのねえ、と思っていたが、おそらく彼も別に休息を望んでいるわけではないのでしょう。あの人には止まってほしくない。今夜も読書会だそうな。すこし前に、私も顔を覗かせていいかと尋ねると「うーん。それはちょっと」と渋られた。あまり交流のないひとと読書会をしていることに意味があって、ただ本のことを話して解散するスタンスがカラッとしていて良いのらしい。だからそこに身内が加わると、何かが違ってしまうということだった。心底本気で参加したいわけではなかったので、「へえ」と言って終わる。この世には、そういう会もあるのらしい。

・・・・

今机の上に積み上がっている本たち。

最相葉月『れる・られる』、シャーリー・ジャクスン『くじ』、江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』、ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』、松浦理英子『葬儀の日』、レイ・ブラッドベリ『太陽の金の林檎』、村上龍『2days 4girls』、金井美恵子『岸辺のない海』、江國香織『真昼なのに昏い部屋』、大島弓子『四月怪談』、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』、カフカ『城』、アンナ・カヴァン『氷』、ウォールデン『森の生活』、ロートレモアン『マルドールの歌』、レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』、野村沙知代『夫の転がし方』、山田詠美『トラッシュ』、金井美恵子『柔らかい土をふんで、』、多和田葉子『雲をつかむ話』、李承雨『真昼の視線』、ハン・ガン『少年が来る』、『ぶたのしあわせ』(これは最高にキュートでおしゃれで薄汚れた絵本!)

これらが棚に収められず、行き場がないまま真横に積み重なっている。一日中部屋にいることが、まったく苦痛ではないのである。そんで、今日は山田詠美と李承雨を読み終えたい。それにしても、本気のベリーショートにしたい・・・もう、髪の毛1センチくらいしかないやつ!そこらの男よりカラッと短いやつ。潔いやつ。
生まれたての人間みたいな髪の毛になって、化粧も全くせず、何にも頓着せず、サッサッサと軽やかに歩きたい。やっぱり今日、髪の毛切りに行こう。



2020年02月01日(土) 何もなかったことに


金曜日。仕事をしていないが仕事に行った。午後は社長とHさんと二子玉川に向かう。行きの電車を間違えて反対方向に進んでいたことに気がついたのは終点の一駅前。それでも呑気に電車の中でおしゃべりを続けていたのがおかしい。最近Hさんが「なまけもの」にはまっているというので、その生態について、性格について、容姿についてべちゃくちゃと話していた。なまけものは変温動物であるらしい。
着いてから、とあるイラストレーターさんと落ち合った。その場で絵を返却して終わるはずが「お茶でもどうですか」ということになり、4人でお茶。分泌物について話す。解散し、私は定期入れを無くしたことに気がついて、またもや店に戻る。そうして見つかった。
二子玉川で個人書店が出店しているというので、挨拶へ。大した挨拶はしていなくて、ほとんど自分が欲しい本を探していた。そんなこんなであっという間に時間が経ち、社長にお茶と大きなシュークリームをおごってもらって帰宅。会社には戻らずそのまま帰り、Hさんと新宿の喫茶店に入って3時間おしゃべり。

軽さの話。「どんなに何かを話しても、何もなかったことのようにしたい」と言う。
それを目指したいと。Hさんは、会話をしても何も積み上がっていかない同居人ともう4年も生活をしているらしいのだが、それでも未だに白紙の状態であることに安堵を覚えているようだった。積み上がっていかないということ。その軽さ。それが良いのだと。なるほど、私はどうだろう。
臭みが出ないためにはいつでも軽くある必要があるそうだ。たくさん話したけれど、結局今もうほとんどのことを覚えていない。これは軽さと呼べるのだろうか。Hさんはダンサーでもある。言葉がうまくはなせなかったとき、身体を使っていたほうが饒舌だったという話が良かった。彼女はとてもピュアなので、対面しているととても気持ちいい。風通しの良い人間が好きだ。


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左岸 [MAIL]